29話 運命
「で?」
三島が抹茶オレの入ったグラスの中でストローを回すとカラカラと音が鳴った。
「説明してくれるんですよね」
「ああ……」
俺は頭を掻いて、アイスコーヒーを一口飲んで喉を湿らせた。
駅前にある全国チェーンのカフェに入るまでの間、いや、入ってからドリンクを注文している間も、ずっと三島に何をどう説明したものかと考え続けていた。
後藤さんには本当のことを言った。いや、言わなければならなくなった、というのが正しいかもしれない。
しかし、三島にも同じことができるかと言えば話は別だ。正直、俺はまだ三島の性格、というより、キャラクターを掴めずにいる。沙優のことを話した場合に彼女がどんな行動にでるかまったく予測がつかないのだ。
そんな相手にすべてを話してしまうのはリスキーにもほどがあると思った。
しかし。
ちらりと三島を見ると、彼女が真剣なまなざしで俺をまっすぐに見つめていた。
こんなに真剣に質問してきている相手に嘘をつくのも、どうかと思う。
俺は溜め息をついて、首を縦に振った。
別に、0か100かで考える必要はないのだ。
「確かに、三島の言った通り、今家には後藤さんがいるよ」
「……やっぱり、そうなんですよね」
三島は下唇を少しだけ噛んでから、目の前のグラスに視線を落とした。
「それって……そういうことなんですよね?」
三島はそう言ってから、上目遣い気味に俺を見た。
俺は、首を横に振る。
「付き合ってるかってことだろ?」
「そうです」
「付き合ってないぞ」
「え?」
三島の目が丸くなった。
「付き合ってないんですか?」
「ああ」
「付き合ってないのに家に呼ぶってどういう状況ですか……」
「お前も付き合ってないのにさっき俺の部屋来ようとしたろ」
「いや、あれは半ば自暴自棄といいますか……」
何の自暴自棄だよ。
俺はコーヒーを一口飲んでから、また言葉を続ける。
「そりゃあの人と付き合いたいとは思ってるよ。でもまだ一緒にメシに行くくらいしかしたこともないし、家に呼んだのも……すごく、特別な事情なんだ」
「特別な事情?」
三島は明らかに「その事情とは?」といった様子で首を傾げるが、俺は明確に首を横に振った。
「それは、言えない。他人には言えないことなんだ」
俺が言うと、三島は俺の目を数秒見つめた後に、大げさに息を吐いた。
「そーですか」
三島は両手を大げさに上に上げて見せて、首を横に振る。
「そういうことなら、これ以上は何も訊きません」
「……え、いいのか?」
「訊いてほしいんですか?」
「いや、訊いてくれない方が助かるんだけどな」
「だったら良いじゃないですか……」
三島は抹茶オレをストローでちゅうと啜ってから、不機嫌そうに頭を掻いた。
そして、小さな声で付け加える。
「……吉田さんのそういう顔には弱いんですよ。妙に真剣で、まっすぐな表情」
「……そんな顔してたか?」
「してました! 大事なことなんでしょ!」
三島はバンと机を叩いて噛みつくように言った。
「大事なことを話すときの吉田さんは、いつもよりも、こう……もっともっと、まっすぐな目になるんです。だから、分かります……」
三島はなんともいえない表情を浮かべて、テーブルの上に視線を泳がせた。
「それに、嘘ついてないのはよく分かりましたから……もう私から野暮なことは訊きません。私は吉田さんがくだらない嘘をつく人じゃないっていうのを確認したかっただけなんです」
三島はそう言って、もう一口抹茶オレを啜った。そして、少し落ち着いたように小さく鼻から息を吐いた。
が、すぐに俺をキッと睨みつける。
表情の変化がめまぐるしすぎてついていける気がしない。
「でも、もう一度確認しますけど、後藤さんとはなんにもしてないんですよね?」
「してない、してない」
「手を繋いだりとか……き、キスとか……」
「してねぇって」
自分で言い出しておいて途中から恥ずかし気に言い淀み始めるので、つられて俺も恥ずかしくなる。
三島無駄に手に持った抹茶オレの入ったグラスをくるくると回して、ちらちらとこちらに視線をやった。
「じゃあ……ほんとに……後藤さんと、男女のあれそれはないってことでいいんですよね……」
「ないよ」
俺が答えると、三島はほうとため息をついてから、ゆっくりと頷いた。
「それなら安心です」
「なんでお前が安心するんだよ」
俺の言葉に、三島の右腕がぴくりと揺れたのが分かった。が、すぐに三島は不自然なほどににっこりと笑顔を浮かべた。
「あやうく吉田さんに抹茶オレかけそうになるところでした」
「おい、やめろよ」
「やりませんってば。やりそうになっただけで」
