5 紋章の悪魔、ル・フェ

サリスヴァール、我が、眷属よ。約束のときは来たれり

「え……?」

「邪魔なんだよね」

 フランゼスの手が。

 唖然とするニコルの手から、難なく本を奪い去ってゆく。


「これは返してもらうよ?」

 フランゼスはニコルの目をのぞき込んだ。

 肩に手を回し、ククク、と、ざわめき嗤ってしなだれかかる。

「せっかく紋章の使い手を迎えに来させたっていうのにさ」

 フランゼスはちらりとチェシーを見やった。

 ぞっとするほどあどけない仕草で首を振ってみせる。

「ろくに覚醒もしてないくせに、ナウシズの守護が相変わらず強固で、近づけなくてさ。本当に困ってた」


「フラン」

 動けない。

 声だけが、乾いた風のように頭上を通りすぎてゆく。

「な、何……言ってるん……」

「簡単なことさ」

 フランゼスはゆるりと唇をつり上げた。

「最初から、殺すつもりだった。君を」


 分からない。

 どうしても、

 フランゼスの言っている言葉の意味が、

 分からない。


 あんなに優しい眼をしていたのに。いっぱい、話をしたのに。フレスコ画のことや古い本のことや青の顔料のこと、チェシーのこと、それだけじゃない。イル・ハイラームの学習院初等部の頃に戻ったような、そんな勢いで次から次へいろいろなことをたくさん、たくさん、互いに次の話題が待ちきれぬほど話し合ったはずなのに。


 何で。どうして。そんな――


「ともあれ、これでやっとあるべき姿に戻れるわけだ」

 泰然と横目にチェシーを流し見て。

 フランゼスは漆黒の闇に揺らめく本を手に、くすくすと笑いさざめいた。

「サリスヴァール、我が、眷属よ。約束のときは来たれり、だ」

 刹那。

 耳に聞こえぬ剣戟のどよめきが、雪崩を打って激突した。秘めた怒りを含んだチェシーのするどい碧のまなざしとは対照的に、蔑みと虚無、嘲弄のかぎろいに満ちたフランゼスの薄紫の瞳とが、ぎらりと対峙しあう。

 だがそれも長くは続かなかった。

 チェシーはふと急迫の気配を解き、戦闘態勢を投げ出した。

「やれやれだな。私としたことがよほどそいつのお気楽に当てられていたらしい」

 一分の隙もなく構えていた剣を引き、だらしなく肩に担いで、大仰なためいきをつく。


「懐かし過ぎて嫌になるよ。久しいな、。相変わらず陋劣で何よりだ」

 空いた手でくしゃくしゃと頭を掻き、苦笑いを浮かべる。

「お互い様だ」

 フランゼスもまた微笑した。

「僕も君にまた逢えて嬉しいよ」


 ル・フェ。

 かすかに聞き覚えのある名前。

 ニコルは、ぞくっ、と震えた。背筋に寒気が走り降りる。

 確か、紋章の本のことを、チェシーはル・フェの印、だと言っていた。

 今、思い返してみれば。

 病室のベッドの上で。

 逃げる馬車の中で。

 悪魔にさらわれる最後の瞬間まで。


 フランゼス自身、決して、この本を手放そうとしていなかったことに――

 初めて、気づく。


 フランゼスが投げかける微笑みの影に、ふと、ほのかな闇の虹が射した。

 眼には定かに見えない漆黒の翼が、ゆらりと広げられてゆく。

 暗黒の霧氷で形作られでもしたかののような、なかば透き通り、なかば油膜に覆われて青光りする、冷酷の羽根。

「わ、分かんないよ」

 ニコルは混乱しきって呻いた。

 囚われの身を呆然とふるわせる。

 いったいなぜ、こんなことになってしまったのか、頭で理解することはできても心が現状を拒絶する。

「何で、どうして二人ともそんなこと言うの。冗談は止めてよ」

「すまない、ニコル」

 チェシーは沈痛につぶやいた。

「そいつはもう……君の友だちのフランゼスじゃない」

「どうして」

 ニコルは悲鳴のような声を上げた。かぶりを振る。


「そいつの名は『ル・フェ』」

 微妙にもつれ震える異端の発音がチェシーの口から洩れた。

「人の魂を依り代に跋扈する悪霊だ。かつて私が召喚し――制御しきれず放埒するほかなかった、最低にして最悪の悪魔」


「ご紹介有り難う。過小なる評価痛み入るよ」

 フランゼスは邪悪にひそみ笑った。なおいっそうニコルの肩に寄りかかる。

「それにしても聞きしにまさる単細胞ぶりだね。鈍いにも程がある。本当に気付かなかったの? サリスヴァールが君に近づいた、にさ?」


「ふざけるな」

 言葉に玩弄され、ニコルは必死にもがき出ようとした。

 顔を憤りに染めて喘ぐ。だが手を突っ張ろうとしたとたん、先ほど受けた傷が耐えがたい痛みとなって突き上げた。

 苦痛の声がこぼれる。

 フランゼスはかまわずニコルの耳元に迫った。

 あやしい微笑みを寄せる。

「いいかい? 君を、ためだよ」


 むなしくもがくニコルの耳に、姦佞の言がささやき入れられる。

「失った紋章を再び手に入れ、ティセニアを内部から燃やし尽くすのに、君、という存在がだったから」


「そんなこと、誰が信じるものか!」

「大丈夫? 顔色が悪いよ?」

 頬を指の先で手挟み、ゆらゆらと容赦なくもてあそぶ。

 以前のフランゼスからは思いもつかないほどつめたく残忍な声色だった。

「でもね、それは、君が悪いんだよ。最初に、訊いてやったじゃないか。どうしてこんな奴を信じるの? って」

 ニコルは歯を食いしばった。

「……フラン……!」

 怒りにくぐもった眼で、睨み返す。

「それ以上言うな……!」

「騙されていると分かっていて、どうして信じるのをやめなかったの? だと信じてる方が、自分にとってだから? 裏切られたと知るのがから? それとも本気で気付いてなかったとか? はは、笑っちゃうね。これだから馬鹿をからかうのはやめられ――」

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