Ogre Battle 12

 

   *

 

 数歩踏み出したところで――グリゴラシュが足を止める。その動きを訝って、リーラはわずかに後退した。

 グリゴラシュは動きを見せない――否、わずかに視線が下がる。

 同じ手は――

 無視して踏み出そうとしたとき油の多い木が燃えるときの様なきな臭い臭いが漂ってきて、彼女は足元に視線を落とし――背筋が泡立つのを感じて、リーラは小さくうめいた。

 彼女の足元を中心に、半径三メートル程度の円陣が焼き出されている。真円の円周の内側に沿ってびっしりと意味不明の文字が描かれ、その内側にもうひとつの真円、そしてその内周に一点を接する様にして、直径一メートル程度の小さな真円が描かれていた。

 これは――

 それがなんなのかを理解して、背筋が粟立つ――飛び退くよりも早く、焼きつけられた円陣が一瞬だけ虹色に輝いた。

 ぶばっ――酔っ払いが道端に嘔吐するときの様な嫌な音とともにどす黒い粘液を撒き散らしながら、円陣の内側からなにかが噴き出す。

 否、溢れ出したというべきか――溢れ出てきたのは、無数の触手の群れだった。

 ひどい悪臭を放つ粘つく液体を撒き散らしながら姿を現したそれは直径十センチ程度、無数の体節を持つその姿は蚯蚓に近い。体色は墨にでも漬け込まれたかの様に真っ黒で、表面から滲み出る液体が粘性化しながら飛び散っているのだと知れた。

 百を超えようかという悪趣味な造形の蚯蚓の群れがリーラの両脚に絡みつき、そのまま一瞬で下半身を絡め取る。

 耐魔製法が施された衣装の繊維の隙間から粘液が染み込んでくる感触に舌打ちしながら、魔力を這わせた太刀で蚯蚓の群れを薙ぎ払う。だが攻撃範囲に、巻き込める数などたかが知れている――右手の太刀の一撃で薙ぎ払えたのはせいぜい十やそこらで、残りのうねくる蚯蚓の束は仲間の末期にひるんだ様子も無く両腕にも絡みついてきた。

 さらに切断した蚯蚓の群れも切断面から新たな肉が盛り上がり、おぞましい蚯蚓の姿を再構成していく。その一方で切断された切れ端は床の上でのたくりながら、あっという間に乾燥して粉々に崩れてしまった。

 そのまま手にした刀ごと両腕も呑み込まれ、一瞬で束縛されてしまう――蠕動する肉の紐はその外見からは想像出来ない様なすさまじい力で、手足を締め上げてきた。

「くっ――」

 服の上からうぞうぞと蚯蚓どもが身体を這い回る感触に、背筋に悪寒が走る――唇を噛みしめて嫌悪感を圧殺し、リーラは咆哮をあげた。

「――うおおおおッ!」 全身に魔力を這わせて身体能力を強化し、同時に放出した『式』に沿って発生した魔力が形成した衝撃波で首から下を完全に覆い尽くした蚯蚓の群れをばらばらに引きちぎりながら吹き飛ばす。

 びしゃびしゃという湿った音とともに引きちぎられた肉の紐が次々と床や壁、天井に叩きつけられ、汚らしい粘液と臓物の中身に似た汚物を撒き散らし――そしてそれを見届けることすらせず、リーラは床を蹴った。

 そのまま一撃でグリゴラシュの首を刎ね飛ばそうと――するより早く、グリゴラシュが甲冑の手甲でその一撃を受け止める。

「な……ッ!?」

 素早く伸ばされたグリゴラシュの手が、とっさに身を引こうとしたリーラの肩を掴む。

 飛び退こうとして体勢を変えていたために抵抗すら出来ないまま引き寄せられ、リーラの体はそのまま振り回されていた。

 魔術によって補強され、最新素材を上回るほどの引き裂き強度を持つはずの戦闘用の修道衣の袖が繊維のちぎれる音とともに裂ける。おそらくグリゴラシュは振り回して遠心力を乗せてからどこかに叩きつけるつもりだったのだろうが、そのためにリーラはグリゴラシュの拘束から解放され、放り出されて背後の書棚にしたたかに叩きつけられた。

