Evil Must Die 2
†
さて――扉をくぐるためにいったんたたんだ傘を再び開き、アルカードはカーボン製の握りを握り直した。
店には臨時休業の張り紙を出したし、凛と蘭は両親と一緒に家に帰った――というよりも、普段が車で五分の祖父母の家に預けられているだけなのだが。
出かける用事も無いし、仔犬たちを連れてどこかの公園にでも行こうにも雨では犬が出かけたがらない――正直なところ、雨が降り始めた途端にまるで今にも死にそうな悲痛な鳴き声をあげていた犬たちの姿を思い出すと、外飼いをする気には到底なれない。
窓硝子越しにこちらの姿を見つけたソバが一声鳴き、それでこちらに気づいたウドンとテンプラも一緒に窓際まで寄ってくる――窓硝子に阻まれてこちらに近づけないからだろう、テンプラが硝子に前足をかけて苛立たしげに鳴き声をあげる。
それを見遣ってちょっとだけ笑い、足を速める――倉庫の横に設置してあった犬小屋は今朝の段階で部屋の中に入れてしまったため、庭にはもう足代わりにしていたコンクリートブロックしか残っていない。
電撃殺虫燈だけが外に吊るしておいても問題無いので、雨避けの下でそのまま残っている。
アパートの表に廻り込んだところで、見慣れた赤い傘が隣室の扉のそばに立て掛けられているのが視界に入ってきた。
「アンさん、帰ってきたんですね」 足を止めたパオラが口を開く。最後に会ったのは一週間くらい前だったと思うが、沖縄に旅行に行ったアンが帰ってきているらしい。そういえば今日で帰ってくるはずだった。
「そういえば、お店が休みだって知らせたんですか?」
「一応メールで」 パオラの質問に、簡潔にアルカードは答えた。
「店が開いてても閉まっててもどのみちあいつは今日休みだから、関係無いと言えば関係無いんだが――休みだってことだけ簡単に知らせておいた」
あとで昨日お嬢さんが買い込んだ土産物でも分けてやるか、と独りごちる――昨夜飲み会が終わったあとで犬を散々かまっていった恭介、忠信、デルチャにも大量の名産品を持たせたのだが、それでもまだ結構な数が残っている。
本当は半分くらい持たせたかったのだが、さすがにそれは拒否されてしまった――まあ無理もないが。
幸いなことに一部を除いては日持ちのするものばかりなので、手元に置いておいても問題無い――差し当たっては天金のラーメンとチーズスフレだけは、さっさと消費する必要があるだろうが。
店の事務所に放り込んでおけば小腹のすいた連中が適当に消費してくれる、かな――そんなことを考えながら、アルカードは部屋の鍵を取り出した。パオラが脇を通り過ぎて、自分の部屋のほうに向かって歩いていく。
それを見送って、アルカードは玄関の鍵穴にキーを差し込んだ。マルティロックのディンプルキーはアルカードの知る限りみんなそうなのだが、最初は抵抗があってあとは滑らかに入っていく。
玄関口の造りつけの靴箱の上に手にしたブレーキパッド三点――オートバイのフロントブレーキは左右二個あるが、たいてい左右セットではなくばら売りされているので、前後のブレーキパッドを全部用意しようとすると三点になるのだ――を置いて、靴を履き替えるために靴紐を解きにかかる。
仔犬たちはリビングできゃんきゃん鳴いているが、リビングのドアが閉まっているために出てこられないらしい――餌も食べさせたしトイレは自分で勝手に済ませるから、単に遊びたいのだろう。まあ、こいつらは散歩に連れ出してやると不意にじゃれ出して時間を喰ったりするので、家の中で互いにじゃれてくれているほうがアルカードとしてもいろいろはかどるのだが。
吸血鬼狩りをしようにも、今現在はほとんど情報が無い――すっかり影の薄くなった警視庁特殊現象対策課は内部に吸血鬼信奉者が入り込んでいたことが露見して解体の危機に瀕しているし、支援体制が統合された直後ということで教会の情報部の動きも鈍い。
アルカード自身が個人で情報を収集するとなるとせいぜい新聞記事から胡散臭そうなものをピックアップするくらいしか出来ないので、今現在アルカードの索敵能力は極端に低下しているのだ。
今日一日なにをしようかと思案しながら室内用のブーツに履き替え、ボールでも転がしてやろうと靴箱の上に置いてあったビニール製のボールを取り上げる――非常時にすぐ行動を起こせるからという理由で、五世紀以上前から入浴時以外はずっと靴を履いて平服のままでいるのが習慣になっている。あまりにも慣れすぎているせいか、靴を脱いでいると落ち着かないのでフローリングの上にわざわざアメリカから取り寄せた靴文化圏用の絨毯を敷いて生活しているのだ――おかげではじめて仔犬たちがこの部屋に来た日、粗相をされたときは後始末が大変だったが。
