Vampire and Exorcist 8

 

   †

 

 耳元で風を切る音が聞こえる――暗闇の帳に包まれた森の中を駆け抜けながら、フィオレンティーナは唇を噛んだ。

 自分の脚で移動するのならば、特に道路にこだわる必要は無い――こうして堕性の魔力の方向に一直線に突っ切ったほうがよほど早い。暗闇もさして問題にはならない――夜目には自信があるし、月明かりもある。

 林の中は特に暑くもなく寒くもなく、走りやすかった――汗も出ない。

 文字通り林立する様々な樹木の間を縫う様にして進んでいくと、堕性の気配がすさまじい勢いで強くなっていくのがわかった。

 ここからはさらに慎重を期して進まなければならない――それでなくとも注意深く抑え込んでいた聖性を、ことさらに注意深く抑え込む。聖性を感知されて接近を気取られては、日本へ到着してからのこの数日間の待機と、日本の警察やカトリック教会の捜索が水の泡だ。

 やがて十分も走りづめたころ、突然視界が開けた――森が切れて、かなりの広さの開豁地になっている。

 コンクリートで固められた地面の向こうに、さほど大きくない倉庫の様な建物が建っているのが見えた――ところどころ剥落したトタンの波板で作られた簡素な建物で、コンクリートの基礎にいくつも亀裂が走っている。

 こちらからでは入り口は見えない。林縁を辿っていった右側にコンクリートで敷設された簡素な道路が見える。あれがおそらく、本来ヤナギダ司祭が辿ろうとしていたルートだろう。

 強烈な堕性はいまだちりちりと、首筋に焼ける様な感覚をもたらしている――右手に構築した撃剣聖典を、左手には聖書を手に、フィオレンティーナは気配を殺したまま倉庫の建物に歩み寄った。

 使われなくなり打ち棄てられてから相当な年月が経過しているのだろう、土台はしっかりしている様に見えたが、剥き出しになったH型断面の鋼材の柱は風に晒されて赤錆に覆われている。

 構築した長剣を手に、フィオレンティーナは右手に廻り込んだ――思ったとおりそこにはこの建物の入り口と、自動車が三台放置されている。

 車種もメーカーも知らないが、リアバンパー側を工場に向けて駐車していて、いろいろ派手にデコレーションされていた。

 みんなワンボックスカーで、車体がどういうわけか傾いている。よくよく見てみると、三台ともそれぞれフロントタイヤの一方の空気が抜かれていた。

 観察してみるとエアバルブから空気を抜かれたのではなく、タイヤの側面になにかが突き刺さったためにそうなったのだということがわかった――突き刺さった、否刺された?

 なんのために――吸血鬼が車を使うなら、十中八九効率的に獲物を集めて塒まで運ぶためだ。これでは移動に支障が――

 いいえ――支障が出る様にタイヤの空気を抜いた?

 自然に空気が抜けたりバルブにいたずらをされたならともかく、タイヤを破裂させられたならスペアタイヤに交換しなければならない。それくらいはフィオレンティーナにもわかる。

 使……?

 胸中でだけつぶやいて、フィオレンティーナは視線を転じた。

 開きっぱなしになった工場のシャッターの横に、風雨に晒されてぼろぼろに色褪せ、何度にもわたって水が染み込んでは乾燥したために、海老の様にそっくり返った看板が落ちている。伸び放題の雑草に半ば埋もれたそれは日本語で書かれた縦書きの看板だったが、文字が全部漢字なせいでなんと書いてあるのかフィオレンティーナにはまったく理解出来なかった。

 車をパンクさせたのが誰かは知らないが、いずれにせよ近づいた途端に爆発炎上ということは無さそうだったので、フィオレンティーナはそれでもいつでも逃げられる様に注意しながら入り口に接近した――工場の中から人の気配は感じ取れない。代わりに猛烈な腐臭が漂ってきて、フィオレンティーナは顔を顰めた。

