The Otherside of the Borderline 37

 

   †

 

 眼前の老人の魔力が、目に見えて膨張していく――それと同時に代謝が活発になり、先ほどまでの傷が見る見るうちにふさがり始めていた。

 末端に至るまでそうだが、吸血鬼化による肉体の顕著な変化のひとつが、細胞分裂の際の組織の劣化、老化が起こらなくなるということだ――体組織の劣化、細胞老化の指標のひとつに染色体の末端部に存在するテロメアの短縮が挙げられるが、吸血鬼化する際に細胞分裂に伴うテロメアの短縮は確認出来なくなるという研究結果が、聖堂騎士団の研究室から提出された報告書に記載されている。また細胞周期やDNA損傷を監視して細胞老化に導くp53遺伝子やRbタンパク質の働きも抑制され、細胞組織レベルで不死に近い状態になっている。

 細胞分裂の急速な発生に伴う細胞組織レベルでの老化が起こらないこと、細胞組織レベルで不死化していること、他にもまだ未解明の要因はあると思われるが、現状ではこれらが吸血鬼化した人間がその時点から加齢も老化もしないことの理由であると考えられている――ロイヤルクラシックの場合はこれに加えて肉体に四肢の切断など再建不可能な損傷を受けると、傷口に近い部分の体組織が幹細胞化して損傷個所を再構築する(これがあるから、ロイヤルクラシックは腕や脚を切断しても生え変わるのだ)のだが、噛まれ者ダンパイアの場合、これらはその肉体が吸血を続けている間は維持され続ける。

 ゆえに――

 軽く頭を掻いて、アルカードは冷静さを取り戻して余裕の表情を浮かべている老人に視線を向けた。

 圧倒的優位を確信しているからだろう、老人は余裕綽々の様子だった。

 実際たいしたものだ――あそこまでの高速治癒。噛まれ者ダンパイアになってわずか一日足らず、ろくな能力開発の時間も無いままこれほど高効率に魔力励起を行う能力を獲得した吸血鬼はそれほど多くない。

 痒かったので指先で耳の後ろをポリポリと掻いてから、アルカードは冷たい半眼を香坂に向けた。

「どうしたのかね、若いの――かかってこんのかな? それとも大口を叩いておったが、もう終わりかの?」

 気づいていないのか――少しばかり失望を感じながら、アルカードは溜め息に載せて言葉を発した。

「目出度いことだな、ご老体。気づきもしなかったのか?」

「なにを言うとるんじゃ?」 理解出来ない様子の老人に見える様に、それまで背後に隠していた黒禍を翳してみせる――その鋒に串刺しにされているのは、ぴちぴちの全身タイツの袖に包まれた左腕だった。

「お――」 老人が自分の左腕を見下ろす――腕の付け根から切断された左腕を。

「――もう行った」

 その言葉とともに――腕の切断面から流れ出した血が雫になって滴り落ち、地面に落下して砕け散った。

「――おぉぉぉおぉぉおおぉッ!」

 肩から先が消失した腕を見ながら、老人が悲鳴をあげる――それを適当に聞き流しつつ、アルカードは黒禍を一振りして老人の腕を足元に放り出した。

「まあ、なかなかたいしたもんさ、爺さん――あの一族がベースとはいえ、慣れない吸血鬼の体でよくそこまで動けるもんだ。さらにこの短期間に魔力励起まで獲得してる――正直、俺は今心底感心してる。あの女三人じゃ通用しなかっただろうな――連れてこなくて良かった。だが、相手が悪かったな――手抜きとはいえ、こっちものをやめればこんなもんだろう」

「若造、貴様何者だ!?」

 その言葉に、アルカードは口元に浮かんだ笑みを若干深くした。

「本当に目出度いな、爺さんよ――まさかあんた、俺が人間だとでも思ってたのか?」

 酷薄な笑みを浮かべた口元から覗く発達した吸血牙を目にして、老人が絶句する――アルカードは笑みを崩さないまま、黒禍の鋒を老人に向けた。

 切断してやった左腕を、元に戻される心配は無い――傷口の細胞組織が生きてさえいれば、噛まれ者ダンパイアは手足を切断されても傷口同士をくっつけるだけで完全に治癒する。しかし、黒禍で斬られた時点で傷口の細胞組織は死滅している――ゆえにただくっつけて元に戻すことさえ出来ないし、傷口がふさがることも無い。

 『剣』を除くすべての噛まれ者ダンパイアは、手足などの肉体の欠損個所を再生によって補う能力を持たない――くっつけて元に戻すか、それが出来なければ切断されたまま傷がふさがって後遺症として残ることになる。