「がっ……」 後頭部を打ちつけて、視界に火花が散る――脳震盪の気配に舌打ちしながら、リーラは立ち上がった。

 手にした村正を見下ろして、小さなうめき声を漏らす――鋼の帯を巻きつけた軍用の蛭巻太刀拵が、ぼろぼろに腐蝕している。刀身だけは魔具なので腐蝕によるダメージを受けてはいない様だが――

 視界に入ってきた自分の衣服を見下ろして、リーラはなにが起こったのかを理解した。希硫酸が附着したのを放置したときの様にところどころ穴の開いた衣服は、つまるところ首から下をあの蚯蚓の群れに縛められたときの粘液によるものなのだろう。

 耐魔製法を施されて魔力強化で補強された修道衣をここまで腐蝕させるというのは、相当強力な溶解液でなければ不可能だ――施された耐魔製法があの粘液の溶解に耐えたからいい様なものの、なんの変哲も無い普通の衣服や人類の技術による最新素材の戦闘服ならば、今頃彼女の首から下は骨が残っているかどうかも怪しいことだろう。

 魔法陣から溢れ出したのたくる肉の紐は、先ほどの衝撃波で吹き飛ばした痕跡すら残さずに再び生え変わり、うぞうぞと蠢きながら周囲に広がっている。

 まずい――この状況はまずい。

 あの少女という荷物をかかえ、武器は刀ひと振り、残った手駒である魔術の技量においてはグリゴラシュのほうがはるかに上。

 窮状を知らせようにも、超小型無線機はあの蚯蚓の粘液によってとうに使い物にならなくなっているだろう――ほかの仲間同士の無線の遣り取りが傍聴出来ない。先ほどは送信そのものは阻止されたものの、無線機の送信ボタンをホールドすることだけは成功した――それによって音声は垂れ流しになっているから、ほかの無線通信所はある程度こちらの状況を把握しているだろう。

 状況を把握してさえいれば、アルカードが誰か救援を――

「――よう、お困りかい?」

 窓のほうからかけられた落ち着いた声とともに――虚空を銀光が引き裂いた。

 蚯蚓どもがまるで根っこの部分を切り除かれたシメジの様に一気に輪切りにされ、びちゃびちゃと音を立てて床の上に崩れ落ち――ついで虚空を走った銀光をグリゴラシュが跳躍して躱す。

「さすがに今ので、首を獲らせちゃくれないか――」 そんなボヤキを漏らしながら、先ほどの衝撃波で硝子が粉砕された窓から小柄な黒髪の少年が姿を見せた。

「リッチー――どうしてここに?」

 その言葉に、リッチー・ブラックモアは法衣のポケットから聖書を取り出しながらこう答えてきた。

「先生がこっちに来いってさ」 ブラックモアはそう答えてから目を細め、

「それにしても――ずいぶん色気のある格好だな。イメチェン?」

「うるさい」 修道服の肩の部分が引きちぎられたために下着の一部と肩紐、白い肩が露出したこちらを指差して気楽にそう聞いてくるブラックモアに、リーラは半眼で言い返した。

「冗談だよ。中身はともかく、こうも生臭いんじゃな」 粘液の放つ悪臭のことを言っているのだろう、まだ鼻が慣れていないのか顔を顰めながらそう答え、ブラックモアが聖書から破り取ったページ数枚を軽く振る。

 ブラックモアの手にしたページが、激光とともにふた振りの剣に変化した――彼が投げて寄越した撃剣聖典を掴み止め、制御権を受け取って魔力を這わせる。

 次の瞬間撃剣聖典がいったんほつれてそのまま彼女の胸に絡みつき、上半身を鎧う胸甲冑に変化した。形状変化が終わったところで、再びグリゴラシュに向き直る。

 ブラックモアは部屋の隅で壁に張りついて声も出せないまま震えている少女に視線を投げてから、

「さて、せっかくだから僕も参加させてもらうよ――文句は無いだろう、グリゴラシュ・ドラゴス?」

 ふ、とグリゴラシュが笑う。

「好きにするがいい」 そう答えて、グリゴラシュはいったん鞘に納めていた長剣を再び抜き放った。

 

   *

 

