Ogre Battle 29

「確かに苦いですね」

「普通だと思うけどな」 そう答えて、アルカードは肩をすくめた。まあ、ブラックコーヒーが日常のアルカードと少女たちでは、苦みに対する耐性が違うのかもしれないが。

「体にいいんだぞ」 そう付け加えておく――緑茶の渋み成分であるカテキンには生理活性作用があり、一時期問題になった病原性大腸菌O-157を少量のお茶で殺菌出来ると話題になったこともあるので、別にこれは嘘ではない。カテキン強化を謳ったペットボトル緑茶がはやり出したのも、そのころからだ――インフルエンザ等にも効果があると、テレビ番組でやっていたのを見たことがある。

 感化された老夫婦の間でしばらく緑茶がはやっていたが、濃度的にどの程度効果があるかは疑わしいと思えなくもない。

「これって、紅茶とかとどう違うんですか」 顔を顰めて言ってくるリディアに、アルカードはちらりと視線を向けて、

「醗酵してるかしてないか、だな――少なくとも緑茶は醗酵してない。まあ、はじめて紅茶をヨーロッパに運び込んだ奴が緑茶を飲みたかったのか烏龍茶を飲みたかったのか、はたまた意図的に紅茶を持ち込もうとしてたのかはわからんが」

 そう言って、アルカードは湯呑をテーブルに戻した。やたらどっしりした落ち着きを見せてお茶をすすっている子供たちに一瞬視線を投げてから、細君が置いていったメニューを拡げる。

 写真入りのメニューは、英露独仏伊の五ヶ国語で概要が併記された、最近めっきり増えた外国人用のものだ。

 その概要を頼まれて翻訳したのはアルカードなので、どんなメニューがあるのかは知っている――それにアルカードがここで頼むものは決まっているので、アルカードは少女たちに見やすい様にメニューを差し出した。両隣に座った子供たちは普通に蕎麦がどんな食べ物か知っているし、テーブルに置かれた御品書きも普通に読めるので、別に子供たちを優先する必要は無いからだ。

「君たち、蕎麦粉にアレルギーはあるか? 先に聞いとくべきだったのかもしれないが」

 アルカードがそう尋ねると、三人の少女たちは顔を見合わせた。

「蕎麦粉の入った日本のお菓子を食べたことがありますけど、別にどうってことは無かったです」 代表する様にパオラが答えてくる。

「危険なものなんですか?」

 尋ねてくるフィオレンティーナに、アルカードは小さく首肯した。

「体質次第だがな。なんともない人もいれば、文字通り命にかかわる場合もある。蕎麦自体は平気でも蕎麦殻がやばい場合もあるしな」

「蕎麦殻?」

「蕎麦粉を取ったあとの殻だ。日本だと枕の中身に使ったりする。俺は蕎麦は平気だったが、まだ日本へ来て二週間しか経ってなかったころに蕎麦殻の枕を使って酷い目に遭った」

 そのときの経験を思い出して、アルカードは顔を顰めた――当時はまだ老夫婦の店に腰を落ち着ける前のことで、聖堂騎士団の日本国内におけるサポート体制もろくに整っておらず(『主の御言葉』が日本国内における聖堂騎士団の監督役の業務に就くより前の話で、この数ヶ月後にセバスティアン神田の父親である神田忠泰がローマ法王庁大使館を経由した聖堂騎士団との連絡役として着任したため、この名残でアルカードのサポートは『主の御言葉』とは別系統によって行われていた)、アルカードはちょこちょこ拠点を変えながら日本国内を転々としていたのだが、たまたま投宿した旅館で使った枕のせいで酷い喘息が出たのだ。

 なにしろ五百年間、疫病も含めて体調を崩した経験など無かったのだ。味はもちろんわかるから好んでは食べないが、腐ったものを食べたからと言って食中毒を起こすわけでもない――腹を空かせて行き倒れたことはあるが。

 すでにパイプ枕が主流になっている時代だったのだが、その旅館では蕎麦殻の枕を使っており――その枕で就寝したのはいいのだが、アレルギーで起こったあまりにも酷い喘息のせいで心配した従業員に救急車を呼ばれる騒ぎになった。

「――それが俺の人生はじめての、救急車で病院に担ぎ込まれた瞬間だった」 遠い目をしているアルカードを呆れていいのか驚いていいのかわかりかねている表情で見ながら、パオラが口元に手を当てる。

「それまで五百二十年間戦い抜いてきたが、ちょっと畳に布団敷いて寝ただけで命を落とすかと思う様な目に遭うとは思わなかった。搬送先の病院で体質からくる蕎麦殻アレルギーじゃないかって言われて、医者の忠告に従って蕎麦殻の枕は使わなくなったんだが、そうしたら嘘みたいに喘息の症状が出なくなったよ」

