8 ノーラスへ

払暁の青空



 その日の夜遅く。

 ニコルは自分専用に立ててもらった天幕に戻り、まずはランプに火を入れた。

 全身がぐったりとして熱を帯びている。

 じじじ、と音を立てるランプの芯を見つめながら、ボタンをはずし襟元の青いクラヴァットをゆるめ、クッションもない古びた木椅子にどさりと身を預ける。

 我知らずため息がもれた。

 お風呂に行きたい。

 唐突にそんなことを思う。

 暖かいお湯でたっぷりの石けんを盛大に泡立てて、顔を洗いたい。

 思い始めると止めどなかった。

 固くてカビの生えた備蓄ビスケットじゃなくて焼きたてふかふかの白パンやヒルデ軍曹の豪快な昼食が食べたい。夏の間にバケツいっぱいのイチゴを取ってきてジャムや砂糖漬けにし貯蔵庫へ放り込んであるのをこっそり夜中に忍び込んでつまみ食いしてみたい。ミルクたっぷりのカフェオレや紅茶や、アンシュベルがこっそり作ってくれる、とろけるように甘ったるい、あつあつのフルーツパンチが飲みたい。あれさえふうふうできれば、どんなに固いベッドでもこの上もなく幸せな気分で眠れるのに……


 違う。そうじゃない。


 自分の馬鹿さ加減にまた嘆息して、首を振る。

 それがどんなに贅沢なことか。

 何も知らず、幸せに、豊かに、普通に過ごすことがどれほど難しいか。当たり前だとばかり思っていた普通の暮らしすら嫉まれることがあると知って、どれほど驚愕したことか。

 ニコルはぼんやりと身を起こし、手袋をはめたままの指を噛みながら天幕の中をうろうろとした。

 ふと思い出して、幕際に置いた小さな机の前へ椅子を引っ張ってゆき、座り込む。

 机の書類盆にはあちこちから上がってきた上申書が何枚も積み重ねられていた。それに目を落とし、椅子の背もたれに身をあずけて、天井の布を眺める。

 ニコルは報告書を握りしめて立ち上がった。ランプの火を吹き消す。

 疲れた目をこすって天幕を出る。

 ザフエルの天幕はさほど遠からぬ場所に見えていた。やはりというか当然の事ながら人の出入りは激しく、灯りを透かす幕に映し出された人影の数は五や十を下らない。

 切り捨てるか、引きずられるか。私情にかまけて機を逸することはもはや許されなかった。そして――


 憂悶の夜が明ける。


 払暁の青空に、純白の軍団旗がはためいている。隊の先頭を飾るのは薔薇十字を鮮烈に縫い取った豪奢なつくりの聖旗印だ。


 広場に姿を現したザフエル・フォン・ホーラダインの姿を認め、足首まである艶のない黒の法衣に白のストールを高潔になびかせた神殿騎士の一団は一糸乱れぬ踵音を鳴らして直立不動の姿勢を取った。

 全員が薔薇銀のアンクを肩に留め、やや色合いを抑えめにした銀縁の軍帽を前傾にして被り、サッシュに銀の短銃、薔薇十字を摸したナイフを差している。手にあるのは軍刀ではなく銀の飾杖のみ。


 一斉に石を突き、華やかな鈴輪の音とともに立礼を行う。


 荘厳なカリヨンの調べが鳴り渡ってゆく。

 堅固な石組のアーチと守衛の壁塔、門に備え付けの青銅軽砲に守られたアルトゥシー北門前広場は、滅多に見られぬ麗々しい出陣式を見送るため集まってきた街の住民に埋め尽くされていた。誰が放ったか、白鳩の群れが羽音を散らして空に舞い上がる。

 とはいえ無邪気に歓声があがるわけではない。皆、どこかしら不安な面持ちだった。

 秋風に軍馬のいななきが響き渡る。


 ザフエルは、陽の光を受けて輝く赤と金の鞍敷を置いた青鹿毛を引くヴァンスリヒト大尉と並び立ってシャーリアを迎えた。典礼も何もなく、早々に乗馬を促す。

 シャーリア麾下の第一師団はいったん安全地帯へと南下し、体制を立て直すことが決まっていた。ザフエルは護衛として隷下の神殿騎士団を率いて随伴するつもりのようだ。フランゼスは病気療養のためと称し、ノーラスで一時あずかることとなった。

 そして、ニコルとチェシーは――


 道が分かたれてゆく。


「待って」

 しばしためらっていたシャーリアだったが、ようやく求めていた姿を見いだしたらしく、神殿騎士の末尾のさらに隣脇にいたフランゼスと彼を支えるニコルの二人をくいと呼びつけた。

「ちょっと、アーテュラス」

 眠れぬ夜の面影などこれっぽちも残すことなく、頭に黒うさのぬいぐるみをちょこなんと乗っけたニコルは、これまた鼻の頭に絆創膏を貼ったフランゼスと不思議そうに顔を見合わせた。