 店から出てきた客に道を譲ってからアルカードが店のドアを開けると、ベルがカランカランと音を立てた。

 ちょうどレジに立っていた赤毛の女性が、こちらに視線を向けて相好を崩す。一度店に来たときに会った女性だ――名前は確かアンと呼ばれていたか。

「いらっしゃい――ってアルカードじゃない。お昼ご飯?」

「ああ」 背後にいるパオラとリディアを視線で示して、アルカードはそんな答えを返した。

「ああ、いつもの?」 というアンの返事に、アルカードがうなずく。

「おーけー――じゃあ席は貴方が好きに選んでね」 という返事に、アルカードが周囲を見回す。彼は適当な席を見つけて、ふたりをそこへ案内した。奥のほうはパーティションで仕切られているらしく、その手前の窓際の店内の様子を一望出来る四人掛けの席だ。アルカードが手前側で席に着いたのでふたりはその向かい、アルカードの肩越しにパーティションで仕切られているスペースを除いて店内の様子を一望出来る席に着いた。

 つまり、フィオレンティーナやアンの様子を見てどんなことをするのかイメージしておく様にということなのだろう。

「フィオは、これをしなかったんですか」 リディアの質問に、テーブルに頬杖をついたまま店内の様子を眺めていたアルカードがこちらに視線を向けた。

「彼女はしなかったというか、さっきも言った通り出来なかった――そのとき従業員で店に入ってるのが、俺しかいなかったから」 というか、客の入りがちょっと良くなってきて俺が呼び出されたから、そうしてる暇も無かったしな――そう付け加えて適当に手を振り、アルカードがお冷とメニューを用意しているアンに視線を向ける。

「そうなんですか」

「うん――まあなんというか、彼女の場合はここに連れてきた翌日の話だから。俺としては立場上放り出すわけにもいかないし、かといって教会へそのまま帰らせるわけにもいかないし、彼女の体内の魔素がどんな変化をするか身近で監視しとかないといけないし、手元に置いとかないと衣食住にも困りそうだったからさ」

「ああ」 納得して、少女たちはうなずいた。要するにフィオレンティーナの変化を観察するために、彼女の身柄を手近に置いておくのが主な目的だったのだろう。

 なにしろ吸血鬼に血を吸われて、死なずに生き延びた被害者は前例が無いのだ――そのまま人間のままでいるのかもしれないが、あとから吸血鬼に変化する可能性もあるわけで、だからアルカードとしては経過観察のために彼女を手元に置いておきたかったのだ。

 ウェイトレスのバイトは本人の考えはともかく、アルカードにとっては身近で彼女を観察する口実だったのだろう。

 やってきたアンが、手際よくお冷とメニューをテーブルに並べていく。アルカードは黙ったままその様子を眺めてから、軽やかに身を翻して去っていく彼女を見送った。

「じゃ、注文が決まったら呼んでね」

 アルカードはさすがにスタッフ長だけあってメニューなど見なくても献立は把握しているのだろう、自分の前に置かれたメニューをさっさとたたんで脇に置いてしまった。

「このサルマーレってなんですか?」

「ロールキャベツ。家庭ごとに秘伝のレシピがあったりする伝統料理のたぐいだな。俺が育った家にも四種類くらいあった」

「……どうして四種類も?」

 パオラが尋ねると、アルカードは適当に肩をすくめてこう答えた。

「屋敷で雇われてた料理人がひとつ、その奥さんの実家伝来のがひとつ、ほかに庭師の奥さんもひとつ、あと屋敷の奥様もひとつ」

「プライベートな事を聞く様ですけど」 遠慮がちに口にしたリディアの言葉に、アルカードがそちらに視線を向ける。

「ああ」

「アルカードは、その、ルーマニア生まれなんですか」

「ルーマニアという国号はまだ無かったが、まあ、そうだ――俺はルーマニア南部のワラキア地方、ブカレシュティ近郊の出身だ」

 彼はそう言ってから言葉を選ぶ様にちょっと考えて、

「俺は流れ者の女と、ワラキア人の間に生まれた混血だ――俺を身籠ったまま放浪して行き倒れてた母親を、ワラキア公国の武将のひとりが拾って使用人として屋敷に置いた。それで生まれたのが俺だ――俺が生まれるとその武将が俺を正式に養子として迎え入れてくれて、それで俺はドラゴスの姓を名乗る様になった。まあ、実母も同じ屋敷にいたんで、俺は奥様を母親と呼ぶ気にはなれなかったが」