ボールを指先でくるくると回転させながら、リビングの扉を開けて中に入る。
扉の可動範囲に犬がいることがあるのでゆっくりと扉を開けて中に入ると、犬たちが足元にじゃれついてきた。足首に抱きつく様にして尻尾を振っているテンプラを見下ろして、その場に膝をかがめる――手にしたボールを少し勢いをつけて転がしてやると、ボールがお気に入りのソバとウドンがうなり声をあげてボールに飛びかかった。
差し出した指先をぺろぺろ舐めているテンプラの頭を反対の手で撫でてやり、そこでアルカードはふと思いついて立ち上がった。
そういえばこないだ、犬用クッキーのレシピをインターネットからプリントアウトしてあったはずだ。ビーフジャーキーばかりというのは地味に金がかかるし、カロリー高くて太りそうだし、試してみるか。
そういえば全然甘くなくて、香辛料で辛いクッキーとかが美味いって書いてあったな――酒のつまみになるとか書いてあったはずだ。
来客の予定も無いし自宅に持ち帰る様な仕事も無いしメンテナンスが必要な武器も車輌も無いし、今日はそれで時間を潰すか。
胸中でつぶやいて、デフォルメされた人参の形をした磁石で冷蔵庫のドアに留めた、コピー用紙にプリントアウトしたレシピに視線を投げる。
材料は薄力粉とゴマと水。どうやら調味料の類は一切使わないらしい。
薄力粉はともかくゴマが無い。単なる小麦粉の塊では面白みも無いし、買いに行くか――胸中でつぶやいて、アルカードはボールを抑え込もうとしてはひっくり返っている犬たちに視線を向けた。バスケットボールの三分の二くらいの大きさがあるので、前肢で抑え込もうとしても転がってひっくり返るだけだ。
硲西交差点のコンビニまで行って帰ってくるまでの間くらいなら、放っておいても別段問題無いだろう――アルカードは廊下に出ると、再度ブーツを履き替えるために靴紐を解きにかかった。
*
全身から生えたどす黒い触手をうぞうぞと蠢かせながら、巨大な蜘蛛がアルカードのほうに向き直る。
アルカードは動きを見せていない――無論こちらに背中を向けているのだから表情は知る由も無いのだが、気配にまったく動揺が感じ取れない。
へたり込んでいるデルチャたちに近すぎると判断したのか、アルカードは数歩前に進み出た――次の瞬間、アルカードが蜘蛛に照準していた銃の引鉄を引く。アルカードの手にした特異な外観の散弾銃が、立て続けに火を噴いた。
だが、その銃撃が蜘蛛に届くことは無かった――唐突に石畳を突き破ってアルカードの眼前に屹立した巨大な触手が、その銃撃をすべて受け止めたからだ。
どうやらアルカードやデルチャの位置から死角になっている場所から触手を地面に喰い込ませ、地中を掘り進んでアルカードの足元まで肉薄させていたらしい。
銃撃を受け止めた触手が一瞬ではあったが大きく膨れ上がった様に見え、着弾の衝撃で表皮が裂けてどす黒い液体が噴き出す。
まるで周囲の虚空からにじみ出る様にして集まってきたキラキラと輝く金色の粒子が、銃弾を受け止めた触手に流れ込み――次の瞬間一瞬激光を発したあと、傷口は何事も無かったかの様に元に戻っていた。
「ふん……復元能力はまずまず」
自分の攻撃が徹らなかったことにさして戸惑った様子も無く、アルカードがそんなつぶやきを漏らす。
アルカードは一瞬重心を下げる様な動作を見せて、そのまま横に跳躍した――ドズンという音を立てて、頭上から降ってきた触手の先端が石畳に深々と突き刺さる。先端に生えた巨大な爪が石畳の下の地面をえぐり、直径一メートルの穴を穿った。
石畳に突き刺さった爪を引き抜いた触手が、石畳の表面をなぞる様にしてアルカードの立っているあたりを横薙ぎに薙ぎ払う。勢い余った触手がそのまま、近くにあった手水屋を薙ぎ倒した。
御神木の
攻撃を受けたはずのアルカードはというと、少し離れたところで平然と突っ立っている。一体どれだけの反応速度と身体能力を以てすればあの攻撃を回避しうるのだろうか、アルカードの表情には静かな余裕が窺えた。
そのアルカードの背後で、轟音とともに地面が弾ける――ひとかかえもある様な御神木を根こそぎ薙ぎ倒し、地面を突き破って巨大な触手が屹立した。
太い触手が鞭の様にしなって、アルカードの立っていたあたりを轟音とともに叩き潰す。
うなりをあげて肉薄する触手を易々と躱し、金髪の青年が手にした散弾銃を据銃する――狩猟が趣味の神城忠信の家で見たことのあるオートマティックの狩猟用散弾銃をふたつくっつけた様な特異な外観の水平二連の散弾銃が、轟音とともに火を噴いた。