 無論香坂あれはただの噛まれ者ダンパイアではない――が、そんなことは問題にもならない。

 ナハツェーラーは噛まれ者ダンパイアと同じで切断された四肢が生え変わることは無い――だが、純血のライカンスロープやそれに極めて近い個体の中には切断された手足を再生によって補うことの出来るものもいる。

 だがどの時期にライカンスロープの血統が紛れ込んだにしろ、ナハツェーラー、あるいは人間との交配によって血の薄れたライカンスロープにはそこまでの能力はあるまい。なにしろ猿渡に言わせれば、一族の九割は獣化ライカンスローピーの能力を持たないのだ。

 無論獣化能力を持つかどうかの確認は本人申告に頼るしかないので、あまりあてにするのも考えものだ――が、日本にやってきた時点ですでにライカンスロープの血は混じっていたと聞いている。先祖返り的に獣化能力を持って生まれてくる個体もいるだろうが、血統としてはかなりはずだ。

 ゆえに、香坂には欠損個所の再生能力は無いものとみていいだろう――無論あっても関係無いわけだが。

 先述したとおり、噛まれ者ダンパイアは切断された四肢を再生する能力を持たない――ゆえにくっつけて元に戻すか、それが可能な状況でなければ傷口がふさがって手足を完全に欠損する後遺症になる。

 しかしこの場合は、その傷口をふさぐためのすらすぐには始まるまい――傷口周りの細胞組織が死滅しているために、再建が始まらないのだ。普通の傷であれば死滅した組織が瘡蓋かさぶたになって徐々に再建が始まるのだろうが――傷口周りの細胞組織に壊死ネクロージスを起こさせる黒禍で負った傷であればそうはなるまい。それがというものだ。

 ゆえに出血も止まらない――出血が止まらなくなるという呪いを帯びた紅華で斬られた傷ではないから安静にしていればいずれ止まるだろうが、戦闘中であるために運動強度や心拍数の上がっている今の状況ではそうもいくまい。

黒禍こいつで負った傷は、周囲の体組織が死滅する――つまり物理的に切断部位より体寄りをさらに切断して、生きた組織を露出しないとしない。しかし紅華その鎗で切ったら、今度は出血が止まらない――悪循環だな、ご老人?」

 その言葉を最後に、アルカードは地面を蹴った。

 

   †

 

「目出度いことだな、ご老体。気づきもしなかったのか?」

 ネメアの視覚聴覚を介して、シンは現場の状況を完全に把握していた――もっとも、ネメア本人はその事実を捉えきれてはいない様だったが。

 おそらく『正体不明アンノウン』本人と、シンだけが気づいていた――ほんの一瞬、文字通りナノセコンド以下の一瞬の間に、彼は香坂に接近し、長剣で老人の左腕を斬り落とし、爪楊枝に挿した唐揚げみたいに串刺しにしてもとの位置に戻ったのだ。

「なにを言うとるんじゃ?」

 本気で理解出来ていないのだろう、訝しげに首をかしげる老人に、『正体不明アンノウン』がそれまで背後に隠していた黒禍、その鋒に串刺しにされた香坂の左腕を翳してみせた。

 愕然とした表情で肩から先が消失した自分の左腕を見下ろす香坂に、『正体不明アンノウン』が気楽に声をかける。

「もう行った」

「――おぉぉぉおぉぉおおぉッ!」

 肩から先が消失した腕を見ながら、香坂が悲鳴をあげる――耳障りな叫び声を適当に聞き流して、『正体不明アンノウン』は手にした黒禍を軽く振り抜き、老人の腕を足元に放り出した。

 ライカンスロープとしてナハツェーラーとして、あるいは噛まれ者ダンパイアとして、香坂がどの程度の能力を持っているのかはわからない――だが一般的な例で言えば、噛まれ者ダンパイアは損傷が修復して傷口がふさがることはあっても手足の欠損は生え変わらない。

 同時に切断面の細胞組織はかなり長い時間生きているので、切断面の傷が治癒して切断された個所が皮膚で覆われる前に切断された手足を傷口にくっつければ完全に治癒する。血管や筋肉はもちろん神経も完全につながって、元通りの状態に戻るのだ。

 だが、黒禍で受けた傷はその周囲の細胞組織が瞬時に死滅させられる。ゆえに、切断してすぐの手足を接合しても治らない。

 あの左腕はもう完全に死んだのだ。

「まあ、なかなかたいしたもんさ、爺さん――あの一族がベースとはいえ、慣れない吸血鬼の体でよくそこまで動けるもんだ。さらにこの短期間に魔力励起まで獲得してる――正直、俺は今心底感心してる。あの女三人じゃ通用しなかっただろうな――連れてこなくて良かった。だが、相手が悪かったな――手抜きとはいえ、こっちものをやめればこんなもんだろう」