「立派な方だったんですね」

「そうだな」

 養父を褒められたことでちょっと機嫌が良くなったのか、アルカードが心持ち大きくうなずく。

「じゃあ、そのドラゴスっていう姓は本名なんですか?」

「ああ。養子に入って名乗ることになった、俺の本名だよ――アルカードという名前は違うがね」 少し口が軽くなっているのか、アルカードがそんな返事を返してくる。

「名前はなんていうんですか?」 リディアの口にしたその問いに、アルカードが軽く眉根を寄せる。気を悪くされただろうかと思いながら、リディアは続けた。

「その、これから一緒に戦う人ですから。仲間のことを知っておきたいって、思っちゃ駄目ですか」

 リディアのその返事に、アルカードが目を細めた。

「だいたい想像はつくだろう――俺の本名は教師としての役職名だよ。ヴィルトール――ヴィルトール・ドラゴスだ」 そう答えて、アルカードはなにを思い返しているのかちょっとだけ苦笑気味の笑みを浮かべた。

「一応ブカレシュティ近郊に所領もあったんだが、まあたいした広さでもなかったな。親ヴラド派の封建貴族ボイェリは当時、冷遇されてたから」

「冷遇されてたのに、首都の近くに屋敷があったんですか?」

「監視がしやすい様に、だよ」 普通は王様のところから遠く離れた田舎にでも追い遣られるんじゃ――パオラの口にした疑問に、アルカードは肩をすくめてそう答えた。

「首都から離れた田舎に雌伏して租税をちょろまかしたり兵を訓練して力をつけさせるより、手元に置いておいたほうが監視しやすい。それに、当時ラドゥ政権下で駐留してたオスマン帝国兵はトゥルゴヴィシュテ近郊に集中してたから、近所に置いておけば不穏な動きがあったら全兵力で叩けるしな」 ド田舎に放り込んでほったらかしなんて、謀叛の準備しろって言ってる様なもんさ――アルカードはそう続けて、お冷やのコップを手に取った。

「俺の養父は、ヴラド二世の代からワラキア公爵家に仕えた武将だ――といっても、当時のワラキア公家は血統は共通だがイスラムとカトリック、どっちの傀儡政権になるかでころころ変わってたから」 というアルカードの言葉に、リディアは小さくうなずいた。

 当時の政治事情なら、歴史の授業で教わったのでリディアも多少は知っている。ヴラド三世――ドラキュラ公爵の父親であるヴラド・ドラクルが長男ミルチャとともに暗殺されて以降、ワラキア公国では幾度となく政権が転覆されている。

「たしか、ドラキュラ公爵だけで三回でしたっけ」

 オスマン帝国の支援を受けた第一次ドラキュラ政権は、ハンガリー王国の支援を受けたヴラド・ドラキュラ公爵の又従兄弟、ダネスティ家のヴラディスラフによって転覆されている――その後ヴラディスラフ・ダネスティはハンガリー王国と対立し、その結果彼の政権は新たにハンガリーが擁立したヴラド・ドラキュラによって再び転覆されることとなった。

「ヴラディスラフはハンガリーの保護国から脱して、ワラキア公国を独立させようと考えてたからな――それでハンガリーの重臣だったフニャデイ・ヤーノシュの不興を買ったのさ」

 フニャデイ・ヤーノシュ――当時のハンガリー王国において、幼王ラディスラウスが幽閉され不在であった王国をその摂政として長年まとめ上げていた人物だ。属領トランシルヴァニアの領主ヴォイヴォダであり、ラディスラウスの次のハンガリー国王フニャディ・マーチャーシュの父親でもある。

「結果ヴラディスラフは切り棄てられて、次に担ぐ神輿としてヤーノシュが選んだのがドラキュラだったわけだ――まあ、すぐにまた追い落とされちまうんだけど」

 数年後にはオスマン帝国の支援を受けた美男公ラドゥがオスマン帝国の内紛誘発策も相まってドラキュラの追い落としに成功し――ラディスラウスのあとを継いで玉座に着いたハンガリー王フニャディ・マーチャーシュを頼って落ち延びたドラキュラ公爵はその後十二年間にわたって幽閉されることになる。

