The Otherside of the Borderline 49

 

   †

 

 かすかな摩擦音とともに白刃を外気に晒した太刀――瓶割の刃が、街燈の光を照り返して冷たく輝く。研ぎ澄まされた鋼の刃に視線を向けて、目の前の金髪の男が口を開いた。人間から変化した妖魔の特徴である、薄暗がりの中でおのずから輝く血の様に紅い魔人の

「俺とるつもりか?」

「ああ」 シンがうなずくと、吸血鬼は顔を上げてシンの視線を正面から捉えた。

 先ほど憤怒の火星Mars of Wrathを使ったあとから、男はずっと顔を顰めている――本人は自覚していないだろうが。彼が気づいていたかどうかは知らないが、シンは先ほどからずっと彼を監視していた――憤怒の火星Mars of Wrathを使ったあと、どういうことかはわからないが、男がしばらく地面に蹲って動くこともままならなかったのも知っている。

 今も彼の額には脂汗がうっすらと浮かび、左手は笠神のものを奪ったらしい帯に差した太刀の鞘に軽く触れこそしているものの、ただ単に指を引っかけているだけの様に見えた。

 シンがそれに気づいていることに、彼が気づいているかはわからないが――男が左手にわずかに力を込める。攻撃準備の挙動には見えない――おそらく、左手がどの程度の握力や反応速度を維持しているかを確認するためのものだろう。結果が芳しくなかったのかそれとも症状が酷くなったのか、男の眉間の皺が少しだけ深くなった。

 吸血鬼は小さく溜め息をついてこちらに視線を戻すと、

「どうあっても退かないか?」

「それが役目だ。退くわけにはいかない」

 シンが再び躊躇無く答えると、吸血鬼はあっさりとうなずいた。

「わかった」 こちらが拍子抜けする様な態度で、吸血鬼が手にした日本刀の鞘を払う。

「なら、始めよう――時間が無いからな」 言いながら、吸血鬼が抜き身の日本刀を軽く振る。

 身構えても、やはり彼は左手を柄に添える様子は見せない――もともとの技術が片手で操剣を行う流儀なのか、それとも両手で操剣を行う技術を修めているが左手が使えないのか。

 シンは最初から彼と笠神の戦闘を観察していたわけではないので、そのあたりははっきりしない――シンがここに到着したのは、あの男が笠神にとどめを刺す直前だったからだ。

 おそらくは後者だろう――片手で操剣を行う小太刀術に近い技術を遣うならば、基本は二刀流になるはずだ。吸血鬼は腰元の黒禍と紅華を抜き放つ気配は見せていない。剣を構えたときに条件反射的に左手を柄に添えようとしてやめているし、右腕だけで剣を保持したその構えがまるで不慣れなことをしているかの様にひどくぎこちない。

 それを見ながら、シンは手にした太刀を青眼に構えた。

 吸血鬼は動く構えを見せない――その口元がかすかにゆがんだ。

「どうした……来いよ。仕掛けたのはそっちじゃなかったか?」

 その言葉が終わるよりも早く――シンは地面を蹴った。

 苛烈に踏み込みながら、上段からの真直叩きつけ――『正体不明アンノウン』が手にした太刀でその一撃を受け止めた。その衝突の金属音が終わるよりも早く、反動でわずかに離れた刀身を翻して首を刈る一撃へと切り替える。

 いったん離れてから再び肉薄する瓶割の刀身に、しかし吸血鬼は冷静に対処してきた。

 手にした太刀の柄頭で、こちらの柄元を撃ち据える。おそらくは鐔の縁を撃ったのだろう、柄を握る手に衝撃が走った。

 吸血鬼がそのまま踏み出す。刀の柄を握ったままの手で、拳の一撃――間合いの短い廻し撃ちを、シンは後方へ跳躍して躱した。長い柄を握ったままなので、思ったより遠くまで跳ばないと柄頭の動きに巻き込まれる。

 だが、突然なにかに引っ張られて、後退の勢いが殺された――吸血鬼が脇の下から伸ばした左手で、こちらの衣装を掴んでいる。激痛で使えないというのが演技だったのか、それとも無理矢理動かしているのかはわからないが、おそらくは後者だろう――凄絶な笑みを浮かべる男の表情は、激痛に耐えていることを示す脂汗で濡れている。

 そのまま強く引きつけられて、シンは踏鞴を踏んだ――詰まった間合いから繰り出された右肘の一撃が眉間に突き刺さり、その衝撃で視界がぶれる。

「かっ……!」

 脳震盪を起こしたときの様に一瞬足がふらつき、シンは覚束無い足取りで数歩後退した――男が一歩踏み出すのが見える。廻し撃ちの挙動で左にひねり込んだ腰と上体を今度は逆方向に捩り込み、そこに膝の回転と踏み込みの挙動を加えて、吸血鬼は手にした太刀を水平に薙ぎ払う一撃を繰り出してきた。

