The Otherside of the Borderline 20

「なんだ、そんなことか?」

 グリゴラシュはさもつまらないことを聞いたと言いたげに適当に肩をすくめ、

「俺は公爵に直接頼んだのさ。あんたみたいになりたいってな」

「なんだと……?」

「おまえが俺たちのいたあの部屋に乗り込んできたとき、俺は公爵に血を吸われて倒れていただろう? 俺はあのとき、公爵にこう言ったのさ――公爵に生涯の忠誠を誓う代わりに、不死身の体がほしいってな」

 抱擁を求めるかの様に両腕を広げて、グリゴラシュがそう言ってくる――紅い瞳が闇の中で爛々と輝き、狂気を孕んだ視線が針の様に彼を射抜いていた。

「昔から思っていたんだよ――俺はほかの奴らとは違う。俺は剣の技量でも誰にも負けなかったし、知識でもほかの誰にも負けなかった。なのに、どうしてだ? どうして俺は、マーチャーシュのところなんぞで穴蔵暮らしを強いられていたんだ? 血のつながらないおまえがこの屋敷でのうのうと暮らしていて、どうして俺はあんな暮らしだった? 親父はおまえなんぞのために、俺を公爵に差し出したんだ」

 ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュ一世――トランシルヴァニアの領主ヴォイヴォダであり、のちにハンガリーの大貴族のひとりとなるフニャディ・ヤーノシュの次男でもある男だ――美男公ラドゥに追い落とされたドラキュラが、助力を求めて頼り落ち延びた相手でもある。どういう意図かは知らないが、落ち延びてきたドラキュラをオスマン帝国との密通の疑義ありとして拘束し、その後十四年間拘束してきた男でも、ある。

 彼は幼いころ、グリゴラシュに直接会ったことが無かった――彼が物心ついたころにはグリゴラシュは屋敷にはおらず、すでにドラキュラのもとに差し出されていたからだ。

 だが、どうしてドラキュラのもとにいたのかまでは、彼は知らない――オスマン帝国の支援を受けた弟のラドゥにドラキュラ公が追い落とされると、グリゴラシュは彼とともにマーチャーシュのもとに落ち延びた。だから最近になってつなぎがつくまで、彼はグリゴラシュに会ったことは無かったし、生きていること自体知らなかった。

 グリゴラシュはフニャディ・マーチャーシュの密偵だ――彼は幽閉されていたドラキュラ公よりも一足早く軟禁状態を解かれ、オスマン帝国の暴虐を放置するラドゥ公の支配体制に不満をいだく叛オスマン派の貴族たちを煽動して内部蜂起を促す任務に就いていた。

 それもこれも、ハンガリーとオスマン帝国の領土事情によるものだ――かつてドラキュラ公はラドゥ公によってその座を追われ、フニャディ・マーチャーシュを頼ってハンガリー領だったトランシルヴァニアへと落ち延びた。

 トランシルヴァニア領へ逃げ延びたドラキュラ公はオスマン帝国の内通者であるという嫌疑をかけられ、ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュによって捕えられた。

 しかしそれから十年以上のち、ドラキュラは幽閉を解かれてカトリックに改宗し、またフニャディ・マーチャーシュの意妹であるマリアを妻に娶り、ハンガリーとカトリック教圏の支援を受けることとなる――別にオスマン帝国と内通していたという嫌疑が晴れたわけではなく、オスマン帝国軍がモルダヴィア公国を制圧したからだ。

 もともとワラキア公国はオスマン帝国、そして国境線を接するハンガリー王国領トランシルヴァニア公国との間で板挟みになり、代理戦争の舞台になってきた歴史がある。

 オスマン帝国が西欧に版図を広げるために、その通り道としてワラキア公国やモルダヴィア公国が必要で――逆にハンガリー王国側はその侵攻に対する防衛線としてワラキア公国を必要としていたのだ。

