この世界の誰よりも、貴方を

「俺にとって、貴様はずっと、ゾディアックの、そして我が母アリアンロッドの忌まわしき仇敵だった」

 言葉が突き刺さった。息ができない。張り裂けた胸の中で、何かが、音を立てて崩れた。

 ただ、地面だけを見つめる。足元の土がふいに実体をなくして波打ったような心地がした。流砂に足を取られ、取り返しもつかぬほど落ちてゆく感覚。

 チェシーの暗く翳った声が、追い討ちをかける。

「最初から、友でもなく、ましてや仲間でもない。見果てぬ思いも忘れ得ぬ記憶も、すべてはまやかしの夢。君が可哀想な妹を演じて、お人好しな男を欺いていたのと同じように、俺もまた、間抜けな敵将のぬるい信頼につけ込み、欺いていた。ただ、それだけのことだ」


 ニコルはただ、チェシーの言葉を聞くともなしに聞いていた。

 返す言葉もなく。

 やがて、ぽつり、ぽつりと。なすすべもなく涙がこぼれ落ちてゆく。


 もう、うつろいゆく昔日の面影すらなかった。

 冷淡な声だけが吐き捨てられる。

「彼女を《聖女ソロール》としてベルゼアスへ連行する。聖女でありながら異端として存在を秘されたのには、よほどの理由、そして秘密があるはずだ。レディ・ブランウェン。護送用の馬車を用意しろ」

 レディ・ブランウェンは、物陰から横顔だけをのぞかせた。腫れ物に触るような顔で、近づいてこようともしない。

「今の話、どこまで本当なの」

「疑いたければ疑ってくれて構わない」

「……別にそんなことは言ってないでしょ」

 レディ・ブランウェンは嫌々といった顔で近づいてきた。立ちつくすニコルを眉をひそめて見やり、そっと肩を押す。

「さ、行きましょ」

 ニコルは抗わなかった。二、三歩歩いて、立ち止まった。足元を見つめる。

「本当に、馬鹿だ、僕は。こんなにはっきり言われないと、分からなかったなんて。下手すりゃまた馬鹿みたいに信じようとしてた」

「眼が覚めたか」

 チェシーは腕を組み、傲岸な笑みを放って寄越す。

 ニコルはちいさく鼻をすすって、笑った。

「永遠に覚めなきゃよかった」


 この世界の誰よりも、貴方を憎んでしまうぐらいなら、いっそ。


「ほら、もう、無理しないの」

 レディ・ブランウェンは青ざめた顔でニコルを促した。肩に柔らかい毛皮のマントをかけ、抱き寄せながら歩き出す。

 黒と金の飾りがついた四頭立ての儀装馬車コーチが寄せてきた。熊の襟付き帽をかぶった御者と、後部に護衛が二人ついている。

 レディ・ブランウェンは、ドアを開けてニコルを先に乗せてから、昇降板に足をかけた。乗り込む途中で振り返る。

「サリスヴァール」

「何だ」

「貴方のような男のことを何て言うかご存じ?」

「知ったことか」

「……最低」

 チェシーは、底知れぬ眼差しでレディ・ブランウェンを見返した。

「さっさと連れて行け」

 口元を黒い毛皮のマフラーで覆った女御者が、短い鞭を鳴らした。



 帝都、ベルゼアス。

 ティセニア国境より遙か北僻に位置し、漆黒の巨奇岩を頂く十二の丘、十二の城に護られ、大地に美しくも暗くつめたい闇と血の魔法陣を描き築かれたゾディアック随一の都である。

 もう夏も過ぎようというのに、肌に触れる空気は高山のそれに似て薄ら寒く、希薄で、随分と心許無かった。

 さすがに凍えるほどではないが、突然天候が代わって激しい雷雨に見舞われたり、朝方にはぞくりと冷え込むことも少なくない。おそらく秋になればすぐ雪と氷の闇に覆い尽くされてしまうのだろう。きっとノーラスよりも早く。

 ニコルを乗せた護送の馬車が、石畳の軍道をゆっくりと進んでゆく。

 あれから何日、いや、何十日かかったのだろう。

 見渡す限り地平まで続く平原、畑、そして深い闇の森を越え、湖畔を仮の宿とする日々が過ぎて、今ようやく極北の地に至り、異邦の都を目前にしている。

 かすみがかった都の建造物が、幾重にも連なる尖塔をそびやかせていた。

 夜になってもほとんど明るみは変わらず、しっとりと乳白色にくすむ空が深夜まで続く。

 今が昼なのか、夜なのか、ニコルにはまったく分からなかった。


 休憩のため、馬車列が止まる。

 ドアが開いた。チェシーが立っている。

「降りろ。休憩だ」

 ニコルは無言で立ち上がった。ずっと座っていたせいで筋肉が萎えている。ひそかに立ちくらみがした。前がよく見えない。

 構わず、適当に昇降板を降りる。

 膝がわなないた。

 体重を支えきれない。足を滑らせる。

 落ちたと思った。だが、痛みはない。眼を開ける。チェシーの腕に抱き止められていた。

 いっそ、顔から落ちてひどい怪我でもすればよかったのに、と自暴自棄に思う。

 そうすれば。

 自分の顔も、チェシーの顔も同時に潰せる。

「足元に気を付けろ」

 ニコルは答えなかった。礼すら言う気になれない。運悪く助けられたことにも、心が、動かない。

 どうでもよかった。

「寒くないか、レイディ」

 地面に下ろしながら、チェシーがつぶやく。足元は雪だった。もう、そんな季節なのか。

 痛くないよう、手枷がひそかにゆるめられる。わざと無視して答えない。

 爪先が凍えた。このまま、霜柱となってこの場で凍りついてしまいたい。

「すぐに火を入れさせる」

 チェシーはそれだけ言うと歩き出した。宿という名の牢獄に入り、食事をし、休み、時に尋問を受ける。それだけだ。ニコルは眼をそらした。

 与えられた部屋から見える景色をうつろに見やる。

 なぜ、今さら、そんなことを言うのか、分からない。

 答えるはずなどないと分かっているくせに。

 寒くないか、食事は取っているのか、何か入り用な物はないか、そういったとりとめもないことだけをぽつりと問うては、重苦しい無言の時間をわざと作り出す。反応を強制するでもなく、揶揄するでもなく。自らを罰するかのような、無言を、わざと。

 そのくせ、夜になれば残酷な狂おしい指先で、偽りのつめたい吐息で、今はもういない女の名を呼ぶ。

 何をされても、もう、抗わぬと。心閉じたと。気付いたからか。ならば身体からこじ開けようという、征服者の論理で。


 すべてはまやかしの夢だと。

 信じるなと。

 そう言ったくせに。

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