ピーチ太郎

 伝令が駆け戻ってきた。

「アーテュラス司令官へ、エッシェンバッハ元帥より伝令! 魔物の大群が川を下って中洲方面へ接近。迎撃を頼むとのこと」

「くそ、マジで休む間もねえのかよ。おい待てアーテュラス」

 アンドレーエが後を追ってきた。ニコルの腕を掴む。ニコルはあっさり捕まって、引き戻された。

「うわ、軽っ!? じゃなくて、早く持ち場につけ」

「待って。だめだよ。これで全員じゃないでしょ。いないじゃないですか。チェシーさんも、ヴァンスリヒトさんも。二人とも、ちょっと遅れてるだけなんでしょ、すぐに後から来るんでしょ。ねえ、そうでしょ……!」

 ニコルは手を振りほどいた。

 身をよじり、涙声で口走る。

 蒼白の稲妻がひらめいた。

 閃光が、ユーゴとアンドレーエの形相を照らし出した。総毛立つほどに暗く、濃く。

 まざまざと、激情があらわになる。

 轟音が地面を揺るがした。

「ヴァンスリヒトは」

 続く声は雷鳴にかき消され、聞こえない。

 アンドレーエは、青ざめた表情を闇に塗り込めた。ニコルを突き放す。

 ニコルはよろめいた。赤と青、それぞれのルーンのゆらめきが、一瞬、暗くかげる。

「橋が!」

 遠くから、誰かの切羽詰まった叫びが聞こえた。

「師団長」

 ユーゴがこわばった表情でうながす。アンドレーエはうなずいた。目を見交わし、二人揃って姿を消す。

 ニコルは呆然と振り返った。

「橋を守れ」

「上流だ。回り込ませるな」

「橋が流されるぞ」

 兵が集結している河岸から、蜘蛛の子を散らすように悲鳴が走った。渡河を待っていた隊列が、折れ曲がって崩れる。

「アーテュラス、戻って! 橋が魔物に壊されるわ!」

 シャーリアの声が途切れる。ニコルは走り出した。

 逃げまどう兵の波を掻き分けて、橋の袂に駆け戻る。誰かが、シャーリアを連れて橋を渡ってゆくのが見えた。

 無事に中洲まで渡り終えたのを確認。

 改めて、闇に目をこらす。

 橋脚に跳ねる濁流のしぶきが、異様な黒い影となって持ち上がった、ように見えた。錆びた鉄板をしならせたような奇声が響き渡る。

「魔物だ」

「橋が壊れる」

「もうだめだ。間に合わん」

 暗くて、はっきりと見えない。それでも叫び交わす声で、事態を把握する。

 おそらく、敵は、闇雲に物量で埋め尽くしてもエッシェンバッハの防壁には敵わないと判断したのだろう。

 よって、方針を変えたのだ。面による制圧ではなく、急襲による一点突破を。

「アーテュラス、ボケッと突っ立ってんじゃねえッ!」

 アンドレーエが、激流の跳ね返る岩場に足をかけ、仁王立ちしていた。

「全員が渡り終えるまで、《封殺ナウシズ》で、橋に取りつく魔物を片っ端から撃ち落とせ!」

 橋脚に、魔物が乗った流木が衝突した。漂流物が次々に堆積してゆく。

 魔物が、橋上に這い上ってきた。不定形のぶよぶよしたものが、どろりと持ち上がる。顔も何もないのに、やけに人間に似た口だけが、ぶつぶつしゃべっている。

 歯が剥き出された。

 食いつかれた兵が河へと転落する。一瞬の水音。恐怖の形相が濁流に飲み込まれた。手だけが水面を叩いた。流されてゆく。

 アンドレーエは、副官がどこにいるのかも確認せずに怒鳴った。

「ユーゴ! ここはいい。先に公女を連れて脱出しろ。ノーラスで待て」

「了解」

 冷静な声だけが応じた。すばやく遠ざかる。アンドレーエは腰のリールごと、鋼剣鞭ウルミを引き抜いた。