「何だろ」

「さあ」

 首を傾げているといきなりシャーリアが険しく噛みついた。

「ぐずぐずしないの!」

「はいっ!」

 ニコルは飛び上がった。転げ落ちかけたぬいぐるみをあわてて引っ掴み、すっ飛んでいってフランゼスと二人一列縦隊を組む。


 シャーリアは腰に手を添え、いらいらと足先を踏み鳴らして待っていた。

「何度言えば分かるのかしら、お前たちは」

「は、はいっ、すみません。その、な、な、何でしょうか」

 ニコルは思わずびくびくとフランゼスの後ろに隠れながらシャーリアを見上げた。泡を食ったフランゼスもまたニコルの背中へ逃げ込もうとじたばたし、二人はしばらくの間ぐるぐるとお互いの尻尾を追い合う犬のように舞々しあう。


「おまえたち、わたくしの話を聞く気があって?」

 シャーリアは軽侮の眼でじろりとニコルの頭に貼り付いたぬいぐるみを見下ろした。

 つんと吐き捨てるように言い放つ。

「で、どこなの」


 何が何だか分からない。ぽかんとしていると、たちまちシャーリアは柳眉を吊り上げた険阻な表情で繰り返した。

「どこにいるか聞いているのよ」


 だめだ。やはり意味不明である。ニコルは頭を抱え突っ伏した。考えても考えても何のことやらさっぱり分からない……。

「ニコル、お、お、起きてよ」

 募る焦りにいっそうもごもごとつっかえながらフランゼスはニコルを引き起こした。耳元へ手を添え、ひそひそと助け船をささやき入れる。

「も、もしか、したらさ」

「お黙りフランゼス」

 シャーリアがぴしゃりと叱りつける。フランゼスはびくんとして口をつぐんだ。ニコルは狼狽し、冷や汗をかきかき意を決して口答えにかかった。

「いや、あの、ですから殿下、何が、何だか」

「分かりなさいよ、もう」

 ついに業を煮やしたらしい。シャーリアは苛立たしげに手を振り払って声を甲高くした。

「何でもいいから早く答えなさいったら。わたくしを待たせないでちょうだい。わたくしは出立を控えているの。急いでいるのよ」

「すみません、あの、でも……!」

 ニコルは首をちぢこめ、ぺこぺこと平謝りに謝った。だがやはりなぜしかられているのかさっぱり分からない。うううと悲痛なうめきを洩らして右往左往する。


「やれやれ、何の騒ぎだ、これは」


 古びた城門の手前、白いアーチに囲まれた美しい大理石の聖女像の足下に。

 軽騎兵ユサール特有の、華やかな毛皮で裾を縁取った短衣をまとう長身の姿が見えた。肩にかけただけで腕を通さぬ袖がふわりとなびく。


「チェシーさん」

 情けない声でよれよれと助けを求めると、チェシーは三角巾で吊った腕を持ち上げ、平然と振って笑った。

「いいのか、訓示しなくても」

 笑顔とは裏腹に、眼の傷だけはまるで癒えていないようだった。顔半分を覆うかたちに巻かれた包帯は奇妙なほど厳重で、傷の深刻さを逆に露わにしている。


 シャーリアがくちびるを引き結んだ。

「……サリスヴァール」

 押しつづめた声でつぶやく。


 チェシーは聖像の足下に腰掛けたまま、その場から動こうともしなかった。

「このような場から言上する非礼をお許し願いたい」

 肩をすくめ、しれっと言う。

「恥ずかしながら絶対安静を言い渡されている身なのでね」


 そこでニコルははっと我に返った。

 チェシーのせいで、また埒もない喧嘩が始まっては元も子もない。そう思って振り返ろうとして。

「殿下、すみません。准将には療養のために休暇を」


 ふいに。

 ニコルは声を詰まらせた。

 一瞬、孤独に立ちつくす。


 シャーリアはもう、ニコルなど見てもいなかった。

 それどころか、あれほど訳もなくかき立てていた苛立ちすら消え失せている。

 あるのはただ、峻烈な熱。憎しみとも、あるいは別のもっと激しい感情ともつかぬ波濤のごときまなざしだった。


 その激情が、ひたとチェシーにのみ注がれて――


 チェシーはだしぬけにひそやかな笑みを浮かべ、野生のまなざしでシャーリアを見つめた。

 引きずり込まれるかのように、視線に呑まれるかのように。

 シャーリアはふらりと足を踏み出す。

 ニコルは眼を瞠った。

 また、一歩。

 よろけるように進み、そこでシャーリアはようやく周囲の視線に気づき、立ち止まった。


 せわしなく変わる視線の行き先。ぎごちなくこわばる口元。笑みとも、軽蔑ともつかぬ複雑な色合いを宿した表情で。


「サリスヴァール」

 他に何を言えばいいのか分からないといった様子でシャーリアは繰り返した。ひどく声が固い。

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