「で、俺の実家はマーチャーシュのバックアップを受けたドラキュラの帰参に合わせて、叛オスマン派の封建貴族ボイェリをまとめて内部蜂起を起こしたわけだ」 アルカードがそう説明を続けてくる。

「俺が人間だったときの話だが――そんなわけで俺は第三次ドラキュラ政権の成立に直接かかわり、そのあとのオスマン帝国との戦争にも参加してた」

 アルカードはそう言ってからちょっと考え込んで、

「うちの御養父おやじはなんというか、街の住人相手でも礼を欠かさない人だった。庶民派の貴族とでも言うのかね――貴族としては珍しいタイプだったと言えるだろうな」 そう言って、アルカードはお冷に口をつけた。

「俺の剣術を仕込んだのも彼だ――俺の戦闘技術は、すべて彼が基本になっている。五百年以上研鑽を積んできたつもりだが、純粋に技術だけを競うなら、俺は今でも親父に勝てないだろう」

 すごいですね、とリディアが感嘆の溜息をつく。パオラもリディアもアルカードの戦闘技術をほとんど目にしていない――アルカード自身と出会ったのが昨日なうえに、アルカードはふたりも含めて四人の相手と戦っているときにほとんど技術めいたものを遣わなかった。だが、それは上位の吸血鬼にとってはたいがいの状況下は力押しのほうが手早く効果的だというだけの話で、アルカードが技術の蓄積を持たないこととイコールではない。

 足音をまったく立てない歩法や中型の肉食獣を思わせる隙の無い身のこなしは、明らかに高度な訓練を受けた戦士ものだ――それも並大抵の力量ではない。それはつまり、すさまじい技術の蓄積を持ちながら、ほかにもっと効果的な手段があるために使っていないことを示している――人間のままであったとしても、彼と戦って勝てるほどの使い手は歴史上の英雄豪傑の中にも五人といないだろう。

 そのアルカードが『今の自分でも勝てない』と断言するほどの養父というのは、いったいどれほどの武人だったのだろうか。

 アルカードがそれ以上話すつもりが無い様だったので、リディアはメニュー表に視線を落とした。

「……どうしてプロシュートがメニューにあるんですか?」 イタリア産の生ハムが献立の中に入っていることに気づいて、パオラがアルカードにそう尋ねる――よくよく見ると、中欧を中心に結構ルーマニア以外にもいろいろな料理がそろっている。

 なんだろう、このカオティックさは――そんなことを考えながらアルカードに視線を向けたが、アルカードはその質問に答えるつもりは無いらしく、適当に肩をすくめただけであった。

 それ以上話すつもりは無いということなのだろう、あるいは彼自身も知らないのだろうか。彼はそれ以上気にせずに、だいたいの客が捌けてだんだん雰囲気の落ち着き始めた数人の従業員たちに視線を走らせている。

 結局写真を参考に適当に注文を済ませ、リディアはアルカードと店内を交互に観察した――店の中にいる従業員は例のアンという女性とフィオレンティーナのほかに、アングロサクソン系の若者もいた。

「……それで、結局これにはどんな意味があるんですか?」

 ずっと気になっていたことを聞くと、アルカードは適当に肩をすくめた。

「特に意味は無い。実際に仕事を始める前に、君たちにどんな雰囲気なのか確認しておいてもらうだけだよ――別が一緒に来る意味も無いんだが、たまには客の視点から店員の動きを見るのも必要なんでな」

 テーブルに頬杖を突いてそう答え、アルカードは顔見知りなのかこちらを見つけて手を振ってきた小さな女の子に手を振り返した。

「だからまあ、のんびり眺めておいてくれ」

 たぶん兄妹なのだろう、六、七歳くらいの男の子もいる――二十代半ばの女性が、笑顔で頭を下げた。

 先ほど男女ふたり連れが出て行って、残る客はその母子連れ三人だけ。彼女たちのテーブルにはお皿が無い――テーブルの上に飲みかけのジュースのグラスやティーカップが置いてあることからすると、食事を終えたあとなのだろうが。