 ワラキア国民としては実に迷惑な話だが、まあそういうわけでオスマン帝国とハンガリー王国はたがいに自国の傀儡となる人物をワラキアの領主ヴォイヴォダとして擁立し、自国の傀儡政権を作り上げることで延々と代理戦争を続けてきたのだ――よそでやってほしいものだが。

 かつて――オスマン帝国の皇帝スルタンメフメト二世は歴史に名高いトゥルゴヴィシュテの夜戦でワラキア公国軍の夜襲を退けたのちに入城したトゥルゴヴィシュテの宮殿でことごとく串刺しにされて処刑された帝国兵たちの屍を目にし、戦意を喪失してイスタンブールに撤退している。

 だがオスマン帝国はカトリック教圏への進出のための兵站補給線を確保するためにワラキアとモルダヴィアの奪取をあきらめてはおらず、次なる一手としてイスタンブールにとどまっていたヴラド・ドラキュラの実弟を傀儡として擁立した。

 美男公ラドゥ――先代の皇帝スルタンムラト二世の治世の折に幼少時のドラキュラ公とともに人質として差し出され、のちに彼のあとを継いで皇帝となるメフメト二世の寵愛を受けてイスタンブールにとどまっていたドラキュラ公の実弟である。

 同時にオスマン帝国はドラキュラ政権下の貴族たちの内紛を誘発して政権の足元を揺さぶり、ドラキュラを追い落とすことに成功している。

 その後のオスマン帝国の専横は目に余るものであったが、十年以上も経過してからそれまでハンガリー王国で幽閉されていたドラキュラ公爵がワラキアに戻ってきた。

 オスマン帝国によってワラキア・トランシルヴァニア両公国と国境線を接する、モルダヴィア公国が征服されたためだ。

 オスマン帝国がトランシルヴァニアに攻め込む際に予測される経路はふたつ――ワラキアを通るか、モルダヴィアを通るか。そしてその両方が、オスマン帝国の支配地域となっている。

 モルダヴィアが制圧されて自分の支配地域が侵される可能性が現実のものになってきたために、ハンガリー王フニャディ・マーチャーシュは直接トランシルヴァニアやハンガリーに攻め込めない様に――あるいは攻め込んできたときにいつでも延びた兵站線を分断出来る様に、いわばになる勢力を必要としていた。

 そしてその防波堤になる勢力を用意するために親オスマン派のラドゥを排除してワラキアを奪取し、自分の息のかかったヴラド三世をワラキア公に据えることで自国の安全保障を確保しようとしていたのである。

 ドラキュラ公はそれまで十年以上も幽閉されていたのだが、密偵の任に就くまでの間グリゴラシュがドラキュラともども幽閉されていたことは知っている――お世辞にも楽な生活だったとは言えないだろう。

 だが、それがいったいなぜ彼に対する憎悪になるのだ?

 理解出来ないまま、彼は憎悪もあらわな冷笑を浮かべたグリゴラシュに問い質した。

「そんなことのために、おまえはここにいる者たちが殺されるのを看過したのか」

「ああ、そうさ」 笑いながら、グリゴラシュがうなずいてみせる。

「どうでもよかったからな。おまえは気づいてなかったんだろうが、俺はおまえのことが嫌いだった――本来俺がいる場所を、おまえはあっさりと奪い取っていった。まるで巣から卵を放り棄てる、郭公の雛の様にな。そうとも、親父でさえも俺よりおまえを取った――おまえを手元に残すために、俺を公爵に差し出した」 そこでグリゴラシュは、それまで浮かべていた冷笑を消した。

「知っているか、ヴィルトール? おまえの母親の素性、おまえの素性。おまえはドラキュラ公爵に対する叛逆の旗印としてオスマン帝国に利用される可能性があるだから、おまえを手元に置いていることを知ったとき、公爵はおまえを母親ともども殺すことを親父に要求した――だが親父は拒絶し、叛逆を防ぐための人質として俺を差し出した。母上もそれを止めなかった――俺の両親は、俺よりもおまえを取ったんだよ!」

