The Otherside of the Borderline 36

 

   †

 

「まあいいさ――夜は長い様で短い。そろそろ終わりにしよう」

 そう告げてアルカードは――刃の手元に刻まれた刻印によると、銘は荊の刺刑Rosethorn Excuteというらしいが――と黒禍を構え――いつの間に間合いに入ってきたのか、眼前で笑っている老人の姿に小さく毒づいた。

「イヤァ!」 咆哮とともに、老人が紅華の連続突きを繰り出してくる――先ほどまでより格段に速い。致命傷になりそうなものから順番に荊の刺刑Rosethorn Excuteと黒禍で受け捌くと、アルカードは荊の刺刑Rosethorn Excuteを逆手に持ち替えて老人の左目に向かって手を伸ばした。

 触れる直前で人差し指を伸ばし、老人の眼窩に撃ち込もうと――眼潰しの類は抜き手だと失敗することが多い――するより早く、こちらの狙いを悟った老人が死角が出来るのを嫌って後退する。

 今の遣り取りで、すでに三ヶ所ほど傷が増えている。もっとも、怪我に関してはどうということもない――この老人を殺して呪詛が解ければ、それで即座に治癒する。

 それよりも彼としては、どちらかというと血でジャケットが汚れていやしないかというほうが気がかりだった。一品ものの特注品なので、汚れて着られなくなってしまったら泣くに泣けない。

 すでに初撃の流血は襟に届いている――早く拭き取らないと革が傷む。

 許さん。爺。

 敬老精神の無いことを胸中でつぶやいて、老人に視線を戻す。

 老人に視線を据えたまま、アルカードは手にした荊の刺刑Rosethorn Excuteをコンクリートに突き立てた。

 続いて右脇のホルスターからX-FIVE自動拳銃を引き抜き、据銃して発砲する。軽い反動を苦も無く抑え込んで、三発――乾いた銃声が響き渡り、弾き出された空薬莢が回転しながら宙を舞う。

 だが銃弾はソニックブームの轟音とともに宙を引き裂きながら、パーティション近くに置いてあった二台の移動式ガス熔接機にチェーンで固定された三本のガスボンベの頭部に命中しただけだった。

 褐色のガスボンベが二本、それより小さな黒いガスボンベが一本。

 ガス溶接は褐色のボンベに封入されたアセチレンと黒いボンベに封入された酸素をそれぞれ一本ずつ使うので、普通はそれぞれ一本がセットになっている。移動式熔接機も一台のフレームにアセチレンとガスのボンベが一本ずつ括りつけられているのだが、一方の熔接機には酸素のボンベが載っていなかった。

 一本無くなっているのは、どういうわけだかわからない――が、さっきそのへんに人参のヘタみたいにそこだけ切り取られたガスボンベの頭部が転がっていたから、おそらく行方不明のガスボンベの末期はそれなのだろう。

 そこが保管場所らしく小さなタイヤがついた移動式のフレームにボンベ二本をチェーンで固定した移動式熔接機が二台が置かれ、こちらは定置式の金属製のフレームに予備の褐色と黒のボンベがチェーンで括りつけられている。一緒に置かれた緑色のボンベはアーク溶接の際に用いられるシールドガス用の炭酸ガスだ。いずれも予備のボンベを保管してあるらしく、ボンベのバルブ部分には封印のテープが貼られたままになっている。

 シールドガスには用は無い――続いて立て続けに撃ち込まれた銃弾がそれまで香坂がいた空間を貫いて、予備ボンベの固定台に括りつけられた褐色と黒で塗装されたガスボンベ各二本の頭部を撃ち砕く。

 続いて撃ち込んだ概略照準連射ダブルタップの弾丸が身を躱した香坂の代わりに金属製の固定用フレームにボンベを括りつけていたチェーンを吹き飛ばし、着弾の衝撃でバランスを崩した褐色と黒のボンベがゴトンという重い音とともにその場で横倒しになった。

 着弾でボンベのバルブが壊れ、中から流れ出した透明の液体がコンクリートの上に広がり始める。

 よし――

 香坂は俊敏な動きで身を躱し、撃ち込まれた概略照準連射ダブルタップの射線から逃れている――それで一度仕切り直すということか、老人が一度後退して間合いを離した。

 だがそれを追尾して、先に仕掛けたのはアルカードのほうだった――自動拳銃を右脇のホルスターに戻して地面に突き立てたままになっていた荊の刺刑Rosethorn Excuteを引き抜き――老人の後退動作を追って地面を奔り、苛烈な踏み込みとともに荊の刺刑Rosethorn Excuteの鋒を突き出す。