 フィオレンティーナがお盆にデザートらしいクレープと飲み物を載せてそちらに歩いていく――もともとの身体能力は高いので、片手で保持したトレーの上の飲み物の液面が凪いだ湖面の様にまったく動いていない。なんだかんだで結構日数が経過するせいか、ウェイトレスとしての所作がすっかり板についている――このままアルカードが午前中に連れていってくれたあの喫茶店に雇用させても、ほかの店員に見劣りしないだろう。

「お」 アルカードが声をあげる。彼の視線を追って先ほどの客の席に視線を戻すと、クレープを置いて立ち去りかけたフィオレンティーナに背後から近づいた男の子が、彼女の制服のスカートをぺろんとめくり上げたところだった。

「……っ」 フィオレンティーナが凍りつく。

 ぎぎぎ、と蝶番の油が切れた扉みたいな音を立てて、真っ赤な顔をしたフィオレンティーナが少年に視線を向けた。

「あの……放してもらえませんか?」

 スカートを頭の上まで持ち上げたままその中をじーっと見つめていた少年が、かたくなに首を振る。

「やだ。ピンク色、見てたいから」

「ユウヤっ!」

 女の子の相手をしていた母親がそれに気づいて悲鳴みたいな声をあげ、血相を変えて席を立った。

 アルカードはテーブルに突っ伏して、肩を小刻みに震わせている――息子を彼女から引き離して何度も頭を下げている母親を宥めながら、フィオレンティーナがアルカードを睨みつけていた。むろんその灰色の気配に気づいていないわけではないだろうが、アルカードはテーブルクロスを引っ掻きながら笑うことをやめようとしない。

 どちらかというと短気なフィオレンティーナからしてみれば、よく我慢したほうだと言えるだろう――半分涙目になりながらも、フィオレンティーナは引き攣った笑顔を作って取り落としたお盆を拾い上げ、その珍事の目撃者であるアルカードに殺意のこもった視線を突き刺しながらも引き下がっていった。

 それにはかまわずに、アルカードが適当に手を振る――呼んでいるのだと判断して近づいてきたアングロサクソンの金髪の青年に、アルカードはこう言った。

「ジョーディ、あの傑作の坊やのところに、俺のつけでケーキでも持っていってやれ」

「あんたそういうことばかりやってると、いつか本気でフィオちゃんに刺されるぞ?」 あきれた様に腕組みして言ってくるジョーディと呼ばれた青年に、アルカードはひらひらと適当に手を振った。

「大丈夫、刺されたくらいじゃ死なねえよ」

 ややあって会計を済ませて母子が店を出て行き、客がいなくなって――それで気兼ねする必要が無くなったということだろう、空のトレーを手にフィオレンティーナがつかつかと歩いてくる。

 さっさと退避した(賢明な判断だ)ジョーディと入れ違いに速足で歩いてきたフィオレンティーナが、よほど今のハプニングが笑いのツボに入ったのかいまだテーブルに突っ伏してひいひい笑っているアルカードの頭を狙って、手にしたお盆を無言のまま縦に振り下ろした――フィオレンティーナの手首をはっしと掴んで、アルカードがテーブルに突っ伏したまま顔も上げずにその攻撃を受け止める。さすが欧州最強の同族殺しと言うべきか、技量の未熟な聖堂騎士の攻撃など、相手の動きが視界に入っていなくても捌けるものらしい。

「ふっ……甘い、な、お嬢さん、残念なが、ながら、その、程度、で、俺は、斃せん、ぜ?」

「せめて起き上がってから言え」 突っ伏して笑いながら、呼吸困難に陥っているのか途切れ途切れにそう告げるアルカードに、ちょっと離れたところからジョーディが冷静に突っ込みを入れる。

「このっ! セクハラ男ッ!」

 掴まれた手首を引き抜き、フィオレンティーナが半泣きの表情で再びお盆を振り翳す。

「別にめくったのは俺じゃないぞ。ここからじゃ見えなかったし」

 それを聞いて、完熟したトマトみたいに顔を真っ赤にしたフィオレンティーナが再びお盆を――明らかに手加減抜きで――振り下ろす。だがその一撃は――いつの間にか背後に立っていたライル・エルウッドがお盆を彼女の手から抜き取ったために――、吸血鬼には届かなかった。