 わけがわからない――そう言いたいところだが、ドラキュラの口にした言葉が事実であったのなら理解は出来る。

 本当に自分が、ドラキュラの落胤であるのならば――少なくともラドゥに代わる傀儡としての利用価値はあるだろう。だが、誰もそれを知らず、髪の色も違う面影の無い自分にいったいどれほどの値打ちがあるのか。

 だが――なおもグリゴラシュが言い募る怨嗟の言葉に、彼は唇を噛んだ。愚かな――自分のこの身の、なんと愚かなことか。

 自分は今まで気づいていなかった――ほんのわずかな罅が修復不可能な決定的な亀裂になるまで、グリゴラシュが長年の間に心の内に鬱積させてきた闇に気づかなかった。

 グリゴラシュは彼の養父の実子のひとりだった――長男だったグリゴラシュは、幼いころの彼にはよくわからない名目でドラキュラ公爵のもとに差し出された。

 一年半ほど前、フニャディ・マーチャーシュの密偵としてワラキアに舞い戻ってきたグリゴラシュとはじめて会ったとき、グリゴラシュは穏やかに笑っていた――だから、彼も笑った。その笑みの裏側に、グリゴラシュがどれだけの闇を溜め込んでいたのかを気づきもせずに。

 血を吐く様な思いで、彼は口を開いた。

「なら、グリゴラシュ――だったらどうして、ブカレシュティの街を巻き込んだ。なぜアヴラムやモニカまで死なせた。あのふたりは俺とは違う――血のつながったあんたの家族じゃないか。どうして彼らが殺されるのを止めなかった」

「それがどうした?」

 即座に。ただそれだけ。グリゴラシュは一瞬の躊躇も無くそう答えてきた。

「そうだ、あいつらは俺の可愛い弟と妹だ――だがアヴラムもモニカも俺をほったらかしにしてこの屋敷でのうのうとしていたんだ。俺が公爵のもとでどんな生活をしていたのかを知りもせずにな」

 その言葉に、彼は力無くかぶりを振った。もはやグリゴラシュにはどんな言葉も届かない。彼になにがあったのか、今となっては知る由も無い。だが、もはや彼は戻ってはこない――もはやどんな言葉も届かない。正常にものを考える能力が、憎しみの中で摩耗し尽くしてしまっている。

「教えてやるよ、ヴィルトール。俺はおまえが憎いんだ――おまえが俺の居場所を奪った。だから苦しみ続けろ――この光景を目に焼きつけろ。これはおまえの罪科だ。おまえが救いきれなかった者たちの阿鼻叫喚だ。この場で俺を殺しても、おまえが彼らを誰ひとり救えなかった事実は消えない。その事実の狭間でもがき続けろ。罪業の鎖に囚われて悶え苦しめ――そうやって生き続けるがいい、いずれ俺に殺されるまでな!」

 その言葉を終わりまで聞かずに、彼は地面を蹴った。

「グリゴラシュゥゥゥッ!」

 手にした曲刀が絶叫をあげる。だがグリゴラシュが後方に跳躍したために、繰り出した一撃は虚空を薙いだだけで終わった。

「もう終わりだ――やはりここで戦うのはやめておこう。おまえがどれだけ長い間追ってこられるのか、少しだけ興味が湧いた」 そう告げて、グリゴラシュがさらにバックステップして跳躍し、屋敷の塀の上に飛び乗る。

「貴様……!」

 小さく毒づいて追撃を仕掛けようとするより早く、グリゴラシュがかぶりを振ってみせる。

「忘れてやしないか? 屋敷の中に何人、ボグダンの様な化け物が残っていると思う? そいつらを放っておいていいのか――それでなくてもブカレシュティの街にも被害者はいる。奴らは放っておけば、次々と近隣を襲って死者を増やすぞ?」