 この腐臭には覚えがある。胸の悪くなる様な死体の臭いだ。

 鼻の曲がりそうな臭いはとりあえず意識から締め出して、フィオレンティーナは工場の内部に視線を向けた――雲の隙間から弱々しい月明かりが漏れてきている。工場の天窓はかなり曇っているらしく、ただでさえ弱い月明かりは工場の内部を見通すための役にはまったく立たなかった。

 倉庫の様相は文字通り朽ちるに任せた、という表現がふさわしいだろう。

 横倒しになった緑色に塗装された金属製の棚――アンカーボルトでコンクリートの床に直接固定されていたものなのだろう、そこかしこで床から螺子が顔を出している。おそらく脚が腐ったのに違い無い、棚の脚は塗装が剥がれ、錆がびっしりと浮いてぼろぼろに朽ち、数箇所は脚の部分が千切れる、というか錆びてもがれて無くなっている。

 棚のひとつはフォークリフトの上に倒れ込んで、頭上からの落下物を防ぐための屋根を直撃している。なにが積まれていたのかはわからないが相当な衝撃がかかったのか、頑丈な構造の屋根がひしゃげて潰れているのがわかった。

 フォーク部分や棚が衝突した衝撃で変形し塗装が剥がれ落ちた箇所から錆が浮き、まるで剥がれる直前の瘡蓋の様になっている。

 そのフォークリフトのそばで、三菱の小型トラックが朽ち果てているのが見えた――車体は錆び朽ちてボロボロ、タイヤは空気が抜けて潰れ、ホイールが直接コンクリートの床に設置し車重を支えている様だった。

 ところどころに加工用の工作機械も並んでいたが、いずれもボロボロに朽ち果てて使用には耐えない様に見えた。

 フィオレンティーナは右手で保持した撃剣聖典――刃渡り一メートルほどの飾り気の無い長剣の柄を握り直して、工場内部に足を踏み入れた。

 すでに周囲に満ちた強烈な堕性を帯びた魔力は肌を刺す様な悪寒を感じさせていたが、不思議なことに嫌な感じはしなかった。

 人間に対して悪意を持っている噛まれ者ダンパイアや、あるいは喰屍鬼グールの視線や気配は、まるで性犯罪者が獲物を値踏みするときの視線の様な粘着質の嫌な感じをもたらすものだが、この堕性にはそれが無い。

 人間という種に対する悪意の塊の様な吸血鬼の堕性から、悪意が感じられない? なにを馬鹿な。

 自分の発想を胸中で嘲笑し、フィオレンティーナは月明かりがほとんど届かなくなって視程の利かない作業場を見回した――月の光に目が慣れて夜間視力が若干落ちているためにすぐに気がつかなかったが、床のあちこちに人体の部品が散乱している。

 おそらく噛まれ者ダンパイアとしての適性も喰屍鬼グールとしての適性も無く、喰屍鬼グールどもの餌にされた犠牲者たちの成れの果てだろう。

 噛まれ者ダンパイアが人間の生き血を餌にすする様に、喰屍鬼グールどもは人間の屍を喰らう。

 そうしなければ、どんどん変質し劣化していく肉体を維持出来ないからだ――これが曲がりなりにも吸血鬼の一種である噛まれ者ダンパイアならば、吸血によってより効率よく肉体を維持出来るのだが、喰屍鬼どもは人間の体ごと摂食によって取り込まねばならない。喰屍鬼グールの名の由来である。

 ところどころに人体の部品が投げ棄てられているのは、喰屍鬼グールどもの好き嫌いによるものだろう。

 ろくに知能も残っていないくせに食欲だけは旺盛な喰屍鬼グールどもの中には、驚くべきことに食料に対する選り好みをする個体がいるのだ。

 内臓を少しずつパンの様にちぎって食べるのが好きとか、腕や脚といった筋肉の多い部分が好きとか、飴玉代わりに眼球を口の中で転がして喜ぶ様な個体もいる。ぽきりとふたつ折りにした腕や足の骨から、チューペット――ケンがこの間持って来てくれたが葡萄味は糖分が多すぎて内容液がちゃんと凍っておらず、いまいちだった――よろしく骨髄を吸い出して満足する様なものもいれば、ガムの代わりに耳たぶをこりこり噛むのが好きな喰屍鬼グールもいるらしい。