 おそろしく長くしなる剣鞭を、まるで楽器のように、甲高く空で打ち鳴らす。流麗な残像が空に描かれた。

 はしばみ色の眼が、獰猛に光る。

 一瞬、鋼剣鞭ウルミがすべて、リールに吸い込まれた。

 手首を返し、鞭先をしなわせて投げ込む。リールが、剣鞭を吐き出す蛇のような回転音を鳴らした。

 鞭先は、仲間の合間を縫って飛んだ。

 銀の刃が魔物だけを狙って踊る。螺旋に殺ぎ飛ばす。真一文字になぎ払う。

 みじん切りになった魔物の肉片やら汚物やらが、川面にまき散らされた。

 ニコルは、橋の中央で息をついた。立ち止まる。

「人ならざるものよ、異界へ帰れ!」

 《封殺のナウシズ》が、氷点下の光を放った。

 橋脚をへし折らんばかりに、べたべたと覆い尽くしていた魔物の群れが一瞬、《封殺ナウシズ》の放つ光に照らされた。

 魔物で埋め尽くされていた空間に、白い雪が降る。

 光の雪片に触れた魔物は、無重力の霧となって蒸発した。溶け消えてゆく。

「お、さすがに凄え威力。よし、今のうちだ。気をつけて渡れ」

 アンドレーエが目をまるくした。

 《静寂のイーサ》の効果を受けた兵たちは、急流に足を取られながらも、足早に次々と渡った。

「人間相手には、まったくの無力ですけどね」

「それもまた、いかにも貴公らしいじゃないか」

 ニコルは、咳き込んだ。ルーンの霊光が、力なく点滅する。光が揺らいだ。

 足元がおぼつかない。自分が、なぜ、未だこんなところに立っているのか、分からなかった。

 何のために。誰のために。戦っているのか。

 あんなに強く願っていたのに、今ではそれが何だったのか思い出せない。

 頭の中が、白くかすみがかって、のろのろとぼやけた。

 めまいがした。まっすぐ前を向いて立っていられない。

 橋板がぐらぐら揺れた。命綱につかまっていないと、今にも腐った板を踏み抜いてしまいそうだ。

 アンドレーエは、余裕に見せていた笑いを、緊迫の面持ちへとすげ変えた。

「エッシェンバッハのおっさんは? 先に、中洲へ渡ったのか」

「アンドレーエさんと合流する前、敵が上流側にいると報告があったので、そちらへ向かいました」

「あっさり出し抜かれやがって。上流から魔物がどんぶらこっこ、どんぶらこって。そんなの鬼退治に行く前にこっちが喰われるわ」

 ニコルが何も言わずにいると、アンドレーエは、わりと傷ついた顔をした。

「今の、笑うところなんだが」

「はい?」

「真顔で聞き返すな。くそ、ピーチ太郎の話はユーゴにしか通じんのか。しょうがねえ、おっさんを呼んでくる。俺が戻ってくるまで、一人で持ちこたえられるか」

「ピーチ太郎はよく分かりませんけど、お任せください」

 ニコルは、泥に汚れた顔で微笑んだ。

「よし、分かった」

 雨の最中、飛び出してゆこうとして。アンドレーエは、たたらを踏んで立ち止まった。

「無茶すんなよ」

 ニコルは、平然と切り返す。

「どうやら、誰がティセニア最強なのか、アンドレーエさんにも身をもって教えてあげる必要がありそうですね」

「抜かせ! よし。その調子なら大丈夫だ。すぐに戻って来る」

 《静寂のイーサ》が、不屈の表情を照らし出した。水面の浮き草のようにゆらゆらと揺れている。

 アンドレーエは指笛を吹いて、配下に指示を与えた。自身は、岩から岩へと身軽に飛び移って、闇へと消える。

「最後の切り札もまだ残ってますし」

 ニコルは、見えない背中に向かってつぶやいた。

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