幸せな、平穏な、二度と帰らぬ日々
アンシュベルの身体を巻き込みながらねじれ伸びてゆく。
一瞬。いばらの根元が氷の折れる音を立てた。空中で止まる。
漆黒の火花が連続してはじけた。
火花の中に、黒衣の人影が佇んでいる。かざした手に握られているのは、抜き身の黒いサーベル。
現実に即してみればたった一瞬の空隙。
だが千載一遇にして唯一の好機だ。
アンドレーエは、空中で巨大な弧を描くいばらに
アンシュベルはとげの途中で引っかかっていた。
くわえられた子猫みたいにぶらぶらと左右に揺れている。いつ振り落とされるかわからない。
後を追いかけて、一気に頂点まで駆けあがる。
手を伸ばし、強引にかっさらい。
何やらびりびりと破れる音がするのも構わず、
ひらりと地面に着地する。鋼の滑り込む音を立てて、剣の蛇腹が元通りの長さに収納された。
「大丈夫かアンシュ!」
華麗に救出したのち、互いに熱く揺れ動く愛のまなざしで見つめ合っ──
たつもりが。
なぜか、びりびりに破れたスカートから覗くいちご模様の毛糸のぱんつに話しかけていた。
「見たか?」
「何を」
背後で、にべもない声が反応する。
「ならいい」
毛糸のぱんつを無言で上下ひっくり返して元通りに立たせる。裏返ったスカートが下に降りた。アンシュベルは白目をむいたまま。
誰も、何も、見なかった。よって問題なし。
わずかににじんだ冷や汗もそのままに、何げないふりをして背後の人影に礼を言う。
「助かったぜ、ホーラダイン」
切先に吸いつけた霧が、流体の風の渦を巻く。
ザフエルはなめらかに光るサーベルを鞘へ納めた。かち、と小さく鋼が鳴る。
一刀両断。鉄のいばらの根本が、音もなく横にずれてゆく。
「先走るなと言ったのはそちらでしょう。勝手な真似はつつしんでいただきたい」
言い終えると同時に、薙ぎ払われたいばらは地面へとなだれ落ちた。
重力のない虚無の霧となって四散。衝撃波が風を起こした。黒衣が丸くふくらんではためく。
ザフエルは、イェレミアスをさげすみの目線でながめた。
「何者です。この頭髪がおさびしい男と」
目を宮殿の方向へと転ずる。
「ちょっと。何やってるの。誰なの、城壁を壊したのは! 元に戻しなさいよ!」
「何なんだよ。またへんなのがひとり増えてるし」
アルトゥーリとレディ・ブランウェンが、言い争いながら走り寄ってくるのが見えた。
「……あのやかましい連中は」
「聞かない方がいい」
アンドレーエは言葉をにごした。頭を抱えたくなる。どいつもこいつも人の気持ちなどこれっぽちも考えない連中ばかりだ。このままでは三すくみのドツボにハマるのが目に見えている。
「武装メイドさんは無事だったんだな。よかったし」
「なあに? また仲間? ティセニアにこんな美人のルーン使いがいたなんて情報は聞いてないわよ。何者なの?」
まさか敵国の参謀が女装して堂々と単騎突入してくるなど、思いも寄らなかったのだろう。
まったく状況も空気も読まず、矢継ぎ早に詰め寄るゾディアック人たちのザル頭っぷりもどうかと思うが、よりいっそうたちが悪いのは、むしろザフエルの側だ。
何でまだ女装なんだよ。ばっちりメイクをキメてんじゃねえよ。美人すぎて男の声でしゃべってるのにまだバレてねえじゃねえかよ。自分でも美人だって思ってんだろ実は。腰に手を当てるな腰に。胸を張るな。ポーズを取るな。
口に出せない脱力と抗議の叫びを、全力で脳内連呼する。
だが、レディ・ブランウェンが見てもわからないなら、正体がバレなくても致し方ない。
「あー……逃げ回ってた貧相なカツラが敵第四
「もう結構」
蝋のように青白かったザフエルのまなじりに朱がさした。サーベルの柄から離れない手が、全てを語っている。
「ならば、構いませんな」
何が構わないのか、聞かずとも自ずからだいたいの予想はついた。冷や汗がたらりと流れる。お腹がごろごろしはじめた。痛い。
アルトゥーリとレディ・ブランウェンが左右からザフエルを挟み込んだ。問い詰める。