 なるほど――ひとり納得して、シンは目を細めた。

 つまるところあの男は、今まで自分の魔力を抑えていたのだ――完全なヒトの形を保っているから、おそらく正体は西洋原産種の吸血鬼ヴァンパイアだろう。綺堂桜の様な吸血鬼のことをローマのカトリック教会がナハツェーラーと名づけているらしいが、かの一族に限らずナハツェーラーやライカンスロープはあれほどの強大な魔力は持っていない。

 だが、人間よりもはるかに高い身体機能を誇っていることは間違い無い――反射速度、運動能力、そしてパワー。

 香坂の様な吸血鬼は、魔力を高めて肉体を活性化させることで身体能力やパワーを増幅することが出来る――だが基底状態でも人間の数十倍の膂力を誇る魔物の場合、基底状態よりもさらに魔力を抑える、というよりも香坂が自分の魔力で身体機能を補強した様に、自分の魔力で自分の身体能力を必要があるのだ。

 シンの場合はまた違うのだが、吸血鬼ヴァンパイアの場合はそうらしい――そうしないと本人は軽く力を込めたつもりでも鉄パイプをひしゃげさせ、扉の取っ手を捩じ切ってしまったりと日常生活にも支障が出るらしい。十分に習熟すれば身体能力は抑えないまま握力だけを抑えたりと、細かく制御出来るらしいが。

 今の状態が彼にとっての全力なのかは、わからない――だが今の時点で香坂を軽く圧倒しているであろうことだけは、想像に難くない。

 もう状況は決着した。香坂は絶対に、あれには勝てない。同じヴァンパイアであっても、あの男と香坂では――

「若造、貴様何者だ!?」

 香坂の発した誰何の言葉に、ネメアの位置からは顔の見えない『正体不明アンノウン』の声に若干の笑みが混じった。

「本当に目出度いな、爺さんよ――まさかあんた、俺が人間だとでも思ってたのか?」

 酷薄な笑みの混じった返事を返し、金髪の青年が手にした黒い短鎗の穂先を香坂に向ける。

「こいつで負った傷は、周囲の組織が死滅する――つまり物理的に切断部位より体寄りをさらに切断して、生きた組織を露出しないとしない。しかしその鎗で切ったら、今度は出血が止まらない――悪循環だな、ご老人?」

 その言葉とともに、『正体不明アンノウン』が地面を蹴る――ネメアには眼で追うことすら出来ないだろうが、シンにははっきり理解出来た。

 先ほどの香坂の動きなどとは比べ物にならない――瞬時に香坂の間合いを侵略し、繰り出したのは神速の刺突。

 踏み込みながらの黒禍での連続刺突――その手数は五回、六回、否それ以上。動体視力で劣るネメアの視覚では、いかにシンでもそれ以上は数え切れない。ネメア自身は、彼が刺突を繰り出したことすら認識出来ていないだろう。

 たとえシンでもすべてを凌ぎきるのは難しいであろうその刺突のうち数合を、瞠目すべきことに香坂は紅い短鎗でなんとか凌いだ様だった――だが黒い短鎗を引き戻し様に『正体不明アンノウン』が繰り出した最後の荊の刺刑Rosethorn Excuteの一撃は突き出されたまま軌道を変えて突撃から斬撃へと変化し、ギリギリのところで躱し損ねた香坂のこめかみを掠めた。浅い一撃ではあったがそれでも深々と皮膚を引き裂かれ、鮮血が噴き出して老人の顔の左半分を濡らす。

 いずれも先ほど手にしたばかりであるにもかかわらず、あの男の短鎗と長剣の扱いは完璧だった――荊の刺刑Rosethorn Excuteの刺突を短鎗の穂先で払いのけた老人の肘の裏側に、『正体不明アンノウン』が突出した黒禍の穂先が突き刺さる。

 その刺突で神経細胞を殺された香坂の指から握力が失われ、力を失った手の中から紅の短鎗が滑り落ち――続く荊の刺刑Rosethorn Excuteの一撃が、香坂の腕を上膊の半ばから切断した。

 指の筋力を支配する神経をまとめて香坂の手は、もはや武器を持つことは出来ない――したがって、ことさらに切断する意味は無い。だが切断してしまえば、腕を楯にすることも出来ない。武器を奪い、次は腕――彼は香坂の防御手段をひとつひとつ破壊しているのだ。