 老人が無駄の無い動きで、突き込まれた鋒を躱すのが見えた――先ほど自分がそうしたのと同様、はたから見ていれば少し頭が揺れた様にしか見えないであろうきわめてコンパクトな挙動。

 だが、それでいい――突き出した荊の刺刑Rosethorn Excuteの刺突を、アルカードはそのまま斬撃に切り替えて水平に振り抜いた。老人が体を沈めてその一撃を躱し、紅華を突き出してきている――だがそれより早くアルカードが挙動を読んで繰り出した前蹴りを躱すために、老人は攻撃を断念して後退した。

 それを無視してアルカードは右手の黒禍を頭上に投げ上げ、腰のホルスターから自動拳銃を引き抜いた。

 ちょこまかと動きは速い様だが――戦況の利も不利も、周りにあるものの使い方次第だ。たかが噛まれ者ダンパイアでも――

 

 乾いた銃声とともに小気味いい反動が腕を突き抜け、弾き出された空薬莢が宙を舞う。

 しかし老人は案の定、わずかにその射線上から体をはずして銃撃を躱した。

 ――

 わずかに銃口をぶらして、再び自動拳銃のトリガーを引く。もとより回避行動などとるまでもなく、最初から命中する見込みなど無かった一弾。当然それはわかっているからだろう、小馬鹿にする様に唇をゆがめて老人が前に出た、次の瞬間。

 体勢を立て直して再び前に出ようとした瞬間に背後で起こった爆発に巻き込まれ、爆風とともに飛んできた無数の砕片を背中に喰らって、香坂がその場で踏鞴を踏む。

「なに……!?」 驚きの声をあげて、老人が一瞬だったが肩越しに背後を振り返った。

 瞬間的ではあるものの、発生した熱の影響でパーティションの塗装が黒焦げになっている。近くに置いてあった『溶接機/予備ボンベ保管場所』の樹脂製のプレートも、高熱に晒されてぐにゃりと変形していた。

 老人は知る由も無いだろうが、それはアセチレンガスの爆発だった――アセチレンガスは熔接に使われる可燃性ガスの一種で、日本ではアセチレンガスのボンベは法律によって褐色に塗装することが義務づけられている。

 アセチレンは燃焼速度がきわめて速く、また燃焼範囲が可燃性ガスの中でもっとも広い(水素は二番目)。さらに酸素と混合すると、摂氏三千三百度もの高温で燃焼する。

 アセチレンガスはボンベ内においてはアセトンと呼ばれる有機溶剤に溶解させ、これをケイ酸カルシウムに吸着させることで安定した状態に保たれている――アセチレンは三重結合の極めて不安定な物質であり、そのまま高圧をかけて液状化させると、分解爆発する危険があるからだ。

 アセトンとアセチレンの関係は水に炭酸ガスを溶かして炭酸水を作るのに近く、要はアセトンのアセチレン溶液をスポンジに染み込ませて保存しているのだ。

 アセトン自体は有毒性有機溶剤の一種で、ゴムパッキンを冒す性質を持っている――アセトンがパッキンに直接触れればアセトンに冒されてパッキンが溶解し、アセトンとアセチレンが外部に漏れることになる。このため日本の法律の規定では、アセチレンボンベを横倒しにして保管することが厳重に禁止されている。

 アルカードが先ほどの射撃でフレームに固定されていたアセチレンボンベのバルブを損傷させ、さらにチェーンを破壊してボンベを倒したために、内部のアセチレンは溶媒のアセトンとともにボンベ内から大量にこぼれ出してきていた。

 アセチレンの沸点は氷点下八十七度、引火点は氷点下十七度。引火点こそ氷点下三十八度のガソリンに比べて高いものの、常温で気体であるため大気開放された際の蒸発が非常に速く、また燃焼範囲が広いために危険が大きい。

 もう一基、移動式ガス熔接機に固定されていたアセチレンガスボンベも、バルブを破壊され大気開放されたために内部に充填されたアセトンに溶けていたアセチレンは外部にあふれ出してきていた。

