第10話 彼女の理由

「許可したのは私だ! 客人に無礼を働いてはならないぞ!」


 岩陰から飛び出したチャールズが大声を上げると、虚を突かれた森番は呆然としている。(クリスティーナの方は、なんだか恐ろしくて視界に入れられない)


「へぇ……」

 すぐに気を取り直した森番が、小狡さを露にした顔で問いかける。

「さようでございますか。で、若様はこんなところで何を?」


 ぐっ。

 森番の切り返しに一瞬声が詰まる。が、怯んではいられない。


「客人の案内エスコートだ。当然だろう。お前こそ、いつまでそうしているつもりだ? さっさと立ち去れ!」

「へぇへぇ、承りましたとも。ですが、森に関しちゃあ事前に森番たる俺にも話を通しておいて欲しゅうございますねぇ」

「さて? 父上から聞いていなかったか?」

「……そのようですねぇ。 どれ、それじゃあ失礼いたしますよ」


 立ち去ろうとした森番は、だが数歩進んだところでいきなり振り向き、

「そうそう、このことは旦那様へ報告してもよろしゅう、ございますよね?」

と、揺さぶりを掛けてきた。


「……もちろんだ。だが、その時は客人に対するお前の無礼な振舞いも話すことになるぞ。よく考えるんだな」

 心の中では大いに冷や汗をかきつつ、体中の勇気をかき集めて応える。

「へっ! 分かりやしたよ」


 今度こそ、森番は立ち去った。


 チャールズの緊張が解け、張っていた肩の力も抜けた、が。

「……それで、私はあなたに礼を言うべきなのかな?」


 彼女の存在を忘れていた。


 不意打ちとなったその声の方を、反射的に向いてしまったチャールズは慌ててまた視線を逸らす。


 だが、一瞬でもその姿はしっかりと目に焼き付いた。


 白い身体にまとわりつく濡れた長い金髪。両手で身体を隠しながら、それでも強い意志を宿したその瞳で彼を見つめ、凛として立つ彼女。


 チャールズは初めての、激しい感情に揺さぶられた。


 心臓が早鐘を打ち、握りしめた手に汗が溢れる。


「確かに助けられた、とは思うのだけど。でも、そもそもあなたはそこで何をしていたのかな? そこを先に伺いたいね。ねぇ、若様?」


 それが問題なのだ。その問いが怖くてすぐに割って入ることができなかったのだ。


 もちろん、これぞといった言い訳など思いついていないし、言い訳が立ったから飛び出したわけではない。もはや猶予がない、と思ったからだ。


 だからその問いに対して、チャールズが胸から絞り出すように吐き出した答えは、彼の飾らない心情であった。


「……歌を」

「え?」

「君の歌を、聞いていた」

「……」

 チャールズは着替えている彼女に背を向けていたため、彼女が上気して顔を赤らめている、という滅多に見られない姿に気づかずにいた。


「歌が、好きなの? 私は、あまり上手ではないけれど」

 普段と異なり、ややおずおずとした様子でクリスティーナがつぶやく。

「あぁ、確かにそうだね」

 チャールズは、何の悪意もなく素でそれを肯定し、そうであるがゆえに彼女はちょっとムッとする。

「……そこは、嘘でも否定するものではないのかな? 紳士として」

「あ、いや、すまない! あのぅ、ええ……えーと、上手いとか、下手とかじゃなくて、なんていうか」

 少年とってはじめての体験である、その思いを伝えようと必死に言葉を探し、やっとすくい上げて舌に乗せる。

「すごく楽しそうだったので……なんというか、聞いてて自分も楽しくなってくるっていうか……」

「楽しい……」

「あ、うん、そう! えーと、ごめん……」

 幼なじみで許嫁いいなずけのジェーンを相手にするのとは勝手が違う。どうしていいか分からず、とにかく語尾に謝罪の言葉が付け足された。


 そんなチャールズの姿は、クリスティーナの心の敷居を、いっそう引き下げた。

「あの歌は、旅芸人の歌姫に教わったんだ」

 用心棒を兼ねて旅芸人の一行とともに暮らしていたことがあるらしい。

 あの風体の父親と一緒では、そうした少し社会の枠からはみ出したような集団とともに旅をする方が何かと都合がよかったのだろう。


「また、来てもいいかな?」

「……隠れてのぞき見しないのであれば」

 少し、戸惑い気味に顔を背け、小さな声で返事したのは、赤くなった頬を見られたくなかったからか。

「も、もちろんだとも! いや、むしろ私が見張りに立って」

「やめてくれ……」

 さすがにその申し出には彼女も頭を抱えた。


 これまでとはすっかり違った打ち解けた交流に高揚したチャールズは、はたと思い当たった疑問を口にする。


「ところで、どうしてこんな森の中ところで、水浴を? 館にも水場はあるだろうに」


 何気なく口にした疑問であったが、クリスティーナの表情はまるで苦いものを飲み込んだようになり、視線は逸らされた。


 何か事情がありそうだが、彼女は決して話そうとしない。

 やむなく、理由を聞きそびれたままチャールズは館へと戻った。


 だが、気になる。なにか、そのままにしてはいけない予感がするのだ。


「チャールズ?」

 もの思いに沈む彼に声を掛けたのは、幼なじみの婚約者だった。


「やぁ、ジェーン、来てたんだ? 何かあったの?」

「ん、イチジクのジャムを拵えたの。それで、ダイモーク夫人あなたのお母さまに召し上がっていただこうと思ってね」

「そうか、それはありがとう。だけど、それならルイスの方が喜びそうだな」

「あら、あなたもじゃなくて?」

「もちろんさ」

 ふと、チャールズはさきほどのクリスティーナのことを、このスノーデン家令嬢に話してみる気になった。

「クリスティーナ? あの剣術使いの娘ね。それがどうしたの?」

「実は……」


「ふぅん……」

「どう思う?」

「そうね、もしかしたら……。エマ?」

「はい、お嬢様」

 ジェーンは少し離れて控えていた、彼女付きのスノーデン家のメイドに声を掛けて呼び寄せた。


「あなた、ダイモーク家のメイドたちがあの剣術使いの親娘をどう思っているか、何か聞いている?」

「それは……」

 エマの目が泳いでいる。何か知っているのだろう。

「大丈夫、あなたから聞いたことは分からないようにするわ。私も何も聞かなかったことにするし、あなたが話したと特定出来るような事柄は秘匿する。それでいいわね、チャールズ?」

「もちろんだ。誓って」

「さぁ、エマ? 知っていることを話してくれる?」

 ジェーンの言葉を信じるにせよ信じないにせよ、主である少女が強い意志を示している以上、エマにはすでに選択の余地がなかった。

 そして、躊躇いがちにエマが語ったのは。

「私が聞いておりましたのは……」

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