 切断された右腕がくるくると回転しながら宙を舞い、傷口から噴き出した血が霞の様に虚空をあけに染める――『正体不明アンノウン』が荊の刺刑Rosethorn Excuteの振り抜きを途中で止め、そのまま香坂に向かって投げつける。後方へ跳躍して間合いを離しながら、老人がぎりぎりのところで身をよじって投擲された荊の刺刑Rosethorn Excuteを躱し――環謹製の魔術兵装荊の刺刑Rosethorn Excuteはその刃の鋭さを示す様に、背後にあったH字断面の鉄骨に手元まで突き刺さった。

 腕が無ければ、投擲された長剣をすでに無用の長物と化した腕を犠牲に払いのけることも出来ない――先ほどすでに機能を殺した腕を切断したのはこのためか。

 『正体不明アンノウン』が先ほど投げつけた荊の刺刑Rosethorn Excuteの代わりということか、握力を失った香坂の右手の中から滑り落ちた紅華を落下するよりも早く掴み止めた――荊の刺刑Rosethorn Excuteを躊躇無く投げつけたのは、武器としては遣いにくい荊の刺刑Rosethorn Excuteよりも直接的な追加効果のある紅華のほうが有用だと判断したからだろう。

 しぃっ――歯の間から息を吐き出しながら、『正体不明アンノウン』が投擲された荊の刺刑Rosethorn Excuteを躱したときに体勢を崩していた香坂に向かって殺到する。彼が手にした紅華と黒禍は、もはや何者も逃れ得ぬ死を孕んだ紅黒の烈風と化して香坂に向かって荒れ狂った。

Aaaaraaaaaaaaaaaアァァァラァァァァァァァァァァッ!」

 『正体不明アンノウン』の咆哮が響き渡る――それまでも十分な脅威であった『正体不明アンノウン』の連続攻撃は、投げ棄てた荊の刺刑Rosethorn Excuteの代わりに紅華を獲得することによってさらに苛烈になった。黒い風と化した彼が攻撃を繰り出す度、香坂の体にひとつまたひとつと傷が増えていく。

 おそらくは一撃で仕留めることは重視していないのだろう、精度よりも速度を重視して手当たり次第という感じで繰り出された連続攻撃が後退しながら身をよじって回避を試みる香坂の体を次々と切り刻んでゆく。

 『正体不明アンノウン』からしてみれば、もはや今の状況で一撃必殺を狙う必要など無いのだ――彼の手の中には、鹵獲した黒禍と紅華があるのだから。

 一撃で傷口の周囲の機能を殺せる黒禍も厄介だが、この状況では紅華こそが香坂にとって脅威だと言える。

 なにしろ荊の刺刑Rosethorn Excuteと違って、絶対に出血が止まらないのだ――西洋原産種の吸血鬼の中で特に真祖と呼ばれる個体はどうだかわからないが、噛まれ者ダンパイアのほとんどは体格が同程度であれば血液量は人間とさほど変わらない。だが運動能力には格段の開きが出るし、彼らは人間と同様酸素を必要とする。

 では人間と吸血鬼の酸素供給のなにが違うのかというと、それは赤血球の酸素運搬能力が違うのだ――だが血液量そのものはさほど変わらないので、一定量の出血による能力低下は人間よりも吸血鬼のほうがはるかに深刻なものになる。

 すなわち紅華による『出血が止まらない』呪いというのは、吸血鬼にとっても極めて深刻なダメージだと言える――ことに両腕を失って反撃もかなわず、繰り出されてくる攻撃を体ごと躱す以外に手段が無い状況とあっては。

 『正体不明アンノウン』は先ほどよりも、さらに速さを吊り上げている――もはやネメアの視覚を介しては、眼で追うことすらかなわない。

 ふいに香坂の体が後方に撥ねる様にして吹き飛ばされる――『正体不明アンノウン』が横蹴りを叩き込んだのだということを反応の遅いネメアの視覚を通して見ていたシンが理解したときにはすでに、『正体不明アンノウン』は引き戻した黒禍の穂先を背後の鉄骨に叩きつけられた香坂に向かって突き出していた。

 狙いは右脚――太腿骨の内側を通って脚の機能を支配する坐骨神経を、これ以上動けなくする心胆はらか。

 黒禍がある以上、決着を急ぐ必要は無い――黒禍で負った呪いの傷は、治らないのだから。出血で反応の低下した獲物の体を切り刻んで機能をひとつひとつ奪ってから、防御も回避も出来なくなったところでゆっくりと心臓の機能を殺せばいいのだ。