 さらに、アルカードは酸素ボンベも倒していた――バルブを破壊された酸素ボンベから高圧の酸素が噴き出し、その周辺に純酸素が高濃度で存在する空間を作り出した。

 工事現場はパーティションに遮られて、無風状態になっている――流れ出したアセトンから蒸発したアセチレンは酸素ボンベから漏れ出してきた酸素と混じり合い、その一角に高濃度の混合ガスが蓄積した空間を形成していた――極めて狭い空間にわだかまっていた混合ガスの塊が、アルカードが撃ち込んだ銃弾がボンベに命中した際に飛び散った火花によって引火し、瞬時に爆発したのだ。

 アルカードは先ほどの銃撃で、最初から香坂など狙っていなかった――彼は最初から、ボンベのバルブを破壊してガスを漏らすのが目的で銃撃していたのだ。

 香坂はアルカードが最初からアセチレンボンベを狙って銃撃していたことに気づかず、アルカードの攻撃に追い立てられるまま、高濃度の可燃性ガスが充満した空間に自分から飛び込んでいたのである。

 

   †

 

 爆発とともに撒き散らされた細かな砕片を全身に浴びて、香坂が悲鳴をあげる――空になった酸素のボンベの中に可燃性ガスの混合気が入り込み、内側からボンベを粉砕したのだ。

 それ自体はさしたるダメージにはならないだろうが、吸血鬼だろうがなんだろうが痛いものは痛い。

 なにが起こったのかはネメアには理解出来なかっただろうが、ネメアの視覚を介して現場を見ている環には理解出来ていた。

 あの『正体不明アンノウン』はあらかじめ老人を撃った様に見せかけてガス溶接機のボンベのバルブを破壊し、酸素やアセチレンを漏出させてから老人をガスの発生した空間に追い込んで、銃撃の火花で爆発させたのだ。

 ガス熔接は分厚い鉄板相手には使えないが、熔断(ガス熔接時、溶けた金属を吹き飛ばすことで素材を切断すること)や細かい曲げ加工などには断然向いているから、工事現場にガスボンベが置いてあるのは珍しくない――この工事現場にもアセチレンと酸素のボンベを持ち運べる移動式の熔接機二台と、パーティションの内側の金属製のフレームにチェーンで固定された予備のガスボンベ数本が保管されていた。

 アセチレンは容易に揮発するし、酸素は圧縮されているからバルブが壊れて大気開放されれば高速で気化する。

 『正体不明アンノウン』はそれらのボンベのバルブを破壊することで内部のガスを流出させ、ボンベの保管場所の周囲に高濃度の可燃性混合ガスを作り出し、香坂をその場所に追い立ててから混合ガスに点火したのだ。

 香坂が一度背後を振り返ってから再び視線を戻したときには、すでに『正体不明アンノウン』の姿はそこに無い――動体視力に劣るうえに出血のために目の霞んでいるネメアの視覚では、その挙動を追うことは出来なかった。

 だが次の瞬間には、『正体不明アンノウン』は香坂の間合いを侵略している――荊の刺刑Rosethorn Excuteと、それにおそらくは先ほど投げ上げたのを空中で掴み止めたのであろう黒禍を手に、『正体不明アンノウン』は体勢を立て直せていない香坂に襲いかかった。

Aaalieeeeeeeeaaaaa――アァァラァィィィィィィィアァァァァァ――ッ!」

 咆哮とともに『正体不明アンノウン』が繰り出した連続攻撃が、香坂が防御のために翳した紅華に衝突して火花を散らす。

「うおおおおっ!」 香坂が咆哮をあげながら苦し紛れに繰り出した蹴りを躱し、『正体不明アンノウン』が後退する――そこで彼は足を止めた。

 

   †

 

 連続攻撃をギリギリのところで受け捌いた香坂が苦し紛れに繰り出した前蹴りを躱して、後方へ跳躍する――数メートルほど間合いを離したところで、アルカードは足を止めた。

 爆風でパーティションが外側に薙ぎ倒されたために吹き込んできた風が、澱んだ空気を吹き散らしていく。

 老人の体に、それまでとはまったく異なる魔力の気配が充満し始めていた――魔力を励起させて身体機能の強化を始めたのだ。

 ある程度能力開発を行った吸血鬼は、自分の魔力を励起させることで身体能力の強化を行うことが出来る。聖堂騎士団の連中が霊体を加工して身体能力を補強する刻印魔術と、まあ似た様なものだ。

