Black and Black 8

「あの病気って、一回発症したら二度と起こらないんだと思ってました」

「亮輔さんが言うには、感染しても発症までいかないだけなんだって――高齢になると免疫が効かなくなって、再発症する例もあるんだって教えてくれた。だからヘルペスって高齢の人に多いのね」

 それってつまり、まだ若い恭輔はともかく忠信は下手すれば感染して帰ってくるのではないだろうか?

「あ」 なにに反応したのか、蘭が壁越しに老夫婦の自宅に通じる扉のほうに視線を向けた。続いてフィオレンティーナも気づいた――というより、彼女の場合は、単に吸血鬼化の過程で鋭敏化した聴覚が直接拾ったのだが。

「おじいちゃんちの電話が鳴ってる」 蘭がそう言って、扉を開けて出ていく。

 なりかけヴェドゴニヤとはいえ吸血鬼の自分よりも早く着信音に気づくというのは、正直驚きだった――さすがに話声は明確に聞き取れなかったが、やがてバタバタバタという足音とともに、蘭が扉を開けて顔を出した。喜色満面といった明るい表情で、

「お母さん、マリツィカおばちゃんからだったよ」

「あら、なんて?」

「赤ちゃん出来たんだって」

「ほんと?」 パッと顔を明るくして、凛が歓声をあげる。凛はそのままちょっと広いほうに移動して、蘭と手をつないでぐるぐる回り始めた。その様を見遣ってから、フィオレンティーナはデルチャに視線を戻した。マリツィカといえば、昨日老夫婦との会話の中でデルチャの妹として名前が出ていたはずだ。

「妹さんでしたっけ」

 そう尋ねると、デルチャはテーブルの上に頬杖を突いた。彼女は老夫婦のところに行くつもりでいるのか、騒がしくしながら事務所を出て行った娘たちを見送って、

「そう。旦那関連で苦労してたけど、やっと落ち着けたみたいで安心したわ」

「苦労?」 首をかしげると、

「あの子、今二回目の結婚生活なんだけどね。最初の旦那の両親とか兄弟に、外国人だからってずいぶんいじめられたみたいでね――ストレスで子供も出来なくて、それでまたいじめられて。遠くだったから相談出来なかったんだと思うけど、たまたま『狩り』の帰りに顔を見に行ったアルカードが、虐待それに気づいて連れ帰ってきてくれたのよ」

 当時を思い出しているのか、遠い眼をしてそう語ってから、デルチャは続けた。

「孝輔さんのところの綾乃ちゃん、今は仕事をしてないんだけど、あの人弁護士でね――知り合いで離婚に強い人を紹介してもらって、慰謝料もらって離婚したんだけど。二回目の結婚は恭輔の親戚で、旦那さんもご両親もいい人でうまくいってるわ」

「アルカードが、ここまで妹さんを連れ帰ってきたんですか?」 フィオレンティーナが尋ねると、デルチャはうなずいた。

「ええ。アルカードはあの件のときは、本当に親身になってくれたわ。ぼろぼろのマリツィカを見て、本気で怒ってたからね」

「……あの人を信用、してるんですね」

「ん? まあねー」 デルチャが頬杖を突いたまま首肯してくる。

「アルカードは絶対にわたしたちを裏切らないからね」

 妙な確信に満ちた言葉に顔を上げると、デルチャは穏やかに苦笑しながら、

「裏切らないというより、と言ったほうが正しいのかしら――たぶんアルカードはね、自分を信頼してる相手を裏切ろうなんていう思考が出来ないんじゃないのかと思うのよ。アルカードは自分に信頼を寄せる相手を裏切ったり、見棄てたりしようなんて考えもしないと思う――たぶん、もうそれしかんでしょうね」

「『残ってない』?」

 フィオレンティーナが尋ね返すと、デルチャは頬杖をやめてちょっと神妙な表情を作り、

「アルカードは貴族階級だから、育ててくれた養父に自分を頼ってくる者を見棄てるなって教育されてるからね――自分の養父を誇りに思うなら、なおのことそれをないがしろには出来ないでしょうし。自分が守らないといけないものは全部失ったから、養父を誇り続けるために、もうすがるものがその教えを守り続けることくらいしか残ってないんだと思う」

 そこでデルチャが言葉を切る――反応を待ってかこちらを注視しているデルチャにどう返事をしていいものか迷ったとき、その逡巡を粉砕するかの様にデルチャが再び口を開いた。

「アルカードが憎い?」 いきなりそう話を振られて、フィオレンティーナは物思いにふけりかけていた思考を現実に引き戻した。

「え?」

「ごめんなさいね――凛と話してたこと、聞こえてたのよ」 豊かな髪を掻き上げる様な仕草を見せて、デルチャがそう言ってくる。

「いいえ」 フィオレンティーナはかぶりを振った。

「気にしてません。それに――状況からしてどうしようもなかったのは、わかってますし。ただ――いずれアルカードがドラキュラを殺して目的を遂げたときに、わたしに父親の仇として自分と戦うかどうか決めろって言ってました。それをどうするべきなのかなって」

「別に今決めなくてもいいんじゃない?」 テーブルの上に両手で頬杖を突いて、デルチャがそう答えてくる。

「悩むのはわかるけど、アルカードと戦うべきかどうか決めかねてるなら、もうしばらく相手を見極めてもいいんじゃない? 吸血鬼だからっていうのを抜きにしてアルカードの人間性を見て、それでもやっぱり戦わないといけないと思うなら戦えばいいし、必要無いと思うんだったら戦わずに、そうしたいと思うなら友達づきあいでもすればいいんじゃないかしら。少なくとも、エルウッドさんのところは親子全員、そうしてアルカードとつきあってきたわけでしょう?」