 だが、突如彼が動きを止める――隣のビルの外壁に叩きつけられた香坂が、眼潰しにするために吐きかけた唾液が目に入りかけたからだろう。とっさに飛び退く彼の眼前で、老人は無様にも敵に背を向けて逃げ出した。

「逃げたか、ご老体」 黒禍と紅華を両手に携えて、『正体不明アンノウン』がそんな言葉を零す。

「だが残念だが、逃がしてはやらんぜ?」

 不敵な笑みを浮かべながら、そんな言葉を口にして――『正体不明アンノウン』が突如こちらを、正確にはネメアを見遣った。

「おい――おまえの視覚を介して、こっちを見てる野郎がいるはずだ。ほかに何人いるのかは知らんが、その中にはこの結界を構築した魔術師もいるんだろう――そいつらに伝えろ。声も聞こえてるんなら、それでもいい――あの老いぼれは、俺が潰す。俺がここから離れれば、転移魔術も使える様になるだろう――さっさとおまえたちを回収してもらえ」

 馬鹿な――気づいているのか!?

「――出血はひどいが、輸血なりなんなりを続ければ助かる芽はあるはずだ。普通の人間ならともかく、その娘やそっちの連中は妖怪だし、おまえも普通の人間じゃないだろう。もっといい方法があるんなら、それでもいい――どのみち二分以内に、あの爺は死ぬ」 シンの驚愕を意識しているのかいないのか、彼は平然とそう付け加えてから地面を蹴った。

 

   †


 金髪の青年アンノウンの戦闘力は、文字通り圧倒的だった。一族屈指の凶手である香坂隆次をまるで赤子の手をひねる様にあしらい、今は双鎗をともに奪い取って斬り刻んでいる。

 やがてその攻撃に耐えかねたのだろう、スイの視界の中で工事現場の壁際にまで追い詰められた香坂は青年に眼潰しを喰らわしてから、そのまま踵を返して逃げ出した。

 青年は追う様子を見せない――彼はネメアに視線を向けたあとしばらく周囲を見回していたが、出し抜けに姿を消した。

「あ!? あれっ!?」 声をあげて、スイは一度スコープから目を離した。

「ナツキ、金髪の男アンノウンを見失ったわ。探して」

「もう見つけてるよ」

 後藤夏昭――人間社会ではそう名乗っている弟が言ってくる。黒髪を背中まで伸ばしてうなじのあたりで紐で束ねた見た目十九歳の青年は手にした双眼鏡を覗き込みながら、

「二時。北側に二ブロック――交差点の向こう側、トヨペットの屋上、看板の上だ」

 ナツキの言葉に、スイは再びスコープの接眼レンズを覗き込んだ。言われた方向に銃口を向けると、それまでの戦闘の現場から三百メートルは離れているだろうか――十階建ての自動車販売店の屋上に設置された看板の上に、鎗を手にした金髪の青年がたたずんでいる。

 金髪に紅い瞳。暗闇の中で爛々と、おのずから輝いている魔人の――吸血鬼だ。

 黒と赤の短鎗を手に、長い金髪を風に嬲らせてたたずむ姿は、なかなか絵になっている――彼女がそんな感想をいだいたとき、青年が声をあげるのが聞こえてきた。凄まじい声量のその声は、数ブロック離れたスイの耳にまでじかに届いた。

じじぃぃぃぃッ!」

 一拍置いて、『正体不明アンノウン』が手にした黒い短鎗を逆手に構えて振り翳すのが見えた。投擲するつもりなのだと気づいたときには、青年は派手ながら無駄の無い――すなわち、モーションによって捻出した膂力のすべてが鎗に伝わるであろう動きで、黒い短鎗を投擲していた。

 放物線を描くどころか完全に直進しながら、黒い短鎗が視界外へと飛んでいく。スイは千禅院の犬の妖怪たちの中でも並はずれて動態視力のいいほうだったが、それでも鎗の動きは黒い筋の様にしか捉えきれなかった。

 人間の目には、残像すらも捉えきれないだろう――瞬間的とはいえ轟き渡った轟音は、その投擲が音速を軽く超えていることを理解させるに十分だった。

 続いて、『正体不明アンノウン』が今度は左手に持っていた紅い短鎗を振り翳し、同様に投擲するのが見えた――投げたままの姿勢から青年が体勢を崩し、否、そのまま看板から飛び降りたのだろう、トヨペット店の玄関前へと落下してから何事もなく着地する。

 それから彼は、赤信号を無視して交差点を突っ切り、そのまま鎗を投げた方向へと歩き出した。

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