 違うのは刻印魔術と違って代謝機能も強化されることで――全身に穿たれたボンベの破片の傷が、痕跡も残さず再建されていく。

 たいしたものだ――吸血鬼化してから一日足らずしか経っていない下級の噛まれ者ダンパイアが、まさか魔力操作まで獲得しているとは。

 だがそれはつまり、月之瀬も同様の技能を習得している可能性が高いということでもある。思ったよりも侮ってかかれないかもしれない。

 感心はしたものの、気に入らないのも事実だった――せっかく手の込んだ搦め手で動きを止めたのに、一気に片をつけるチャンスをふいにしてしまった。

 まあいいんだけどな、別に――胸中でつぶやいて、左足を引いて身構える。右手の黒禍を肩に担ぎ左手の荊の刺刑Rosethorn Excuteの鋒を突き出して、彼は口元をゆがめて笑いながらわずかに重心を下げた。

 

   †

 

 腰に佩いた太刀の鍔が鳴る。

 白滝一丁目という標識の出た大きなスクランブル交差点で一度足を止めて、周囲に視線をめぐらす――自分が迷子になりかけているのを自覚して、彼は躊躇無く環を呼んだ。

「エクスロードよりベガ。誘導を」

 部隊として指導されている正しい形式の連絡ではなかったが、それはこの際仕方無い――気にしている様な余裕も無かった。

「ベガ。その交差点を東に」

「エクスロード了解」 声には出さずに思念だけでの遣り取りを終えると、シンは再びアスファルトを蹴った。

 彼の名は千禅院シンという――人間の姿を取っていても、彼は人間ではない。

 彼は東北地方の山々を支配していた、犬の妖怪の一族の棟梁だ――正確に言うなら元棟梁だが。

 かつての君主エクスロードのコールサインが示す通り、今の彼はもはやその立場にはない――より正確に言うならば、人間の開発によって棲み処を追われ、その日の糧にも事欠くほどに切迫している状況を打開するため、彼は自分の一族すべてを従えたまま空社陽響の庇護下に入ったのだ。

 今現在の彼は、空社陽響に仕える妖怪たちすべてを統べる立場にある――帝国騎士団Knights of Empireの名で呼ばれる妖怪たちすべてを。

 帝国騎士団には、生身の人間は数えるほどしかいない。一般騎士はほぼ百パーセント妖怪で構成され、人間社会で生活していくために人間に擬態した姿で暮らしている。建前を抜きにして簡単に言ってしまえば、騎士団は本来、彼らの一族も含めた二千近い妖怪たちを養うために即興で作り上げられたアルバイト部隊だった。

 それまではほとんど単独に近い状態でこなしてきた陽響の任務を手伝うことで、彼らは糧を得てきたのだ。

 今となってはほとんどの妖怪たちは人間社会に紛れ込み、適応して生活していく術を身につけた。彼らの大部分は、すでに騎士団の収入が無くても生きていける様になっている――それでも匿われた初期の恩を返そうと、彼らの多くは自発的に人間社会での職業と騎士団の任務を兼任する様になった。

 もともと犬の妖魔たちは、一度主を定めると忠誠心が強い――それは犬の妖化した人外である彼らの特徴で、シンもその例に漏れない。

 だが、族長たる身でほかに主を定めようと、ひとつだけ変わらないことがあった――千禅院の一族に対して、彼は今でも責任がある。

 先ほど環を介してネメアとアヤノの視覚を受け取ったとき、彼は怒り狂った――だがアヤノの身が不埒の輩に穢される前に『正体不明アンノウン』が乱入し、獣以下のゴミどもは瞬時に一掃されている。

 本来ならば、それをしなければならなかったのは彼だ――いかに環が噛まれ者ダンパイアたちに攻撃を加え、『正体不明アンノウン』が殲滅する前に噛まれ者ダンパイアどもを無力化していたとはいえ、そしてすでに接近していた『正体不明アンノウン』の魔力の影響で環の転移魔術によって直接その場に転移することが不可能な状況であったとはいえ、それとこれとは別問題だ。

 本来であれば、噛まれ者ダンパイアどもを斃すのは彼らの身に対して責任ある立場である自分の役目だった。

 『正体不明アンノウン』の正体は文字通り不明アンノウンだが、本来シンがなすべきことを彼が代行したことによって、シンは彼に借りが出来た――あの男が何者なのかは知らないが、彼が香坂と闘って斃される様なことがあってはならない。

 香坂の攻撃によって、彼はいくつか手傷を負っている――ネメアの視覚から推し測るとたいした傷ではないが、出血が止まらなくなる呪いをかけられた紅華によって負った傷は、無自覚の大量出血をもたらす可能性を孕んでいる。