蜘蛛の八個ある巨大な目のひとつに銃弾が突き刺さり、次の瞬間爆発が起こる。あらかじめ弾頭に爆薬でも仕掛けてあったのか蜘蛛の顔面が破裂し、びちゃびちゃと音を立てて汚らしい色の血と肉片が飛び散った。
「――ッ!」 それが蜘蛛の悲鳴なのだろう。くぐもった聞き取りにくい絶叫をあげながら、蜘蛛がその場で崩れ落ちる。
「そうやって無駄に大きな肉体を構築する奴はちょくちょく見かけるがな――」 アルカードがさも馬鹿にした様に鼻を鳴らす。
「――肉体を大きく作ったら自重で動きが鈍くなるし、そもそも
「おのれ……おのれぇッ!」
毒づきながら身を起こす蜘蛛のずたずたになった顔面に、周囲の地面からまるで湯気の様に立ち上った金色の粒子が流れ込んでいく――次の瞬間、蜘蛛の顔面は何事も無かったかの様に修復されていた。
先ほどと同じだ――否、今気づいたが、蜘蛛の足元の地面がまるでアイス屋で丸くアイスをえぐり取るスプーンでえぐられた様に、丸いクレーター状に消滅している。
だがそれがどういった現象なのかと考えをめぐらせる暇も無く、巨大な蜘蛛の振るった蚯蚓の様な環節を持つ触手がうなりをあげてアルカードに襲いかかる――金髪の青年はさして気構える様子も無く、わずかに膝を落とした。
ズガンという音とともにアルカードの背後にあった狛犬が直径二メートルはありそうな触手に叩き潰された――どす黒い粘液を撒き散らしながら狛犬を押し潰した触手が引き戻されたあとには、金髪の青年の存在を示す痕跡はなにも無い。
十五メートルも離れた鳥居の笠木の上に、アルカードが腰に片手を当てて突っ立っている。いったいどうやってあの一瞬で打擲から逃れたのか、金髪の青年の身に纏ったコートには汚れひとつ無かった。
「おのれ、ぢょごまがど……!」
聞き取りづらい声で毒づきながら、巨大な蜘蛛がアルカードに向き直る。
唇をゆがめて嘲弄もあらわに鼻で笑い、アルカードは鳥居の上から飛び降りた。石畳の上に降り立ち、コートのポケットに突っ込んでいた左手を抜き出す。
抜き出した左手で保持しているのは、赤い装丁の小さな本だった。胸の前に翳した本がひとりでに開いて、パラパラとページがめくれていく。
金髪の青年が拳を握ったままの右手をまっすぐに伸ばした瞬間、右手の指の隙間から太陽を閉じ込めたかのごとき強烈な激光が漏れた。
アルカードが握り込んでいた拳を、徐々に開いていく。
そして次の瞬間、完全に開かれた右手の掌から激光があふれ出した。青白い強烈な閃光が、轟音とともに視界を塗り潰す。
閃光で潰れた視界が再び開けたときには、周囲の様相は一変していた。眼前の蜘蛛の巨体が半分以上ごっそりと消滅し、射線上にあった雑木林が焼き払われて轟々と炎を噴き上げている。
「――ふむ。やっぱりこの角度じゃ、一度に全身焼き払うってわけにもいかないか」 下ろした右手でがりがりと頭を掻いて、アルカードは手にした本を再びポケットにしまい込んだ。
「まあ別にかまわんが――こんな街中で本気で撃ったら、あとあと面倒だ」
体の上半分がほぼ消滅した蜘蛛がまだ死んでいないのか、残った半身をびくびくと蠕動させている――周囲の虚空からにじみ出る様にして集まってきた金色の粒子が、蜘蛛の体を再び再構築し始めた。
「……ほう」
その光景を目にして、アルカードが感心した様に眉を上げる。
「
あっという間に全身を復元して、蜘蛛が水中でしゃべっている様な濁声をあげる。アルカードはその濁声に顔を顰めながら耳の後ろを小指で引っ掻いて、
「さっきから貴様はそうやってぎゃんぎゃんわめいてばかりだな。復元能力はそれなりに高い様だが、今のでどの程度魔力を使った? 魔力の動揺が落ち着くまでどれくらいかかる? 今の復元速度をいつまで維持していられる? あと何回、今の復元能力を保っていられる? あとどれくらいで――死ぬ?」
アルカードの言っていることは半分も理解出来なかったが、とりあえずわかったことがひとつ。
あの巨大な蜘蛛よりも、アルカードのほうが強い。
「
「今までの人生で何回目だろうな、その科白を聞いたのは――実現したことはただの一度も無いが」 平然とそう返して、アルカードが唇をゆがめて笑う。
「で――貴様はその発言を実現する見込みはあるのか?」
「
「
「どうやら見込みは無さそうだな――ギャーギャーわめいてその小汚い触手を振り回す以外に芸が無いのか?」 心底馬鹿にしきった表情でそう吐き棄てて、アルカードが軽く右手の指を曲げる。
「無いなら――そろそろ殺すぞ」
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