Ogre Battle 41

 

   ‡

 

「そう、ですね――仲良く出来ればいいんですけど」

「大丈夫だよ。お姉ちゃん可愛いし、にこにこ笑ってればいいと思う」

 凛がこちらの背中に回した手を肌の上でそっと滑らせる。少しくすぐったく感じて、フィオレンティーナは凛の両肩に手をかけて彼女の体を引き離そうとした。

 凛が離れようとする気配が無いので、フィオレンティーナは彼女の名前を呼んだ。

「凛ちゃん?」 名前を呼ばれても返事はしないまま、凛がぺたぺたとフィオレンティーナの背中を撫で回して小さく笑う。

「お姉ちゃん、背中奇麗だよね」

「え?」 問い返すよりも早く、背中や腰やお尻をぺたぺたと撫で回されて、フィオレンティーナはびくりと体を硬直させた。実はかなりくすぐりに弱いフィオレンティーナは反射的に振りほどかない様にするのが精いっぱいで、凛が楽しそうにそこらじゅう撫で回してくるのに抵抗する余裕が無かった。

「ちょっと、凛ちゃん、やめ――」

「えへへー。お姉ちゃん柔らかーい」 フィオレンティーナの抗議の声を受け流し、凛がなおも体を撫で回す。その愛撫が脇腹や太腿、胸に及んだところで、たまりかねてフィオレンティーナは半ば強引に立ち上がった。

 あーあ、とちょっと残念そうな顔をする凛に向かって、

「お姉ちゃんはもうお風呂出ますね。凛ちゃんものぼせる前に出ないとだめですよ」

 そう告げてから水のシャワーで火照った体を覚まし、そそくさと脱衣所に出る――これ以上じゃれつかれていたら、堪え切れなくなって振り払って怪我をさせてしまうかもしれない。それに、凛がおかしな嗜好に目覚めてしまっても困る。

 凛もそれ以上浸かっている気は無いのか、あとを追って脱衣所に出てきた。

 凛が濡れたままの体で着替えに手を伸ばしたので、慌ててそれを止める――バスタオルを一枚体に巻いてやって、別の柔らかいタオルで髪に残った水分を拭き取ってやりながら、自分もパオラやリディアの様に髪を伸ばしてみるべきだったかと、フィオレンティーナはちょっと後悔した。聖堂騎士団としては吸血鬼に掴まれることがあるので短髪を推奨しており、その意味ではパオラやリディアのほうが問題なのだが。

 子供のころからずっと髪を伸ばそうと考えたことは無かったから、髪の手入れなどよくわからない――ひととおりのことくらいは覚えておいてもよかったのかもしれない。

 そんなことを考えながら、フィオレンティーナは凛の体から水を拭き取ると、彼女の替えの下着に手を伸ばした――そこで手を止める。

 近くで物音と声が聞こえる。

 パオラと蘭の声は天井越しに聞こえてきている――天井が薄いというわけではないだろうから、アルカードの言うとおりフィオレンティーナの聴覚が鋭敏になってきているのだろう。水音らしき音も聞こえてくるから、まだ風呂から出ているわけではないらしい。

 物音は水平方向から聞こえてくる――つまり一階だ。

 泥棒……?

 フィオレンティーナは手にしたタオルを凛の頭にちょっと強めに押しつけてから、

「凛ちゃん、しばらくここにいてください。わたしが出たらお風呂場の鍵をかけて、わたしが呼ぶまで絶対出てきちゃ駄目ですよ」

 フィオレンティーナの表情からただならぬ雰囲気を察したのか、凛がこくこくとうなずいた――小さくうなずき返して、音を立てない様に注意して脱衣所の引き戸を開ける。

 ろくに水気も取れていないままタオル一枚体に巻いただけの自分の格好に苦笑して、フィオレンティーナは廊下に出た。フローリングの廊下は滑りやすいので足拭きマットに足裏をなすりつける様にして水気を取り、そっと硝子戸を閉める。

 背後で凛が硝子戸の鍵をかけるカチャリという音を聞きながら、素早く周囲の様子を窺う――食器を扱っていると思しきかちゃかちゃという音が、台所のほうから聞こえてきていた。

 鼻歌の様な声も聞こえてきている。壁紙に左手をそっと触れさせてから、フィオレンティーナは忍び足で台所に向かって歩き始めた。

 どうやって侵入したのだろう――老夫婦宅に入った時点で、家の戸締まりはきちんと確認したはずだ。この家の鍵はアパート同様すべてマルティロック製のピッキング不可能な穿孔ディンプルキーで、午前中に出かけるときにアルカードが戸締まりを確認し、フィオレンティーナは念のためにお風呂に入る前にすべての扉の施錠を確認して回った。

 店のほうも、ちゃんと施錠はしてあったはずだし――

 老夫婦の店にはこの家から直接入ることが出来るが、閉店時は念のため自宅側から扉で隔離され施錠されている。扉には鍵穴が無く、自宅側からしか施錠出来ない代わりに店側から開けることも出来ない。

