聖なる純潔

「ずいぶんと面白可笑しいことをおっしゃいますね」

 ニコルは肩をかばいながら、声を殺して笑った。

 今の今まで、こんなにもはっきりと知りたくもない現実を突きつけてくれた勇気ある仲間が、果たしてこの国にいただろうか。

「監視の目があるからこそ、逆に自由でいられると思いませんか」

 アンドレーエはまるで地上の鷹だ。いつでも自在に空へ飛び立てる。野放図なその在り方を、ニコルはほんの少しだけ羨ましく思った。

「食えないこと言うなよ。らしくねえぞ、アーテュラス」

 アンドレーエはニコルの肩を叩こうとして、おっとっと、と遠慮した。

「貴公がそう言うなら、陰湿で面倒な話は自重しよう。俺には塵一つない真珠の神殿よりも、寒風吹きすさぶ荒野の戦場が性に合ってる。いくらルーンの加護があるといっても、他の連中と違ってお貴族様でも神殿騎士でも何でもない……おっと」

 アンドレーエは唐突に口をつぐんだ。奇妙な笑みを浮かべ、そのまま何も言わない。

 視線の行き先につられて、ニコルは得心した。アンドレーエと同じ元帥大礼服姿のエッシェンバッハが、白銀の衣に薔薇色のストールをかけた神殿騎士を多数引き連れて近づいてくる。

「どいつもこいつも、ぞっとしねえなあ。ハンコみたいな格好しやがって」

 整列した神殿騎士に四方をきっちりと包囲されては、蟻の這い出る隙間もない。銀の壁に向かって、アンドレーエは堂々と毒づいた。

「壁は少しでも多い方が良かろうと思ってな。貴公らはどこにいても目立つ」

 いつもと同じ朱色の色眼鏡をかけたエッシェンバッハは、ニコルとアンドレーエとをどんぐりのように見比べながら言った。


 神殿騎士の隊列に囲まれたまま、人目に付かぬ末席へと移動する。相変わらずザフエルの姿はまだ見えない。

 空気をふるわせ、鳴り響く鐘の音。

 その狭間を、透明な歌声が風のように吹き抜けてゆく。心に染み通るような、やわらかな合唱。パイプオルガンの和音が静かに重ねられてゆく。

 薔薇窓の光が、主祭壇で眠る赤子にさらさらと降りしきっていた。

 おごそかな典礼が執り行われるのを、遠目から見守る。

 どこまでも続く白と金の豪奢な列柱。遙か昔に建造されたとはとても思えないほど、精緻で躍動的な彫刻を施した無数の天井アーチ。

 目も眩むほどの高さに思える格天井を見上げれば、すべて柄の違う天使の天井絵が、一枚一枚、嵌め込まれている。壁面には、こまやかに彫り込まれた天使と花輪の装飾。

 光あふれる丸天井は、《ヴァロネの青》をふんだんに使った星界図の金モザイク。白い放射状の線が、天空から流れ落ちるかのように張り渡されるさまは、流星が降りしきってでもいるかのようだった。

 赤と白に染め抜かれた薔薇十字の旗が、何百枚と掲げられて、風にたなびいている。

 聖歌が、荘厳に響き渡る。

 主祭壇の床には、深い青の大理石、純白の大理石、巨大な水晶の板が張られていた。それぞれの継ぎ目一つ見えぬほど、なめらかに敷き詰められている。

 水晶の床が、地下で焚かれる炎を透過して、薔薇の形に赤くゆらめいていた。

 清浄なる結界の中央に立ち、眠る赤子を見下ろす主祭の姿を認めて。

 ニコルは、眼をみはった。

 ザフエルだ。

 金と赤の肩帯たなびく豪奢な純白の法衣をまとい、手に薔薇十字のアンクを掲げ持っている。

「何でザフエルさんが司式を?」

 エッシェンバッハは、静かにしろとでも言いたげな顔で振り返った。

「首座司教が突然の御不例にて、猊下が代理で司式される」

「ザフエルさんの御父上が?」

 エッシェンバッハは、首肯しゅこうしなかった。

 滞りなく儀式は続く。聖なる呪誦が捧げられ、浄められた水とともに花が振りまかれる。

 金と赤のゆりかごに眠る赤子は、もはや土俗の子ではなく、祝福の光の下に生まれ変わった聖女ソロールだ。

 《天国の門ガルテ・パラディス》の、絢爛たる光の詠唱の只中にあっても傷一つ負わぬことでその聖なる純潔を証明されたのち、聖ワルデ・カラアの使いから《祖霊オダル聖女ソロール》たる聖勅せいちょく御印みしるしを与えられ、典礼は終わる。

 いつ終わるとも知れぬ歓喜の歌が、聖女をたたえている。

 ニコルは、もしや人混みの中に、あの赤子の家族がいやしないかと思った。うすうす結果を予感しながらも、母親の姿を探してみる。

 だが、それらしき人影を見つけることはついぞできなかった。



 その、横顔を。

 ユーディットが見つめているとも知らずに。

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