 壁に視線を向けて――床に叩きつけた熟れて柔らかくなったトマトの様に、べっとりとこびりついた血の跡を目にして顔を顰める。その下の床の上には肉の塊――おそらくは子宮だろうが落ちていて、その中から腐りかけた小さな掌が覗いているのに気づいて、フィオレンティーナは一瞬口元に手を遣った。

 視線を転じると、スーツを身につけた男性の亡骸が床の上で転がっているのが視界に入ってきた。

 四十代くらいだろうか。皮膚が残っている場所は、死斑で紫色になっている。

 遺体はそんなに古くはない。

 顔は鼻や頬や耳が喰いちぎられて、生前の面影はどこにも無い。それでもその表情は名状しがたい恐怖にゆがみ、右目の周りだけ無事に残っている皮膚に涙の跡があった。

 スーツのジャケットの前は乱暴に引き開けられ――ボタンがちぎれて近くに落ちている――、ワイシャツも引き裂かれて肌着が剥がされ、その下の胸の筋肉が食いちぎられている。

 左腕の肉が派手に喰いちぎられ、腹が割かれて引きずり出された内臓がお腹の上でとぐろを巻いている。彼が喰屍鬼グールどもの餌にされたのは噛まれ者ダンパイアに血を吸い尽くされて殺されたあとだからだろう、ほとんど血が飛び散っていない。

 ところどころに塵の山がある――噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールが霊体を破壊されて殺害された際に、その痕跡として残るものだ。

 塵の中に服が埋もれているのは、肉体は塵に変わるが体の一部ではない服はそうならないからだ。

 塵はかなり細かい――霊体に対して入力された魔力が大きければ大きいほど、塵は細かくなる。室内だからまだ残っているのだろうが、屋外であればたいていすぐに消滅してしまうほどの細かさだ――この塵の山も、おそらくもうじき消滅するだろう。

 そこらじゅうに性別や趣味を問わずに塵まみれの服が散乱しているのは、ここで何者か――動く屍リビングデッドどもの肉体を支配している魔力を断ち切り、その霊体と肉体を完全に破壊する手段を持った何者かが、ここにいた噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールどもを虐殺していったことを示している。

 くだんの噛まれ者ダンパイア――小泉純一の仕業ではないだろう。 小泉純一には、自分の作った下位個体――噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールを始末する理由が無い。

 つまりここにはほんの数分前まで小泉純一とは別にこの工場の周囲に充満するすさまじい堕性を帯びた魔力の持ち主がいて、その魔力の主がこの場にいた噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールを皆殺しにして立ち去ったのだ。

 そしておそらくは、小泉純一本人も。

 奥のほうには死体が山積みになっている――ほとんどの死体は原形をとどめないほどに腐り落ち、その中でいくつか真新しく見える綺麗な屍が残っていた。

 その手前には合計七人の女性の屍。歩み寄りかけたところで足元から金属音が聞こえて、フィオレンティーナは足を止めた。

 くすんだ金色の筒状の物体が、床の上にいくつか落ちている――拾ってみると、真鍮で出来た拳銃用弾薬の空薬莢だというのがわかった。

「ここにいた吸血鬼を――銃で殺した?」 小さな唇から疑問の言葉を紡ぎ出し、奥へと歩を進める。

 すでにここは安全だと判断していたので、フィオレンティーナは探索を躊躇しなかった。周りからまったく音がしないし、堕性を帯びた魔力は急速に薄まりつつある。

 香水をつけた人が立ち去ったあと、その場に残り香が残る様なものだ。ここに残っているのは、先ほどまでここにいた何者かの魔力の残滓だ。

 奥のほうへと歩を進め、床の上に倒れた七人の女性の屍のそばに歩み寄って、フィオレンティーナは顔を顰めた。横倒しに床の上に投げ出されたベージュ色のスーツを着た女性の遺体の頭部が、完全に破壊されている。まるで内側から膨張したかの様に頭部が膨れ上がり、皮膚が細かく裂けて、下側の頭蓋骨が破裂して床の上に脳髄は飛び散っている。こめかみには小さな穴が開き、その周囲の皮膚がめくれ上がっていた。

 まだ血糊が乾いておらず、傷口から覗く肉は乾燥していない――つまり血が凝固し肉が乾燥するほどの時間が経っていないことを示している。数十分、もしかすると数分前に殺されたのかもしれない。

 遺体を辱める?