 アルカードは店と自宅がつながっていることを知っている――店と自宅を区画する扉がきちんと施錠されているかわからないからだろう、彼は店と自宅の一体化した建物を一周して一階と二階それぞれの玄関、店の出入り口や荷物の搬出口まですべての出入り口を確認していた。

 四人は――蘭と凛の部屋、つまりふたりの着替えが二階にあるという理由で二階の玄関から建物に入り、最後に入ったフィオレンティーナが扉を施錠した。ちゃんと取っ手を廻して開かないことを確認したので、施錠出来ていなかったということはあり得ない。

 それに泥棒だったら妙だ――いったいどうして、泥棒がキッチンで水を使う? 台所に貴重品を置いて出かけるとは考えにくいから、まっとうな泥棒ならもっと別の場所から家捜ししそうなものだ。

 それとも、水を混ぜて使う泥棒の道具でもあるのだろうか。

 この家には据え付け式の金庫があって、そこに店の売上金を収めておく金庫の鍵や土地の権利書などの財産が入っていると聞いている――店の金庫の鍵はアルカードと老夫婦がそれぞれ一本ずつ持っていて、アルカードが出勤しているときは彼の鍵で金庫を管理しているらしい。

 どのみちアルカードが出勤している日は彼がその日の売上金を銀行に預けに行くので、ほとんどの場合店の金庫にはたいした金額は残っていない。

 だが翌日の釣銭その他は用意しておかないといけないから、まったくゼロというわけでもない。ゆえに、金庫を狙わないと考える根拠は無い。

 水と混ぜて使う金庫破りの道具でもあるのだろうか――強酸でも作って扉を溶かすとか。

 そう考えて、フィオレンティーナはかぶりを振った――翌日用の釣銭程度の金額なら、手間に見合わないだろう。否、なにも泥棒の狙いは店の売上ばかりとは限らない――老夫婦の財産は、店の金庫の鍵と同じ金庫に収められているのだ。老夫婦の署名の入った権利書や登記所のたぐいはともかく、別にそれが無かったら民家にお金が無いわけでもないし、子供ふたりを狙った変質者という可能性もある。

 廊下の壁際に置いてある、鉄製の花瓶に手を伸ばす――内側だけ防錆用に琺瑯ほうろう加工が施された、ずっしり重い花瓶(壺?)だ。花は生けられておらず、中身も空だ――特に老夫婦は室内で花を生ける習慣は無いから、純粋な調度品か対暴漢用の鈍器かのどちらかだろう。もっとも老夫婦が使うには重すぎるから、調度品である可能性のほうが高いか。

 相手がひとりなら、自分ひとりでもどうとでもなる――武装していても問題無い。もし侵入者が銃を持っていても、フィオレンティーナは刻印魔術を励起させれば

 問題はこの格好くらいだが――

 胸中でつぶやいたところで廊下の角に到達して、フィオレンティーナは足を止めた。

 家の造りがしっかりしているのか、多少体重がかかった程度で床がきしんだりはしない――それはまあ助かることではある。廊下の照明も落ちていたが、吸血鬼化の影響と生来の目の良さで夜目の利くフィオレンティーナにはまったく苦にならない。

 今のところ、キッチンから聞こえる鼻歌は途切れる気配は無い――むしろだんだんヒートアップしてノリノリの感じになりつつあった。

 ダイニングとつながっているらしいリビングの扉の脇に身を顰めて中の様子を窺う――リビングの扉はフレーム状の扉に硝子が何枚か嵌め込まれたもので、リビングの照明が点燈しているために向こう側の光が漏れている。水音はまだ聞こえていた――つまり、侵入者はキッチンの中にいる。

 アルカードの部屋のシンクの水道はキッチンカウンターと正対してリビングのほうを向いているが、前に一度招待されたときに見た限り、老夫婦の家のキッチンのシンクはダイニングやリビングに背を向けて壁側に設けられている。使

 そっと扉を押し開けて、中の様子を窺う――泥棒にしてはずいぶんと堂々としている。

 カーテンが開け放されているために、窓硝子にリビングの様子が映り込んでいる――キッチンカウンターの向こう側に、こちらに背を向けているエプロン姿の金髪の女性の姿が見えた。

 いったん手にした花瓶の首のあたりを握り直して、フィオレンティーナは足音を立てずにリビングに入り込んだ。幸いなことに蝶番はまったく音を立てなかった。

 フィオレンティーナと女性の間の障害物はキッチンカウンター、その手前のダイニングテーブル。手前にはソファーが置かれているが、これは問題にならない。

 女性は特に周囲に気を配っている様子は無い――キッチンでの作業に注意を向けており、こちらに気づいてはいない。女性が抵抗の気配を見せても花瓶を投げつけて動きを止め、そのまま接近して抑え込める。

