「ごめんね。騙しちゃって」

 フランゼスを連れ去った悪魔を追って。

 ヴァンスリヒトはよろよろと、つんのめりながら走っていた。


 視界をさえぎるのは瓦礫と倒木だけではない。ねっとりと喉に絡みつくどす黒い煙が泥沼のように渦巻いては路地奥へ流れ込み、ふたたびごぼごぼとあふれ出して視界と行く手の双方を阻む。

 ヴァンスリヒトは歯を食いしばった。己が血にまみれたサーベルを引っ提げ、鉛色の空を見上げる。

 どれほど探しても、フランゼスの姿は見つからない。

 噴き上がる火の粉と煙の彼方に茜色の混じった空が見えた。その切れ間から射す夕日に、一瞬、宝珠をちりばめたかのような多色彩の時計塔があかあかと、壮麗に浮かび上がる。

 その美しさが、逆にヴァンスリヒトの胸を突き刺した。もし、日が暮れてしまえば、フランゼスを見つけ出すことはほぼ、絶望的になる。


(大尉)

 気の強いシャーリア公女にいつも厳しく当たられながらも、フランゼス公子は、気弱な笑みを絶やすことがなかった。


(アルトゥシーに、歴史的遺物が残されているというのは本当ですか?)

(ぜひ、後学のために見に行ってみたいのです)

(お願いします……!)


 常に遠慮深く、内省的で。

 同年代の少年が楽しむような奔放な遊びも知らず。不向きと分かっていながら公子としての義務を尽くし、受け入れ、どんなことにも決して口答えをしなかった公子が、文化遺産と聞いたとたん、朝日のように目を輝かせた。

 その瞬間が、今も心に焼き付いている。


 そのときだ。

 ふいに、組み鐘が一斉に鳴り渡り始めた。

 先程まで胸に突き刺さるように聞こえていたあの、絶望を告げる半鐘などではない。

 最初はかぼそく、弱々しく。それこそ今にも煙に取り込まれ、消え入ってしまいそうな音色だったものが。

 だが、すぐに鐘の音は本来のひびきに、勇気と鼓舞と信仰を高らかにうたいあげる色へと変わった。

 天上の真実をあまねく知ろしめし、清楚にして雄々しく、いっそう気高くあらんとする究極の唱和。

 延焼の業火さえ吹き払ってゆく清浄の音色に、ヴァンスリヒトはつい心をゆだね、身体を苛む苦痛を忘れた。


 それは、神への祈り。

 平和への祈り。

 安息への祈りだ。

 この地獄絵図のさなか、カリヨンを弾く勇気のある者がいる。


 攻撃目標とされる危険を冒してまでもあの美しい音色を奏でることに未来と希望を託した誰かがいるのだ。

 身体にあたたかく滲んでゆくかのような、喜びの唱和。

 ヴァンスリヒトは顔を上げた。再び、力を得て走り出す。

 だが、すぐに怪鳥を思わせる悪魔のさえずりが不協和音のごとくつんざいた。

 熱せられ、溶解した銀塊と化した悪魔が時計塔を目指し、次々に突っ込んで行く。


 ヴァンスリヒトは目を覆わんばかりの光景におもわず胸に手を当て、慈しみのルーンの名をさけんだ。

 激突する。

 時計塔の周辺で続けざまに爆発が起こった。組み鐘が止み、塔全体が爆風にぐらぐらと揺れた。巻き込まれたヴァンスリヒトもまた吹き飛ばされ、通りの半ばにもんどり打って倒れる。

 がらがらと瓦礫が崩れ落ちてくる。

 尖塔の先が折れ、最上部の鐘が転がり落ちた。時計塔前面に取り付けられた黒地に金の巨大な天文時計、太陽と月、五惑星の周回軌道を模した針が砕け散る。

 煙が晴れ、ようやく表れた破壊の全貌にヴァンスリヒトは絶句した。


 美しかった時計塔が、見るも無惨な姿となり果てている。


 中階を壁ごとごっそりとえぐり取られ、前面を彩っていた壁彩も同じくはがれおちて。

 しかも、鐘の音の途絶えた塔の天辺にはいまだ無傷の、喨々と吼えたける無数の悪魔が雲霞のごとく真っ黒に群がり来たりて――


 その頂点に。

 まるで糸の切れた操り人形のように、両手両足をだらりと垂れ下がらせたフランゼスを片腕に抱いた悪魔が、ぽかりと滞空していた。

 はばたくでもなく、滑空するでもなく。表情の欠落した、光彩のない眼でぬらりと地表を睥睨している。

 ぶら下げられたフランゼスの身体が、今にも振り落とされそうな角度でぐらりと揺れた。

 ヴァンスリヒトは息を呑み、瞬時の間もおかず跳ね起きた。

 時計塔めざして走り出す。

 猛然と噴き上げる煙を払いのけ、右手にサーベル、左手に騎兵銃を構え、捨て身で突っ走る。

 扉を蹴り開け、暗黒の階段へまろび入って。暗く、せまく、降りしきる瓦礫と土ぼこりの舞う螺旋状階段を一気に駆け登った。

 息をもつかせぬ足音を甲高く響き渡らせ、ようやく中階の踊り場にたどりつく。

 額に貼り付いた髪を上袖で乱雑にぬぐい取っていざ周囲を見渡そうと無意識に振り仰いだ、そのとき。

 ヴァンスリヒトは凍りついた。

 漆黒の影が、射す。

 くつくつと風紋のように笑いさざめく、それでいて身の毛もよだつ薄ら寒さを秘めたあどけない声が、ささやいた。


「――ようこそ、修士ヴァンスリヒト」


 逆光にさえぎられ、相手の姿形すら定かではない漆黒の闇の中。

 青黒くほのかに光り出すそれは、ゆらゆらと放たれゆく禍つ剣にも似てあまりにも罪深く、厭わしく、裏切りと劫罰の恐怖に彩られた滅びの夜のごとき微笑みに染まって――


 ヴァンスリヒトはサーベルを取り落とした。

 するどくも空虚な金属音が果てしない暗闇へと落ちてゆく。

「まさか」


 胸へ手をやり、慄然と見つめる。

 薔薇十字のペンダントを引きちぎらんばかりに握りしめて。


「そんな」

 馬鹿な。

 そう、続けようとして。

 口が、思うように開かない、と気づく。

 ”彼”は、ゆるりと手を差し伸べた。ひくく嗤って、糸を操るかのようにくいと手をひらめかせる。


「ごめんね。騙しちゃって」


 ヴァンスリヒトは、己の左手を見やった。なぜか、ひどく震えている。

 指が、意に反して引き金にかかった。

「……!」

 ゆっくりと持ち上げる。黒ずんだ鬱金の色に光る銃口が、こめかみに押し当てられた。

 手が石になってしまったかのようだった。

 抗えない。

 動かせない。

 声すら、出せなかった。

 汗が噴き出す。指が、ひきつれる。


 息をすすり込んだ刹那――


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