 もう少し早く到着していれば――胸中でつぶやいて唇を噛み締め、彼女は視線を転じた。

 奥のほうに死体が山積みになっている――下のほうの亡骸は原型を留めないほどに腐り朽ちているが、上のほうの死体は比較的新しい。だが上のほうのものも含めてほとんどの遺体は紫斑が浮かび、ところどころ傷み始めている。

 つまり――ここはあの強烈な魔力の持ち主の塒ではない。

 あれほどの強烈な魔力の持ち主が、もしも吸血鬼だとして――あれだけの力を持つ吸血鬼に血を吸われたら、吸血被害者はおそらく数分で噛まれ者ダンパイアとして蘇生するだろう――そして被害者が喰屍鬼グールになることもまずあり得ない。高位の吸血鬼が血を吸えば、犠牲者は本人の適性に関係無く噛まれ者ダンパイアとして蘇生する。

 あの死体の山は、おそらく先ほどまでは腐っていなかったはずだ――吸血の被害を受けた人間の死体の中で、噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールとなって蘇生する可能性のある遺体は、上位個体が生きている間はどんなに条件の悪い環境に放置されても傷まない。

 被害者の遺体が蘇生する前に加害者が死んだときは、被害者の死体が吸血鬼に変わるか、それとも喰屍鬼グールに変わるかによって結果が違ってくる。

 吸血鬼になる死体は、加害者が死んでもそのまま蘇生する。なので、死体が蘇生する前に蘇生を防止するためのなんらかの処置を施さなければならない。

 それに対して喰屍鬼グールになる遺体の場合は加害者である吸血鬼が死ぬと、まるで死んでからの時間経過を早回しにしたかの様に一気に傷みが進行するのだ。数週間たった遺体は加害者が死んだ途端、ものの十数秒で腐乱死体になる。

 死体の山の下のほうの腐乱死体は、すでにところどころ骨が露出するほど傷んでいる――にもかかわらず蠅や蛆がわいていないのは、腐敗が始まってからほとんど時間が経っていないからだ。

 つまり、あそこに積み上げられた死体の下のほうで腐ったり傷み始めている遺体は、すべて喰屍鬼グール予備軍だったのだろう。だが、腐りかけの死体の山の中にいくつか綺麗な遺体がある。

 それらは、放っておけば噛まれ者ダンパイアとして蘇生するはずだ。

 残る遺体に視線を向けると、床の上に倒れた遺体のうち三人は足元の女性と同様、頭部が損壊させられていた――残る三人はなにもされていない。

 それに気づいて、フィオレンティーナは腰をかがめて足元の女性の遺体に手を伸ばした。血糊が指先を濡らすのを気にも留めないまま、首筋を探って――そこにふたつの小さな孔が穿たれているのを確認する。

 フィオレンティーナはいったん立ち上がり、頭部が損壊していない遺体のそばに近づくと、同様に彼女の首元を指先で探った。首筋はべっとりと血で汚れているが、牙の痕は見当たらない。

「いいえ――」 それで得心が行って、フィオレンティーナはそんなつぶやきを漏らした。

 今探った女性の遺体の首元には吸血鬼の牙によって穿たれた傷跡が無い――それはつまり、彼女も喰屍鬼グール適性を持つ遺体であったことを示唆している。上位個体であった吸血鬼が死んだために身体内に入り込んだ魔素が抜けて、ただの死体に戻ったのだ。

「蘇生を――止めようとした?」

 視線を転じて再び死体の山のほうを見遣り、あらためて確認する――すでに痛み始めた死体の山の中にいくつか残った、傷みの進行が見られない綺麗なままの屍。それらの遺体すべての頭部に、足元の四人の女性の遺体同様銃弾が撃ち込まれていた。 