「吸血鬼でもアレルギーが出るんですか」 パオラの言葉に、アルカードはうなずいた。

「正直俺もびっくりだった。ただ、今から思うと体質は生身のときと変わらないってことなんだろうな」

「なるほど――つまりアルカードをいじめるには、寝具売り場で蕎麦殻の枕を買って帰ればいいわけですね」 少し悪戯っぽく目を輝かせながら、リディアがそう言ってくる。アルカードは心底嫌な顔をして手を振った。

「勘弁してくれ、あのときだけは俺も本気で死を覚悟したんだ」

 イタリア語で会話していたのでなにがなにやら理解出来ないのだろう、話に入ってこられなかった凛が不満そうな顔で袖を引っ張った。

「おばちゃんきたよ」

 ふと視線を向けると、相沢の細君が目の前で繰り広げられる外国語の会話に目を白黒させている――アルカードのイタリア語の能力はローマ在住のネイティブとさほど変わらないので、細君にはなにを言っているのかすら理解出来なかっただろう。

「ああ、すみません。俺はいつもどおりに。蘭ちゃんと凛ちゃんは?」

「鴨さんの笊蕎麦をください」

「冷麦で」

「はい。そっちのお嬢さんたちは?」 細君が視線を向けると、三人の少女たちはなにやら写真を見比べながらどれにしようかと迷っている様だった。

「アルカード、これはどんなのなんですか? 出来れば冷たいのがいいんですけど」

 外が暑いからだろう、天麩羅笊蕎麦を指で示しつつ、リディアがそんなことを言ってくる。

「冷たいやつだぞ。右のページの上半分は全部冷たい蕎麦だ」 そう答えると、リディアは細君に日本語で声をかけた。

「それじゃこれをお願いします」

「はい、天麩羅笊蕎麦ね。そっちのおふたりさんは?」

「わたしたちも同じものを」 パオラとリディアがうなずきあってそう告げると、細君が笑顔で去っていった。互いに視線を交わしてなにか会話を始めようとしたところで、

「あ、ドラゴスさん。こんにちは」 入口の所から声がかかって、アルカードはそちらに視線を向けた。

 それぞれ赤ん坊を乗せたベビーカーを押した二十代の終わりから三十代の前半くらいの若い男女が、相沢に軽く手を挙げて挨拶をしながらこちらに歩いてくるところだった。

「やあ、こんにちは」

「おじちゃんおばちゃん、こんにちは」 凛と蘭が朗らかに笑いながら挨拶する――それに挨拶を返して、男性のほうが彼らの隣のテーブルの椅子を引いた。女性を席に着かせてから、自分も向かいの席に腰を下ろす。

「この子たちが、蘭ちゃんと凛ちゃんが言ってた新しい店員さん?」

 女性のほうがこちらの席の面子を順繰りに見比べてから、こちらに流し眼を向けてきた。

「綺麗な子ばっかりじゃない。ドラゴスさんも隅に置けないわね」

「全部勘違いだから隅っこにいさせてくれ」 テーブルに頬杖を突いて憮然とした表情でそう返事を返すと、彼女は楽しそうにくすくす笑った。

「お知り合いですか?」 パオラの質問にアルカードは頬杖をやめて姿勢を直し、

「本条亮輔君と奥さんの美咲さん。亮輔君が婿入りしたんで姓が違うんだが、亮輔君は凛ちゃんと蘭ちゃんの父さんの弟だ。で、子供は旦那さんが抱いてるほうが愛ちゃんで、奥さんのほうが泪ちゃん。君らと同じだな、双子だよ」

 そう説明して、アルカードは今度は向かいに座った三人の少女たちを手で示した。

「左から順にリディア・ベレッタとパオラ・ベレッタ、フィオレンティーナ・ピッコロ。最近入ったうちの店の従業員だ」

 アルカードは亮輔夫妻にそう説明してから、今度は三人の少女たちに説明を続けた。

「ふたりとも近くにある病院で働いてる医者だ――お嬢さんは知ってるな、この建物の向かいにあるライルの入院してた総合病院。あそこの先生だよ――で、亮輔君にはバイクで転んで脚折って入院したライルの担当をしてもらった」

「ああ、あの病院ですか」 納得してうなずくフィオレンティーナ――エルウッドの入院の詳しい事情は知らないのだろう、首をかしげるリディアとパオラに適当に肩をすくめ、アルカードは再び若い夫婦に視線を戻した。

「き――いえ、エルウッドさんは重傷だったんですか」 パオラが――重傷という単語が日本語で出てこなかったからだろう、英語で――尋ねると、亮輔が適当にかぶりを振った。

「否、全然」

「え」 亮輔の返答に声をあげるフィオレンティーナに、アルカードは適当に首をすくめた。

「まあ複数個所の骨折だったから重傷と言えば重傷だけど。治りの早い十代でも、一年は寝たきりになる様なダメージだったからね――本当は入院なんて、必要無かったんだろう?」

 意味ありげな流し目をこちらに向けて、亮輔がそう尋ねてくる。

「さてな」

 こちらに向かって手を伸ばす泪の指先が届くか届かないかの距離に指先を差し伸べてからかいながら、アルカードは湯呑を取り上げて口をつけた。

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