 呪いを帯びた武器による受傷は、その武器の使用者を殺害しないかぎり呪いの効果が持続する。正確には武器そのものの破壊によって呪いが解けることもあるのだが、武器そのものが呪いの効果を帯びている場合と、使用者の魔力の一部を呪術式に変換して攻撃対象の霊体に植えつける場合とでは対処法が違ってくる。

 前者は前述のとおり武器自体を破壊するだけでいいのだが、後者の場合は武器の使用者が生きてさえいれば効果が持続するので、武器の破壊よりも使用者の殺害を優先して考えなければならない。

 そして魔力を励起させた吸血鬼は、強化を始める前に比べると圧倒的に身体能力が増幅される――場合によっては体力こそ消耗するものの、それまで受けた損傷も回復する。高位の吸血鬼であれば周囲から取り込んで蓄積した精霊を活力に転換することも出来るが、おそらく香坂にそれほどの力量はあるまい。

 問題は『正体不明アンノウン』のほうだ――おそらくは彼も人間ではないのだろうが、どの程度の能力を持っているのかはわからないし、仮に似た様なことが出来たとしてもそれで呪いの効果が解除されるわけではない。

 どうあっても、『正体不明アンノウン』の不利に変わりは無いのだ。

 どうする――今すぐ手を出すか?

 陽響と環は彼を香坂にぶつけて彼の実力を測ろうとしているが、同時に彼が危険な状況になったら介入するという判断も下している。ならばしばらくは待つべきか――陽響が言った通り、陽響も、もちろんシンも、彼らの部下が殺されそうになったところを止めてもらった借りがある。

 数瞬考えて、シンは彼が香坂と互角に戦える様ならば現場に到着しても手出しはせずに静観することに決めた。介入は『正体不明アンノウン』の自尊心を傷つけるだろうし、場合によってはそれでこちらも敵対勢力と看做す可能性もある。

 だが、もし彼が香坂に追い詰められ斃される様な事態になれば、そうなる前に自分が止める――必ずだ。

 人間よりもはるかに優れた嗅覚で血の臭いを嗅ぎつけて、シンは方向を変えた――もはや環のナビゲーションは必要無い。

 犬の能力はただ臭跡を追うことだけではない――臭跡探知ではなく、いわゆる臭源探知の能力に優れた犬もいる。シンもそうだ――彼は臭いの発生源を直接追うことが出来る。

 複数の血の臭いに混じって、すでに何人もの匂いが嗅ぎ取れている――アヤノとトウマ、現場に取り残されたスクエア・ツーの二名とネメア、それに未知のふたりの怪物の匂い。

 どうせ車などいないので赤信号を無視して交差点を突っ切り、一ブロックを素晴らしいダッシュで駆け抜けて、彼はそこで足を止めた。

 なにがあったのか知らないが、工事現場の道路に面したパーティションが外側に薙ぎ倒されている。

 香坂から奪い取ったものらしい黒い短鎗ショートスピアと――まったく同じデザインの真紅の短鎗を、香坂が構えている――ネメアが手放したものを拾い上げたらしい荊の刺刑Rosethorn Executeを手に、黒いジャケットを羽織った金髪の男がこちらに背を向けてたたずんでいるのが見えた――まだかなり離れてはいたがその姿をじかに目にして、シンは彼の体から感じ取れる魔力強度に戦慄した。

 そこらの野良神霊など比ではない。環に匹敵するとはいかないが、本気になって暴れれば関東全域を数分で焦土に出来るであろう凄まじい魔力が、その体内で渦巻いている。

 もっとも、その魔力の大部分は常時なにかに使われているのか稼働していない様だった――彼が今使える魔力はせいぜい一割程度だろう。だがそれでさえ、超一流の魔術師を軽く凌ぐほどのものだ。

 何事か話しているらしい――風下なのでいくらか声は聞き取れたが、さすがに距離が離れすぎていて内容までは聞き取れない。

「どうしたのかね、若いの――かかってこんのかな? それとも大口を叩いておったが、もう終わりかの?」

 頭の中にしわがれた声が響き渡る――老人の声だから、おそらくこれは香坂の声だろう。

 ネメアかアヤノの聴覚から読み込んだ音声情報を、環が中継して寄越したのに違い無い。同時に視覚も投影されて、それでシンは現場の状況を把握し、そして――

 『正体不明アンノウン』の勝利を確信した。

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