「だからこいつが誰かって聞いてんだけど?」
「あの鉄のいばらを倒したのはあなた? ティセニア人ね? 誰なの。名を名乗りなさい。あなたの名は?」
いつまでもごまかすわけにはいかない。
左右からやいのやいのと責め立てられて、アンドレーエは仕方なく白状する。
「ノーラスの参謀、ホーラダインだ」
雷鳴がとどろいた。
無為な時間が過ぎ去る。ザフエルは不本意な鼻を鳴らした。
「私の名に何か問題でも」
「理解の範疇を超えてるせいで脳の再起動に時間がかかってんだよ。少しは労わってやれ」
「では今のうちに」
「頼むから剣から手を離してくれ」
鉄のいばら一本を切り落としたところで、危険な状況に変わりはない。青い幽鬼めいた女の姿が、ゆらゆらと陽炎のようによじれる鉄のいばらのカーテンに隠れた。
無数の鎖、拘束の鉄球を引きずる音が鳴りわたる。
「逃がすわけには参りません。後を追います」
「待ってくれ。本当に。あの」
アンドレーエは言葉を飲み込んだ。
聞けなかった。声にならない。口にしてしまえば、おぼろげな影でしかなかった悪夢が現実の刃に破られ、姿を現してしまいそうだった。
アンシュベルには悪いが、他人の空似だ、あれは別人だったと白々しくなぐさめてやれたら、どんなにか気が楽だったろう。
本当の絶望を知る前に。
偽りの優しい嘘で。
ザフエルはわずかに眼をほそめた。鉄のいばらを視線だけで追う。
敵国中枢の大宮殿を取り巻く──幸せな、平穏な、二度と帰らぬ日々、ろくでもなく、何をするでもない日々、愚にもつかぬたわむれに笑って過ごした日々を、壊して、奪った、苦しめてきた犠牲と贖罪のいばらを。
ひたと見すえる。
「必ず、取り戻します」
いばらの枝一本を落としただけでは、本体には傷一つ与えられない。あるいはわざと警告して、距離を取らせただけかもしれなかった。
鉄のいばらがどこからともなく寄り集まってきた。やにわに激しく波打って、空高く振り上げられる。
尖った枝先が、四つん這いで逃げるイェレミアスを追った。
連続して石畳に突き立つ。刺突の痕が連続した穴をうがった。
「あんた、何をしたんだ」
アルトゥーリが奥歯をぎりりと鳴らした。
「さっきから見てりゃあイェレミアス、あんたしか狙ってないじゃないか」
「うるさい! 私は何も間違ったことはしておらん! 国賊を討ち果たそうとしただけのことだ!!」
イェレミアスは口ぎたなくわめき散らす。
レディ・ブランウェンは、汚物を見る目をイェレミアスにくれた。
「まだそんな恨みがましいこと……まさか、またあの子に何か……」
「それがどうした! 何が聖女だ。あれは悪魔だ。魔女だ。サリスヴァールが連れてきた魔性の女だ。魔女なら処刑されて当然だろう! しおらしげに陛下にまで取り憑きおって!」
ザフエルは、イェレミアスといばらの間に割って入った。
つと左腕の《
「放っとけ! そんな奴ァもう、かばうこたねえッ!」
アンドレーエは血に飢えた
吐く息が火のように熱い。
「
ザフエルは手で制する。
静かに眼を開け、薔薇の檻をまとう虚無の姿を遠くに振りあおぐ。
身を守るルーンの結界を張ろうともしないで。
ただ、渇望の眼で追いすがる。
眼前に鉄のいばらが迫った。疾風が吹き付ける。黒髪が狂おしくなびいて巻き上がった。
「我が身など、どうなろうが構わない」
胸元に下げていた金の飾緒が、痛ましく光った。地金の色が見えるほど深い横傷の入った万年筆が揺れ動く。
「我らが交わる運命のすべてを、永遠の忠誠に代えて、ただ御身にこそ祈り捧げたてまつる」
イェレミアスの前に立ちふさがるザフエルめがけて。
無数の死が降りそそぐ。
ぎらつく殺意が、無数のとげが。心臓に突き立つ。
「《
万年筆をつけた飾緒が、涙にも似た音を立ててちぎれ飛んだ。
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