 無防備にこちらに背を向けている女性の背中に向かって、抑えた声をかける。

「動かないで」 家の中には誰もいないと思っていたのか――不要な電気は消していたし、家の正面から浴室の照明は見えないから、家の外観から気づく可能性はあまり高くない――、ぎょっとした表情で女性が振り返った。

 あらためて観察すると、相手の金髪が染めたものではなく生来のもので、そもそも日本人でもなく中欧系なのだと知れた――アルカードのものとは色合いの違う、あまり癖の無い金髪にすらっとした細身の姿態。ボーダー柄の長袖のTシャツに、色褪せたジーンズを穿いている。穏やかな光をたたえた青い瞳が、こちらを捉えていた。

「ここでなにを――」

 詰問しかけると、軽く小首を傾げて女性が口を開いた。

「貴女、誰? ここはわたしの家なんだけど」

「え?」

「戸締りはしてあったけど、どこから入ったの? それに、どうしてそんな格好? うちのお風呂使ってたの?」

「え? えと――」 ちょっと混乱してきて頭の中に『?』が飛び交っているのを自覚しながら、フィオレンティーナは手にした花瓶を見下ろした。ここがこの女性の家だということは、つまり――

「あー!」 嬉しそうな声に振り返ると、フィオレンティーナがダイニングに入るのに使った扉をくぐって、蘭がダイニングに駆け込んできたところだった。その後ろから歩いてついて来ていたパオラが、タオル一枚巻いただけのフィオレンティーナの格好を見て驚いた様に(実際驚いたのだろうが)口元を手で覆っている。

「お母さん!」

 そこで蘭は自分と女性を見比べて、なんとなく状況を推察したらしい。体に巻いたバスタオルの端をぐいぐい引っ張って、

「お姉ちゃん、この人わたしたちのお母さん」

 その言葉に、フィオレンティーナは蘭を見下ろした。確かにパーツはよく似ている――というよりも蘭も凛も外見だけなら日本人の子供には到底見えないし、普通に外国人の子供に見える。

 たしかに夕食のとき、アルカードが子供たちに両親が帰ってくると話してはいた――老夫婦を経由してではあるが、十六時くらいに連絡を受けたのだそうだ。

 ただ西日本方向の高速道路でバス一台とトラック三台が横転し乗用車十二台を巻き込む大事故が発生して道路を完全にふさいだために東行きの車線が完全に遮断され、ニュースのとおりであれば五十キロを超える大渋滞が発生、アルカードは下手をすると両親が今夜中に戻れないかもしれないという見立てを立てていた――だから彼は一晩子供たちの面倒を見るという予定を変えなかったのだが、この時間帯にすでに帰り着いているということは、思ったよりも早く障害になっていた横転したバスとトラックが除去されたらしい。

 女性は蘭の姿を認めるとぱっと笑顔を作り、

「蘭、久しぶり――このお姉ちゃんは?」

「アルカードが連れてきたお店の人。フィオお姉ちゃん」

 蘭がそう言ったとき、入ってきた扉のほうから複数の人の声が聞こえてきた。一階の玄関から誰か入ってきたらしい。パオラが扉から廊下に視線を向けて、

「あ、アルカード。リディアも――ちょっと待ってくださいアルカード、今はダメです、ちょっと取り込み中で」

 あわてた様子でなにやら制止の声をかけるパオラ――どうやらアルカードも含めて、数人が玄関から家に入ってきたらしい。

「なにをわけのわからないことを――よー、デルチャ。ひさしぶ――」 り、と言いかけたところで、ダイニングに入ってきたアルカードがこちらの姿を目にして言葉を切った。

「あ、アルカード、ひさしぶりー」 女性――デルチャ?――が、アルカードに向かって気楽に手を振る。吸血鬼はこちらとデルチャを見比べながら、

「なに? この状況」

「えっと、あのね。蘭がここに来たらお姉ちゃんとお母さんが――」 説明しようとしたのだろう、蘭がアルカードのほうに一歩踏み出しかけ――

 まあ、フィオレンティーナの油断と言ってしまえばそれまでだ。蘭はまだバスタオルの裾を掴んだままだったし、フィオレンティーナが左手でバスタオルの合わせ目を押さえる力も緩んでいた。

 ぱらりとタオルがほどけて、足元に落ちる。

 鳩が豆鉄砲を喰らったみたいに目を点にしている――滅多に無いことだが――アルカードと、どう対処したらいいのかわからずに口元を押さえているパオラと、バスタオルの端を掴んだまま、裸身を晒すフィオレンティーナを困った様な表情で見上げる蘭と、デルチャは視界の外にいるからわからないが。

「……う……」

「う?」 特に凝視もしないものの、ことさらに視線をそらすこともせずに、アルカードが気楽に首をかしげる。

「……う……」

 アルカードさん立ち止まってないで中入ってよ、という声が廊下から聞こえてくる――アルカードがダイニングに入ろうとしないので文句を言っているらしい。

「――うわぁぁぁぁんっ!」 フィオレンティーナは泣きの入った声をあげながら床を蹴り、手にした花瓶でアルカードを殴り倒した。

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