 すでに状態は回復しているが、あいにくと体勢が悪い――後退で躱すのも迎撃も無理だ。そう判断して、シンはほとんどその場で蹲る様にしてその攻撃を躱した。

 おそらくはこちらの回避挙動を予測していたのだろう、男の手にした太刀が頭上で止まった。最初からこの攻撃につなぐために速度を抑えていたのかもしれない――でなければ、あれだけの力を溜め込んで繰り出された一撃から逃れることは不可能だっただろう。

 男が手首を返すのが、腕の動きと鐔の鳴る音でわかった――続く攻撃はそのまま真直に叩きつけるか、柄頭で撃ってくるか。

 いずれにせよ、この体勢から有効な回避行動をとるのは不可能に近い。

 横転して避けることは出来ても、その行動を認識するや否や男はこちらに蹴りを繰り出してくるだろう――おそらく武器に頼らない近接格闘戦の能力ならば、この男は自分を大幅に上回る。

 そう判断して、シンはその体勢から反撃を仕掛けた――男が次の攻撃動作に移るよりも早く瓶割を振るい、手にした太刀で腕を斬り落としにいく。この姿勢からでは大した速度は引き出せないが、向こうも動きが止まっているから問題無い――しかし、斜めの軌道で宙を引き裂いたその一撃は、ただ単に虚空を引き裂いただけだった。

 男が手にしていた太刀はいまだ宙にある――手にする者の無くなった柄の目貫が、龍を象ったものであるのが一瞬だけ見えた。

 太刀の柄を手放して腕を引っ込めた体勢のまま、吸血鬼がゆっくりと笑うのが見えた――太刀ごと引き戻しては間に合わないと判断したのだろう、太刀を手放してその一撃を遣り過ごしたのだ。

 斬りつけ動作と同時にその場で立ち上がったので、すでに追撃が可能な体勢に戻っている。だがそのために、太刀の位置はかなり高くなってしまった。

 いったん太刀を引き戻さねば――

 しっ――吸血鬼が歯の間から息を吐き出す、かすかな音が聞こえた。同時に、太刀が地面に落下するよりも早く、彼はその柄を掴み止めている。吸血鬼が手首を返して刃をこちらに向けるのが、腕の動きで読み取れた。

 ――ッ!

 小さくうめいて――シンは太刀を引き戻しながら次撃につなぐのを放棄した。サイドステップとともに繰り出された薙ぎ払いの一撃を、柄頭で手元を撃ち据えて止める。

 ち……

 金髪の吸血鬼が小さく舌打ちを漏らし、唇をゆがめてゆっくりと笑う。体勢の復帰はこちらのほうが早いと判断したか、吸血鬼はいったん間合いを作り直すために後退した。

 青眼に構えを取り直して、シンは男に視線を据えた。男は脂汗の滲む顔に、うっすらと笑みを浮かべている。

「さあ――続きを、やろうか!」 声をあげて――吸血鬼が前に出た。

 それに応じて、シンも前に出る――両者の繰り出した刀の鋒が、虚空で激突し火花を散らした。

 反動で離れた剣を引き戻して、さらにもう一撃。

 その交錯のあと、さらに吸血鬼が踏み込みながら繰り出してきた横薙ぎの斬撃をシンは後方に跳躍して遣り過ごした。

 そのまま踏み込んで、刺突を仕掛ける――吸血鬼が瓶割の鋒を自分の太刀で受け流し、そのまま側面に廻り込む様にして踏み込んできた。次の瞬間、サイドステップとともに繰り出した横薙ぎの一撃がシンの胸元に襲い掛かり――シンがバックステップして後退したために、空振りした太刀の鋒が宙に白銀の弧を描く。

 吸血鬼が口元にかすかな笑みを浮かべるのが見えた――そのままさらに踏み込んで刺突を繰り出してくる。工作機械の様に精密な照準と雷鳴のごとき苛烈さを兼ね備えた、神速の刺突。

 文字通り針の穴でも貫きそうな精密さのその刺突を、シンはわずかに頭を傾けて躱した。

 口元に笑みを刻む――続く横薙ぎの一撃は重心を沈めて遣り過ごし、シンは吸血鬼の内懐へと踏み込んだ。

 讃辞を口に出すことは無く、代わりに吸血鬼の後退動作に合わせてさらに踏み込んで刺突を繰り出す。

 最接近を防ぐためだろう、吸血鬼が迎撃のために蹴りを繰り出してくる。なにほどのこともない前蹴りだが、だからと言ってその破壊力は侮れたものではない――あっさりと反撃を放棄して後退し、シンは間合いを立て直した。