 人間が吸血鬼に噛まれて死ぬと、その死体が噛まれ者ダンパイア喰屍鬼グールとしての適性を持っていた場合、その死体は蘇生するまでの間どんな過酷な環境に置かれても傷まない――その一方で蘇生前に上位個体が死ぬと、喰屍鬼グールになる遺体は死亡してからの時間経過相応に腐敗が進行し、噛み痕が消える。

 では喰屍鬼グールではなく噛まれ者ダンパイアになる遺体がどうなるのかというと、蘇生前に上位個体が死んでも噛み痕は消えず、ただの死体に戻って時間経過相応の傷みが進行することも無い。そしてある程度の期間を置いて、主持たずヴァンパイヤントという上位個体を持たない吸血鬼として蘇生する。

 足元で倒れている頭部を破壊された四人の女性の遺体が噛まれ者ダンパイア適性を持っていたかどうかは、わからない――噛まれ者ダンパイア適性を持つ遺体は上位個体が死んでも噛み痕が消えない。

 そして噛まれ者ダンパイア適性も喰屍鬼グール適性も持たない遺体、要するにただの死体だが、こちらも上位個体が死んでも噛み痕が消えない――噛まれ者ダンパイアの場合は肉体に作用する魔力が消えていないからだが、こちらはそもそも肉体になんの作用も働いていないからで、したがって噛まれ者ダンパイア適性の遺体と違って放っておいても腐らないということは無い。

 つまり、腐るまで放っておけば判別は出来る――そうなる前に噛まれ者ダンパイアは蘇生するだろうから意味は無いが。

 逆に言えば、噛まれ者ダンパイア適性の蘇生前の遺体とただの死体とを、蘇生前に短時間の観察で判別する方法は無いのだ。確実に蘇生を阻止する方法はひとつだけ――蘇生前の噛まれ者ダンパイアかただの死体かにかかわりなく脳、心臓、肺、脊椎のいずれか、もしくは全部を破壊する。

 つまり、これをやった者はそれを知っていて、足元の四人の女性が噛まれ者ダンパイアとして復活するか否かの判別がつかないから、蘇生の可能性を確実に潰すために四人の女性の頭部を破壊したのだ。

 これをやったのが何者なのかは、まだわからないが――

「専門家の手管です、ね――」 そうつぶやいてからもう少し状況を検分しようと踵を返したところで、彼女は爪先でなにかを蹴飛ばして足元を見下ろした。

 喰屍鬼グールに喰い散らかされたのだろう、小さな小さな掌が、床の上に無造作に転がっている。

 それを目にして思わず手にした長剣を取り落とし、彼女は胸の谷間に収まった銀十字架を強く握りしめた。

「ひどい――」 唇を噛み締めてかがみこみ、手しか残っていないその屍に触れ、冥福を祈る言葉をささやく。

「ごめん、ごめんね。ごめんなさい――」

 どこか泣き出しそうな小さな声でそうささやいて、フィオレンティーナは拾い上げた小さな掌をそっと抱きしめた。

「ごめんなさい。本当にごめんなさい。きっと、きっと貴女たちの敵は討つから――」

 そうささやいてから、フィオレンティーナは小さな手を床の上に置いた。長剣を拾い上げてその場で立ち上がり、まるで復讐を誓う様な決然とした眼差しで周囲を見回す――それからフィオレンティーナは祈りの言葉をつぶやき、神の名を唱えて十字を切った――もはや王国での幸福を祈る以外に、犠牲者たちのために出来ることは無い。

 そして衣裳の裾を翻して踵を返し、彼女はその場を立ち去った。

 ここには薄らいでなお強烈な魔の気配だけがいまだ残っている――本人が立ち去ったあとも、気配だけが残っているのだ。

 『敵』はもはやここにはいない――フィオレンティーナは携帯電話を取り出すと、ヤナギダ司祭の番号を呼び出して発信ボタンを押した。

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