 その言葉に、彼は踏み出しかけた足を止めた――それを好機と見たか、手にした剣を鞘に収めたグリゴラシュが声をかけてくる。

「追ってこい、ヴィルトール。いずれ今度会ったとき、そのときまでせいぜい心を擦り減らしておけ。今度は見せてもらおう、おまえが絶望に悶える顔をな」

 その言葉とともに、グリゴラシュが姿を消す――それを見送って、彼は振り返った。見知った幾人もの人たちが、屋敷の中庭に出てきていた。

 死んだ魚の様な虚ろな眼窩が、こちらを見ている。夢遊病者を思わせるその足取りは、ゆっくりと、しかし着実に彼に向って歩を進めていた。

「さあ、殺せ。ヴィルトール――おまえなら躊躇無く殺れるだろう? なぜなら、おまえはそう教育されたからだ――それが最善であるのなら、躊躇うなとな」

 どこからともなくグリゴラシュの声が聞こえる――それは無視して、彼はすさまじい力で剣の柄を握り締めた。

 みしみしと、骨のきしむ音が聞こえる。そして――

Aaaaa――raaaaaaaaaaアァァァァ――ラァァァァァァァァッ!」

 咆哮とともに、ヴィルトール・ドラゴスは地面を蹴った。

 

   *

 

 アルカードが足を止めたのは、数十秒街を駆け抜けたあとのことだった――北九条二丁目という交差点名の標識を分断する様に、虹色の壁が視界を南北に両断している。

 だが、結界自体はそれで終わりではないらしい――わざわざ結界の壁伝いに移動してみたわけだが、結界の内壁はそこを終端とせずにまだ続いている。

 なるほどね……つまり、四角形の結界を内部でさらに細かく区画グリッド分けしているわけか。

 結界には大まかに分けて二種類ある――断絶型と影響型だ。

 断絶型の結界はその名のとおり結界の外側と内側を完全に分断し侵入と脱出を制限する結界で、相手を幽閉したり外部からの侵入を阻止するために使われる――この手の結界は術者の作り出した結界の強度を上回る攻撃や術者本人の殺害、核の破壊等で決壊自体を破壊するか、または術者が出入りを許可した者でなければ通過出来ない。

 影響型は結界内部にいる生物の精神や、あるいは空間そのものになんらかの影響力を与えるものだ――内部にいる人間の意識に干渉して結界内部に入り込むと突然眠ってしまったり、結界内部に存在する空気すべてに毒性を持たせたり、といったもので、その使い方は幅広い。その一方で、抗魔体質持ちにはほとんど影響が出ないのだが。

 どうにもこの結界は、断絶型と影響型を複合したものの様だった――まあ片方だけで使うことは、実はあまり無い。

 おそらく結界内部の人間すべてに、無性にここから出ていきたくなる様に心理誘導をかけたのだろう――しかし内部にいた人間数百人に対して結界通過を個別に処理するというのは、尋常な技量で出来ることではない。

 そもそもこの結界を構築した魔術師がこんな廻りくどい結界を構築したのは、被害を最小限に抑えるのと同時に邪魔者を出ていかせたかったからだろう。

 つまり、この結界の術者は余計な被害の拡大を望んでいない――ならば、闇雲に自分に攻撃を仕掛けてくることは無いだろう。

 彼らにしてみれば自分の戦力は未知数だし、こちらが結界を破れることも知っている。さらに言えば、先ほどの戦闘を覗き見られていたのだから喰屍鬼グールが何十体いようが問題にもならないことも理解出来たはずだ。

 下手に手を出すよりも、はっきりと敵対が明確になるまでは静観する――俺が彼らの立場なら、そう判断する。

 敵か味方かわからない相手に下手に手を出して余計な被害を増やすよりは、放置してあわよくば月之瀬の配下を始末してくれることを期待する――俺だったら、そう考えるだろう。

 そう判断して、アルカードは口元に笑みを浮かべた。

 さて――とりあえずはやることが無いから、そこらへんを回って噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールを殺して回ろう。喰屍鬼と違って噛まれ者ダンパイアは上位個体の吸血鬼と精神がつながっているから、直属の下位個体の噛まれ者ダンパイアが死ねば上位個体である月之瀬は異常に気づくはずだ。

 そんなことをひとりごちて、アルカードは結界の隔壁に歩み寄った。

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