 ほんのわずかだけ間合いを詰めて、地面を蹴る――いったん納刀した太刀を鞘走らせ、繰り出した抜き撃ちの鋒が虚空に白銀の軌跡を描いた。

 だが、その鋒は吸血鬼には届かない――男は正確に間合いを測ってほんのわずか頭をのけぞらせ、その一撃を躱している。達人の目から見てもなお、その回避行動はほんのわずか頭が揺れた程度にしか見えなかったに違い無い。

 引き戻していた太刀で、立て続けに刺突を繰り出してくる――吸血鬼のその攻撃を、シンは体ごと横に捌いて躱した。吸血鬼の左手はまともに動かないので、当然攻守を問わず左側に死角が出来る。

 とはいえ、油断が出来ないのは事実だった。短鎗と太刀、得物の差こそあれ、片手での刺突という一点においては彼の条件は香坂と変わらないのだ。左手での攻撃がというその一点においてだけは、先ほどの香坂よりも圧倒的に楽だが。

 左側に廻りさえすれば、追撃はこない。

 吸血鬼がこちらに向き直るより早く、シンは攻撃を仕掛けた。

 向き直って太刀を翳す吸血鬼の防御にお構い無しに、流れる様な怒涛の斬撃を叩き込む。防御を崩すために威力よりも速さを優先して仕掛けた立て続けの攻撃に圧され、体勢の悪さも相俟って、徐々に吸血鬼の対応が遅れていく。

 やはり得物を片手で扱っている以上、膂力でこちらを上回っていても両手で太刀を保持しているこちらに速度も精度も威力も及ばないのだろう――防がれようがなんの問題も無い。条件で劣る吸血鬼は攻め続ければいずれ防ぎ損ね、その積み重ねが致命傷をもたらす。精度に欠ける吸血鬼の対応が徐々に遅れ、瓶割の刃が吸血鬼の肉に、骨に、徐々に迫ってゆく。

 対応不可能なほどに追い詰められる前に、吸血鬼が撃ち合いをあきらめて後退する。

 だがシンは攻撃の手を緩めずに、そのまま踏み込んで若干角度のついた横薙ぎの一撃を繰り出した――吸血鬼の迎撃がその一撃と激突し、飛び散った火花が一瞬だけ周囲を照らし出す。

 いい刀だ――魔力を帯びて半ば霊的武装と化しているとはいえ、これだけ撃ち合っても刃毀れひとつしない。否――『灼の領域ラストエンパイア』によって魔力の発現は封じられており、シンも吸血鬼も自分の得物に魔力を伝えることは出来ない。シンもそうだが、今はいずれの装備も稼働していない――使用者の魔力を注ぎ込まれていないので、対霊体殺傷能力はゼロに近い。ただし使用者である彼ら同様内部に封入された魔力は内部で稼働し続けているので、物理的な強度は極端に高いのだが。

 それは逆に言えば、使用者の魔力供給によるサポートの無い、純粋に武器の性能だけで強度が決まっているのだということでもある――全力ではないとはいえ瓶割と正面から撃ち合って傷つかないということは、かなり高性能の霊的武装だと言える。

 香坂と戦っていたとき、彼は太刀など持っていなかった――おそらくは笠神の手持ちの武装を奪い取ったものだろう。

 この吸血鬼が潰していなければ、今頃は自分が笠神と戦っていたわけだが、もしこの刀を自分が奪い取っていたら、ぜひともネメアに持たせてやりたかったところだ――そんなことを考えながら、シンは太刀を手元に引き戻した。

 眼前の吸血鬼が、弾き返された太刀を引き戻す――彼は太刀を頭上で旋廻させると、右足で踏み出しながらタックルを仕掛けてきた。それに逆らわずに後退して間合いを離す――その間も、吸血鬼の操剣は止まっていない。彼は右腕で保持した太刀を体の前で大きな円を描く様にして振り回し、低い軌道から振り上げてきた。

 白銀の鋒が地面を削り取り、土塊を巻き上げる――そんな大振りの動作だというのに、気を抜くと見失いそうなほどに速い。逆袈裟に振り上げられた一撃を、シンは若干後退しながら上体を仰け反らせて躱した。

 鋒に巻き上げられて飛び散った土塊が、視界を汚す――視界の上端で白銀が煌めいた。次の瞬間には視界を縦まっぷたつに引き裂いて、吸血鬼の振り下ろした太刀の刃が落ちてくる。

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