あの河の向こうに
ノーラスを出立し、豪雨の中を北へ進むこと一日。
国境であるリーラ河の沿岸に立ち並ぶ堡塁に到着したのは、日が落ちる直前だった。
森は荒れ模様。
ときおり、北の空に暗い雷光が走る。
雹交じりの突風が吹き付けていた。雨戸が、がたがたと揺れ動く。ひたすら、風の吹きすさぶ音が横殴りに渡る。
風と。雨と。雷鳴がとどろく。
ニコルは、雨に打たれるのもいとわず、堡塁の胸壁から身を乗り出していた。
はるか北の方角を見はるかす。
激しい雷が、天蓋を青黒く染めるほかは、ひたすらの漆黒。何も見えない。
怒涛の音が聞こえていた。濁流の荒れ狂う音だ。
馬の鼻息、踏み散らす泥の音、金属の軋む音、輜重車のぶつかり合う音。それらすべてをも、残酷に押し流してしまいかねない音。
ニコルは、メガネの雨滴をぬぐった。
拭いても、拭いても、雨のせいで、すぐに前が見えなくなる。
その心許なさが、ひどく怖かった。さして寒くもないのに、身体の震えが止まらない。
あの河の向こうに、チェシーがいる。
まずは、渡河地点を、確保しなければならない。
報告によると、川は、ますます水かさを増しているとのことだった。普段なら悪天候は歓迎だが、今は違った。退却してくる兵や、資材を渡すための橋だけは、どうあっても架けなければならない。
敵の動きは、全く計り知れなかった。
《先制のエフワズ》は、絶えず反応し続けてはいるものの、まだ、明確な敵意を捕捉してはいない。
むしろ、不穏なのは、《封殺のナウシズ》が見せる反応のほうだった。
「アーテュラス」
低い声が、背後から発せられる。ニコルは振り向いた。エッシェンバッハだ。
エッシェンバッハは濡れないよう、塔屋の屋根の下で歩みを止めた。
「何を見ている」
腰に手を当て、尋ねる。
「えっと、対岸です。何か見えないかと思って。狼煙とか、火とか、何か」
エッシェンバッハは、眉間に険しい皺を寄せた。
「何のためにわざわざ哨戒させていると思っている」
「は、はい……でも、やっぱり不安で」
「貴公は、部下を信用しないたちらしいな」
エッシェンバッハの色眼鏡が不穏に光る。ニコルは、はっとして胸壁から離れた。軒下に駆け込む。
びしょ濡れの外套を脱ぎ、水をふるう。
「すみません、そういうわけでは」
「俺は猊下とは違う。正直、貴公を見ていると苛々させられることが多い」
厳しい声だった。
「貴公に従うのも、猊下のご命令だからだ」
ニコルは唇を噛んだ。
「肝に銘じます」
「話がある。一緒に来い」
エッシェンバッハは、鎖を鳴らして踵を返した。下へ降りる階段の扉に手を掛ける。
「各地との連絡も何かと滞りがちだ。不安に思うこともあるだろうが、部下を信じろ」
重苦しい音を立てて、扉を押し開ける。先を行くエッシェンバッハの足下は、油膜めいた光沢を帯びる銀灰色を反射していた。《庇護のアルギス》が、呼応しているのか。
「はい」
かろうじて、取りつくろった応えを返す。
エッシェンバッハは、無言で、塔の螺旋階段を降りていった。靴音が反響する。
鎧戸を下ろした砦の窓から、細い光が洩れていた。ごつごつした胸壁の石壁に、小さな光だまりができている。
ニコルは、こぶしを握り込んだ。手にした外套を持ち替えては、何度も、しずくを振り落とす。
振り返ると、しずくの黒い跡が、ぽたぽたと床に並んでいた。
ここまで来てしまった以上、逡巡は、もはや許されない。
それは分かっている。なのに、ためらいを押し止められない。
ノーラスを後にして、本当によかったのか。
たとえ仲間を見捨ててでも、ノーラス防衛線だけは絶対に死守すべきではなかったか。
答を出し切れず、何度も、心の奥で自問自答を繰り返す。
自分の判断は、本当に正しかったのか。
今回の作戦は、軍人の本分から逸脱した行動と見なされるのではないか。
感情にまかせて、先走った行動をしたのではないか。
誤った戦況判断を下してしまったのではないか。
こみ上げる不安を抑えきれず、すがる眼で《先制のエフワズ》を見つめる。
警戒色が、目に焼き付いた。
こんなとき、傍らにザフエルがいて、一言でも助勢してくれれば。
勝利を疑うことすらなかっただろう。心もとなさのあまり、つい、そんな自虐に向かう。
ふと、エッシェンバッハが口を開いた。
「敵の位置は分かったか」
ニコルは気迷いを振り払った。
「いえ、残念ながらまだ」
「そうか」
「予兆はずっとあります。でも正確な位置や部隊数、敵の状況みたいなのは、実際に攻撃を受ける直前にならないと見えないんです」
「直前に分かれば十分だ」
「でも、問題は《
開け放たれた戸口の前に、銃剣付きのマスケットを手にした銃士が、直立不動で警護していた。
元帥が揃って戻ってくるのを見た衛兵は、銃筒を捧げる最敬礼をした。左襟に、二組の盾を意匠した第三師団の徽章をつけている。
エッシェンバッハは、灰色の目を冷徹にほそめた。
「《
ニコルは、表情を引きしめた。感覚に合う言葉を探しながら、眉をひそめる。
「ええと、何て言えばいいのかよく分からないんですけど。まだ、そこまで顕著じゃないのに、ずっと、何かが来るって感じがしてて。すごく、遠いのに……居る」
他の者の声は、聞こえなかった。
消灯時間になれば、歩哨以外の誰もが、眠りに就く。明かりが点いているのは、参謀たちの詰める作戦室以外にはない。
ニコルは、次第に声をすぼませた。
《
《
「確かに、貴公のルーンは、世に二つと無い稀なるものだ。だが、皆が信じているのは、力そのものではない。貴公自身だ」
エッシェンバッハは、ドアを開けた。そのまま入ってゆこうとして、ふと立ち止まる。
「預かりものがあったのを忘れていた」
物憂げにポケットをまさぐる。
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