7 そして賽は投げられる

7ー1 そして賽は投げられる

 ニコルは眼をうつろに泳がせ、ドアにもたれかかった。

 ためらいもなく去りゆく靴音に続いて、部屋に戻ったのだろう、今度こそ完全に扉を閉ざす音が聞こえた。

 戸締まりと同時に鍵をかける硬い振動が、壁づたいにまざまざと伝わってくる。ニコルはただ呆然としてそれを受け止めるしかなかった。


 行くなと言えたなら。

 どんなにか良かっただろう。

 今すぐ後を追い、隣のドアを叩くことができたなら。


 いかにも苦々しい、まとわりつく蜘蛛の巣を払い除けるような顔をして現れるであろう男に。

 まるで女みたいに泣いて、すがって、憐れみを請い、感情の赴くままに裏切りを責めたてることができたなら。

 その程度の三文芝居で離反を思いとどまってくれるのなら。


 必死にこらえていたはずのふるえが、膝下から這い登ってくる。

 そんな愚かしい真似など、軍人の身でできようはずもなかった。


(友としての最後の忠告だ)


 チェシーの言い残した言葉が、割れ鐘となって耳の中で鳴り響く。

 泣いている場合ではなかった。泣いて済ませられる状況でもない。

 心が警鐘を鳴らす。事ここに及んで、まだチェシーを信じるのか。それとも血も涙もふりすてた冷徹なる公国軍人として、国家とアーテュラス家に叛く不軌の輩を断罪するか。

 判断し、行動しなければならない。


 床に、怖いほど白い薔薇の花弁が散乱していた。萎れかけのがくに花びらが一枚だけ、心残って散りなずんでいる。


 ニコルは息をつき、眼を閉じた。

 メガネをはずし、片手でこめかみを掴んで、強く圧迫する。

 呼吸するたびに鈍痛が走った。

 認めたくない。

 だが認めなければならなかった。

 ためらえばためらうほど、逡巡の罠から抜け出せなくなる。決断できないのは自分の愚かさ故だ。


 もし、自分がチェシーの立場だったら、亡命目的として何を最優先に考えるか。答えは明白だ。

 ティセニアの実効支配下にあったアルトゥシーへ堂々と侵入し、《悪魔の紋章》を奪還すること。


 絶大な破壊能力を持ちながら一定条件下では完全に制御可能であることを披瀝すれば、ティセニア軍部がどういった反応を示すかは大概予想がつく。

 ティセニア上層部が、力ある玩具の威力を一度は試してみたいと考えてもおかしくはない。

 チェシーの亡命は、《悪魔の紋章》と引き換えに赦されたのだ。


 だが、強すぎる力は猜疑を生む。また叛くのではないかと佞される。疎まれる。

 ニコルの預かり知らぬどこかで、無言の圧力を受けていたのかもしれなかった。元より難攻不落のノーラスでぬくぬくとした平穏を享受させる必要などない。亡命者など信用できない。違うと言うなら、その忠誠を命に代えても証し立てしてみせよ、と。


 シャーリアは、強くなりすぎたノーラス第五師団の力を削ぎ、《悪魔の紋章》の力を手に入れる。少々酷に扱ってもしょせんは異教徒の亡命者だ、勝てば良し、死ねばそれまで。

 チェシーは、国家への忠誠をより強く示すため、という大義名分により《封殺のナウシズ》の制御下から逃れられる。利害が一致する。


 春になれば戦況が一変するだろう。

 いったん斟酌された以上、あからさまに通謀する必要はない。シャーリアの第一師団を後ろ楯にし、好戦的主張をもってティセニア国力の疲弊傾向を恒常化させればよいのだ。力をかさにきてひたすらに戦線を拡大させてゆけば事足りる。異心を抱く者には悪魔の力を知らしめればよい。

 たっぷりと時間をかけて。

 裡に底意を秘めたひそやかな煽動者として栄光を語り、勝利を語り、異端の名を以て醜名を流し、頽廃と恐怖をもって背後からシャーリアを操れば、やがて国家の柱となるべき人の心が一本朽ち、二本朽ちて最後、土台から一気に――


 かすかに自嘲の笑いを浮かべる。

 チェシーを率先して受け入れようとした自分こそ、まさに思う壺だったというわけだ。


 ニコルは覚悟の吐息をついた。身をかがめ、膝をついて、チェシーが棄てていった手紙を拾い上げる。

 淡くかげりおちる影が、手元を暗くした。

 手紙を掴んだまま、暖炉へと歩み寄る。

 絶えることのない火が、盛大に燃え続けていた。朝まで保つようにと、アンシュベルが大量にくべていった薪のおかげだ。

 火にあたる頬が、ちりちりと炙られて痛い。きっと涙もすぐに乾くことだろう。


 ニコルは握りつぶされた手紙を見下ろした。

 こんな素っ気のない、何の感傷もない嘘っぱちの手紙と違って、チェシーのくれた手紙は本当に優しかった。

 あまりに優しすぎて逆に怖くさえあったけれど、今となっては同じ見果てぬ夢を追っていたのだと知れて嬉しかった。


 いつの日か、互いに、本当の自分に戻って――


 手紙を暖炉へと投げ込む。

 赤い火の粉が散った。燃え上がる。

 炎に舐められ、黒ずみ、やがて白い灰と化してゆく嘘の残骸を眺めながら、ニコルは明日中に済ませてしまわねばならない作業のことを、頭の中で思い描いていた。



 翌朝。まだ日が昇る前。

 ニコルはアンシュベルの部屋を訪れた。

「えーまだ朝じゃないですぅ……」

「いいから聞いて」

 不満そうに寝ぼけ眼をこするアンシュベルを前に、ニコルはあれこれと注意を言い含めた。

「ちょっと散歩に行ってくる。でも行き先は誰にも言わなくていい」


 聞いているのかいないのか。ふわふわしたピンクに可憐な白レースをいっぱいくっつけたベビードール姿のアンシュベルは、こっくりこっくり、舟をこいでいる。

「はぁいです……おさんぽえすね……ほまかせくだほにゃへにゃら……」

 アンシュベルの手首には、何重にも赤いリボンが巻かれていた。つながれているのは、羽の生えた黒いウサギのぬいぐるみ。

 紋章の悪魔、ル・フェである。


「じゃ、頼んだよ」

 理解しているかどうか知るすべはなかったが、だからといってそれを気に掛ける余裕はない。

(僕を放置して行くのかい? 知らないよ、どうなっても)


 枕元に立てかけられていたフリントロックライフルをあやうげにもてあそびながら、ぬいぐるみの悪魔がせせら笑う。

 ニコルはドアの前で足を止めた。冷ややかに振り返る。

「ご期待に添えなくて残念でした。悪いけど、悪魔トリックスターとしての君の才能は十分に評価してるつもりだから」

(よく分かってるじゃないか、守護騎士殿)

 ル・フェは、黒いガラス玉の眼をきらめかせて嗤う。


 ねぼすけのアンシュベルをぬいぐるみに任せて、ニコルは部屋を抜け出した。

 用心深く、左右に視線を走らせる。

 行く手の階段はほのかに明るい。中途にある薔薇窓から、夜の明けやらぬ雪催ゆきもよいの微光が、白砂のこぼるるがごとくさらさらと射し込むのが見えた。

 息が、白く、たなびく。

 ニコルは足音を忍ばせ、階段を降りていった。

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