 それはそうかもしれないが――返事をしかけたとき事務所の扉が開いて、ちょっと重めの空気を吹き飛ばす様な賑やかさで凛と蘭が戻ってきた。

「お母さん、おじいちゃん喜んでたよ」

「きっとそうでしょうね。ちゃんと厨房に入らないで声かけた?」

「うん」 デルチャが確認すると、蘭が素直にうなずいた。どうやら厨房には立ち入らないという取り決めになっているらしい。

「アンお姉ちゃんたちにも教えてくるね」 そう言って、止める間も無くふたりの子供たちは再び廊下に出て行ってしまった。

「止めなくても大丈夫でしょうか」

「う~ん、お店には出ていくなって言い聞かせてあるからたぶん大丈夫」

「ところで――」 なんとなく話を続ける空気でもなくなってしまったので、フィオレンティーナは話を元に戻した。

「それで、最初のご結婚の相手はどうなったんですか?」

「マリツィカの? さあ――何年か前の新聞の朝刊に、公務員だった父親が定年の三ヶ月前に公金の横領が発覚して起訴されて懲戒免職になったって載ってたけどね」 デルチャはそう言ってから言葉を選ぶ様にちょっと考えて、

「これは風の噂だけど、自営業だった旦那は会社の脱税が露見して逮捕、母親は三人の息子が全員父親が違うことがばれて修羅場になって自殺未遂、一応助かったけど一生寝たきり、一緒にマリツィカをいじめてた残りの息子ふたりのうちひとりは業務上の横領と、社内での部下いじめを告発されて懲戒解雇と刑事告発、もうひとりは内定が決まってた会社にいろいろやってたことを通報されて内定が取り消しになったって。まあ報道されるちょっと前にアルカードがいろいろ動いてたみたいだけど、詳しいことは知らない」

 それってつまり、アルカードがその一家を追い込んだんじゃ……?

 胡乱そうな顔をしているフィオレンティーナに向かってデルチャは肩をすくめて、

「あくまで風の噂、よ。アルカードが公金横領や脱税の証拠を伝手を使って集めてるところなんて、わたしは見てないわ。あとちょっとで定年退職して年金生活っていうタイミングぎりぎりまで待ってたことも知らない。横を向いてたから」

 つまり、見ないふりをしていたということなのだろう――思考が表情に表れていたのか、デルチャが適当に手を振った。

「まあ、やり方に問題はあるかもね。でも、わたしたちとしてはそれを咎める気にはなれないわ――あの子、家庭内暴力に遭って右耳が聞こえなくなったもの。殴られて歯も折られたし、今でも消えてない傷跡もあるしね。それを思えば、まだ甘いと思ってる」

「あ、いえ、別に問題だと思ってるわけじゃないです。自分の妹が同じ目に遭ってたら、わたしも同じ様に思うでしょうから」 あわてて手を振ると、デルチャは脚を組み変えながら、興味深げに聞いてきた。

「妹さんがいるの?」

「もう亡くなりました」 かぶりを振って、フィオレンティーナはそう答えた。

「もう何年も前の話です。吸血鬼に家を襲われて、両親と一緒に亡くなりました。生き残ったのはわたしだけです」

 デルチャはそれを聞いて、しばらくぽかんと口を開けていたが、やがてあわてて謝罪の言葉を口にした。

「ごめん、軽率なことを――」

「いえ、別に。昔の話ですから」 そう返事を返して、フィオレンティーナは紅茶に口をつけた。

 思えば不思議なものだ。家族の復讐を決意して聖堂騎士団に身を寄せ、吸血鬼との戦いに身を投じたフィオレンティーナだが――家族のひとりを殺したアルカードがその父親の願いで父を殺した吸血鬼と戦ってフィオレンティーナを逃がし、今になって今度はカーミラに殺されかけているフィオレンティーナを助け出して自分の庇護下に置いたのだから。

 物思いに耽りかけたフィオレンティーナの思考を現実に引き戻したのは、背後から聞こえてきた扉の開く音だった。

「あれ? デルチャ、遊園地に行くんじゃなかったのか?」 入ってきたアルカードが、デルチャとフィオレンティーナを見比べてからそんな疑問を口にする。

「おかえりー……って、どうしたのそれ」

 デルチャがアルカードの顔を指差して、そう声をかける――なぜか知らないが包帯がネット状のものに変わっていて、こめかみのあたりにガーゼが増えている。その感触が馴染まないのか、アルカードは後ろ手に扉を閉めながらちょっと不快そうに眉間に皺を寄せ、

「これか? 例の犯人の父親に、今度は殴られてね」

 え、と声をあげるフィオレンティーナに、吸血鬼は曖昧な微笑を向けた。

「殴られた怪我、大丈夫なんですか?」 喉が渇いたのか冷蔵庫の扉を開ける吸血鬼の背中越しにフィオレンティーナが声をかけると、

「んー、傷自体はたいしたことないが、まあ痛いといえば痛い」 こめかみにテープで固定されたガーゼを指差して、アルカードはそう答えてきた。

「この際連中が暴れれば暴れただけ連中の罪状が積み上がるだけだから、やるだけやらせようと思ってな。ただ、凶器で殴りつけてくるのは予想外だった――思わず反撃しちゃったよ。怪我の程度で言えば、まあ爺さんのほうが心配だな――さすがに死にはしないだろうから、出来れば深刻な後遺症が残って、寝たきりにでもなっててほしいが」 まあ、死んでたほうが無駄金がかからないから社会のためだがな――彼の定位置になっているノートパソコンを置いた机のキャスターつきの椅子を引きながら、アルカードがデルチャの言葉にそんな返答を返す。

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