「あのな。店の中で暴れるなよ」

「よお」 エルウッドとその後ろに立っているアイリス、アルマに、アルカードが気楽に声をかける。

「アルカード、昼間からなんのコントだ?」

「それはだな」

「黙りなさいッ!」 先ほどまでの笑いを引っ込めて平然と説明しようとしたアルカードに、フィオレンティーナが怒鳴りつける。エルウッドはアルカードとフィオレンティーナを見比べてから、

「アルカード、一応言っとくが、あんまり子供をからかうのは感心出来ないぞ?」

「否、俺は別になにもしてねえんだけどな」 適当に手を振って、アルカードがそんな返事を返す。

「で、結局なにがあったんだ?」

「それは――」

「黙れって言ってるでしょう!」 フィオレンティーナの平手打ちをひょいと躱し、アルカードがけっけっけと笑う。

「おーおー。怖い怖い」 ちっとも怖がっていない様子のアルカードにさらに詰め寄ろうとしてフィオレンティーナが足を踏み出したとき、それまでエルウッドの足元で彼のズボンの裾を掴んでいたアルマが手を伸ばしてフィオレンティーナのスカートの裾を引っ張った。

「アルカード、いじめちゃだめ」 彼女を見下ろしたフィオレンティーナに、アルマが眉をひそめてそんな苦言を呈する――確かに事情を知らなければ、フィオレンティーナがアルカードに一方的に暴力を振るおうとしている様に見えるだろう。まあ実際のところ、アルカードは少年によるスカートめくりの現場をただ見ていただけなのだが。

「えーと……アルマちゃん? これは別に、アルカードをいじめてるとかそういうのじゃなくて、その、不埒者に対する神罰というか――」

 困った顔でそう説明しようとして、助け船を求めてかフィオレンティーナが吸血鬼に視線を向ける。だがアルカードはさっさとアルマの背後に隠れると、

「ああ、アルマは優しいなあ、俺をかばってくれるのかい? そうなんだ、俺はいつもあの怖いお姉ちゃんに怒鳴られたり叩かれたり刺されたり蹴られたりしていじめられてるんだ」

「……」 口調とは裏腹に、アルカードは新しいネタを見つけて面白がっているたぐいの笑みを浮かべていた――こめかみを揉んでいるエルウッドに視線を向ける。きっと今自分も似た様な顔をしているのだろうと思いながら、リディアはエルウッドに声をかけた。

「アルカードはいつもこんな調子なんですか」

「ああ」 頭痛をこらえる様に片手で顔を覆いながら、エルウッドがそう答えてくる。

 胸中でフィオレンティーナに同情しながら、アルカードに視線を戻す――と、アルカードは少女を楯にするのをやめてフィオレンティーナを宥めているところだった。

「それで、結局なにがあったんだ?」 質問の矛先を、エルウッドが今度はこちらに向けてくる。

「それは――」

「リディア、お願いだから黙ってて」

 この世の終わりみたいな顔で言ってくるフィオレンティーナが気の毒になってきて、リディアはアルカードに半眼を向けた。

「アルカード、貴方もそうやって人をからかうのは控えたほうがいいと思います」

「俺としては笑い話で済ませられる様に気を遣ったつもりなんだがな――まあいいや」

 嘘つけ、とエルウッドとジョーディが声をそろえるのを無視して、アルカードはエルウッドに視線を向けた。

「それで、どうした?」

「否、ただの観光案内だ。アルマがあんたのところに来たがったんでな――部屋にいなかったが、作りかけの犬小屋がほったらかしになってたから、飯でも食べに来てるんじゃないかと思って寄ってみたのさ」

「ああ、そうなの?」 アルカードがかがみこんでアルマと視線を合わせる。

 うん、とうなずく少女の頭を撫でてから、アルカードは立ち上がった。

「で、そっちは? 見たところ仕事じゃない様だが」

「ああ、昼飯と、あとはちょっとこの子たちに実際の現場を客の視点からでも見てもらうというコンセプトがだな」

「それは至極結構だと思うが、それとこの状況がどうつながりが?」

「これ以上言ったら殺されそうだから、適当に想像しといてくれ」 適当に手を振って、アルカードは隣のテーブル席を視線で示した。

「昼飯がまだだったら、おまえたちも一緒にどうだ?」

「ああ、あんたたちがいなくてもそのつもりだったよ」

 エルウッドはうなずいて、妻と娘のために椅子を引いた。

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