逢いたい
が、すぐにニコルは首を横に振った。
「そういうことじゃなくてだ、何でそこでいきなり殿下の名前が出てくるかな」
自分に言い聞かせるように、意味もなく独り言を呟きながら机へと向かう。
そんなことより、チェシーの要望どおり、第五師団元帥付の護衛である旨をしるす命令書を書いておかなければならない。
椅子を引き、腰を下ろして、いつもと同じ無意識の動作で引き出しを開けてみる。
新しい紙が入っていた。
剣弁高芯、見慣れた薔薇の淡い透かしが入った便箋だ。普段からニコルがアーテュラス家の私信として使う略式の紙である。
ふと気がつけば、ペンもインク壺もなぜか、ノーラスの自室と同じく、いつも通りの位置に配されてあった。
ザフエルの計らいだろうか。あれこれ探し回ることなく手になじんだ感覚だけで通常どおりの作業が行えるようになっている。
ニコルはポケットの手紙を取り出した。
目の前に置き、ぼんやりと眺め、くちびるを噛む。
最後の一行に、知らず知らず、気持ちが重苦しくわだかまる。
どうして、こんなものを。
書かれた文字を見るのも心苦しく、それでいて眼を離せなかった。
何度も読み返し、焦って裏返し、また、読み返す。
返事を書くべきか、書かざるべきか。書かなければならないのはそんなものではないはずなのに。
書いたとしてもどうやって、どんな顔をして渡せばよいのか。
当の本人がさっきまで目の前にいたというのに。
結局、どう対処すればいいのかさっぱり分からなかった。
ともあれチェシーが側にいない今のうちに、何とかしなければならないことだけは間違いなかった。この際何でもいい、書きさえすれば気持ちを整理できるはずだ。そう思ってペンを手にする。
まずは過日の失礼にお詫びを。
手がひどく震えた。インクが紙面に飛び散る。
「あっ」
ニコルはあわててペンを置いた。書き損じを丸めて横のくずかごへと放り込む。
「な、なにやってるんだか僕は……あっ」
新しく紙を替えて宛名を書こうとしたとたん、また、字がぐにゃりとゆがんだ。
「ど、どうしよう」
おろおろとし、また紙をくしゃくしゃにする。
「お、お、落ち着いて、ええと、うーん、チェシーさんへと……うわ間違えたチェシーさんじゃなくてええと、サリスボァー……うわっまた!」
一言書いてはうめき声を上げ、また新しい紙を出しては失敗して丸め、を何度も繰り返しながら、そのたびに頭を抱える。
「ええと、サリスヴァールさま、と。この後何て書けばいいんだ……逢いたいけどもう逢えない、じゃなくて……いつかまた逢えたら、じゃなくて……ええと……えっと……」
逢いたい。
ふいに、思いも寄らぬ涙がにじんだ。
ぽたり、と紙の上に落ちる。
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