「まさか、君、怒ってるのか?」
「馬鹿に、しないで!」
シャーリアは震えるこぶしでぐいと涙をぬぐった。落ちた銃をすくい取って身をひるがえす。真鍮色の髪が背に跳ねて、火のように燃え上がった。そのまま脱兎の如く路地へと逃げ込んでいく。
「殿下!」
とっさにニコルは後を追いかけた。自暴自棄になっているのは火を見るより明らかだった。息を切らし必死に走ってシャーリアの手を掴む。
「そっちは危険です」
「構わないで」
シャーリアは癇を高ぶらせて手を振り払った。しかし体勢を崩し足元の瓦礫に足を取られて悲鳴もろとも転倒する。
染み一つなかった白い軍衣が今は無惨にも土によごれ、ところどころほつれて、哀れなほどだった。転んだときにどこかをひどく打ったらしく、なかなか起きあがれない。
左手で顔を覆っている。肩がふるえていた。泣いているのかもしれなかった。
思いもかけず弱々しい姿に、ニコルはつと胸を突かれて立ち止まった。ためらいながら傍らにひざまずく。
チェシーが音もなく歩み寄ってくる。
ニコルはくちびるを噛みうつむいて、それから覚悟を決めて顔を上げ、チェシーを睨んだ。
「……めちゃくちゃじゃないですか」
チェシーは離れた場所で立ち止まった。眉をひそめる。
「せっかく助けてやったのに。何だその言いぐさは」
苛立たしげに切り返されてニコルは口ごもった。論理的に考えれば確かにその通りなのだろうけれど、先走る感情に理性がついてゆかなかった。
よりによって、シャーリアをこんなに傷つけておいて、何を平然と。礼など言えようはずがない。
それ以上睨むことにも、睨まれることにも耐えきれない。
「とにかく、殿下に謝ってください」
ニコルは鬱屈した眼をそらした。
胸が、ひどく騒ぐ。
――人の気も知らないで。
そう言いたくなるのを、ぐっと噛み殺す。
目の前で、いきなり、キスするなんて。
それも……シャーリア公女と。
チェシーはむっとした顔のまま、親指の先で唇の血をぬぐった。かすれついた血の色を見て、やや唇をゆがめる。
「まさか、君、怒ってるのか?」
心底、不思議そうにチェシーは言った。まったく自省している様子もない。
「誰が!」
いきなりの図星に、ニコルは飛び上がった。反射的に身をすくませる。
子供じみた反論を突き返そうとした――そのとき。
うずくまっていたはずのシャーリアが、唐突に身体を伸び上がらせた。
ニコルの手から銃を奪い取った、かと思うと。
掴んだ銃を武器がわりにして、横なぎに振り払う。
「……っ!」
金の象嵌に彩られた鉛入りの銃床が、眼前に振り下ろされてくる。
反射的にのけぞって逃れる。
顔への致命的な一撃が間一髪で空を切った。
体勢が崩れる。
シャーリアがとどめとばかりに銃を振り上げた。
避けきれない。
とっさに、腕で顔を庇う。
腕ではなくルーンで防御すべきだったのかもしれないが、何もかもが一瞬すぎて、そんなことを考えるいとまもなかった。
明白な殺意が凄まじい勢いで打ち下ろされる。
腕が、砕けそうな音を立てた。激痛というにはあまりにも耐えがたい痛みが突き抜ける。
衝撃で本が吹っ飛ぶ。
シャーリアは、もうニコルに一瞥もくれなかった。
転がった本をかっさらうなり、けもののように飛び退った。距離を取り、ぎらつく形相で振り返る。地にくろぐろと妖しい影がつたい走った。
「殿下……!」
ニコルは悲痛な声を絞り出した。打たれた腕がだらりと垂れ下がって動かない。蒼白の面持ちで前のめりに手をつく。
その脇をふいに金の疾風が駆け抜けた。
白と蒼穹の色が激甚の大地を蹴る。
「チェシーさんっ」
ニコルは甲高く叫んだ。
「だめ……!」
チェシーは耳も貸さない。一足飛びで壁を駆け上がり宙に舞ったかと思うと、あっという間にシャーリアの行く手へ回り込み、土煙をざあっと大量に蹴立てて着地する。
シャーリアはするどくたたらを踏んで身をひるがえした。路地の横手へ飛び込もうとする。
だがその暇すらチェシーは与えなかった。強引に突き飛ばし、よろめいたところに頸椎へ手刀の一撃。逆手で軽く叩き込む。
シャーリアは糸が切れたようにくずおれた。
本が転がり落ちる。
チェシーは汚物でも見るかのような目でシャーリアを、続いて傍らでうつぶせに落ちた本を見下ろした。
おもむろに身をかがめ、本に手を伸ばす。
指先が触れたとたん、ばちりと音を立てて火花が跳ねた。青黒い電流が本の表面をつたい走る。
チェシーは人知れず浮かべた仄暗い笑みもそのままに本を拾い上げた。何気なく頁を繰り、内容を確かめる。
ようやくその場にたどりついたニコルは、意識のないシャーリアと本に見入るチェシーの双方を気後れした眼で見比べた。どう声を掛けたものかためらって、立ち止まる。
シャーリアが見せた、先ほどの行動。
明らかに普段のシャーリアの顔ではなかった。
まるで、何か、悪意を持つものに操られてでもいたかのような――
「チェシーさん」
「君が持っていた時は、何ともなかったのにな」
「その本……まさか」
チェシーはふんと鼻先で笑って本を閉じた。
「間違いない。悪魔の紋章だ」
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