三島は可笑しそうにけらけらと笑ってから、鼻から息を吐いた。
「さっき観てきた映画の話なんですけど」
三島はグラスに目を落として、抹茶オレの薄緑色の液面をじっと見つめている。
「あんまり内容覚えてないんですけど、一つだけ印象的なセリフがあったんですよ」
「どんな?」
俺が訊くと、三島はうっすらと笑みを浮かべて、グラスの中を見つめたまま、口ずさむように言った。
「『運命の出会いは、後になってから分かる』って。主人公の父親が、そう言ったんです」
「運命の出会い」
「そうです、運命の出会い。その人のその後の人生を大きく左右するような出会いのことです。でも、その人との出会いが『運命の出会い』と呼ぶに値するものなのかどうか、それが分かるのは人生が変わった後なんだ、って、そういうことみたいです」
三島の言葉に――正確に言えば、その映画の中のセリフに――俺は妙に納得してしまった。
運命の出会い……については、俺はよく分からないが、実際に、人生においての重大な選択というのは、後から振り返ったときに気付くもののように思う。その時はあっさりと決めてしまったようなことでも、「そういえば、あの時の決断は大きかったなぁ」と、後から思うのだ。
「私、その言葉に妙に納得しちゃったんですよ」
「そうだな。俺も今すごくしっくりきた」
「はは、ですよね。……でも」
三島は曖昧な笑顔を浮かべてから、首を傾げた。
「納得しちゃっていいのかな、って」
「うん? 納得したんじゃないのか」
「いや、しちゃったんですけどね。でも、それでいいのかなって思ったんです」
三島の言わんとしていることが理解できずに首を傾げると、三島はたどたどしく言葉を続けた。
「いや、なんというか……こう……そんなの、つまらなくないですか?」
「つまらない?」
「そうですよ。だって、自分は今、その後の人生を左右するようなものすごい出会いを果たしているわけでしょ。出会ってるのは、今なんですよ。前でも後でもなくて、その時なんです」
「そりゃ、そうだな」
俺が頷くと、三島は視線をグラスの付近でうろうろとさせてから、小さく息を吐いた。
「その時に、気付きたいじゃないですか。これは運命の出会いなんだ、って」
そう言った三島の瞳は、少し潤んでいて、そして、頑なな光を宿しているように見えた。
いつものおちゃらけた空気感とは違う何かが、彼女から漂っていた。きっと、本当の気持ちなのだ。
「運命の出会いに気が付いた頃には、なにもかもが済んでいて、もう手の届かないところにあった。……なんて展開は、物語なら泣けますけど、私は御免です」
三島はそう付け加えて、微笑んだ。
「私は、今がいいんです。昨日も明日もどうでもいい。今以外に私は生きてないんですから」
その三島の微笑みは、ふだんの彼女よりも数段、その雰囲気を大人びさせていた。こんな顔もするやつだとは、知らなかった。
「それで」
俺は何かを考えるよりも先に、訊いていた。
「運命の出会いは……あったのか?」
俺の言葉に、三島はきょとんとした表情を浮かべて、そして。
「ぷっ」
失笑した。
「あっはっは! そうだ、吉田さんってそういう感じですよね。ここまでくると清々しいや」
「は? なんのことだよ」
「んっふっふ……いや、もういいです、いいですから」
三島は目尻に涙が溜まるほどに大笑いした。指で涙をすくいながら、三島は何度も首を縦に振った。
「ええ、してますよ。運命の出会い」
三島はそう言って、俺をじっと見た。
「だから、絶対にこの出会いを逃したくないんです」
その眼差しはまっすぐで、彼女の決意の固さを感じるものだった。
その妙な迫力に気圧されて、俺は三島から目を逸らしながら、頷く。
「そうか、頑張れよ」
「はい、頑張ります!」
三島はわざとらしく敬礼の仕草をして、にこにこと笑った。その表情を見て、少しほっとする。
いつもの三島だ。
最近気が付いたことだが、俺は見知った誰かの『知らない表情』を見ると妙に居心地の悪さを感じるようだ。
沙優もしかり、後藤さんもしかり。
今まで見たことのない表情を見せられると、どうしたらいいか分からなくなる。
三島については特に、いつものようなおちゃらけた笑みを浮かべている方が、似合っていると思った。
そこまで考えて、俺はふと自分の思考に違和感を感じた。
彼女が部下として配属されたばかりの頃は三島のその「おちゃらけた笑顔」が癇に障ってしょうがなかった。しかし、今はどうだ。彼女のそういった一面に少なからず魅力を感じている自分がいた。
自分の思考の変化に驚きながら、苦笑を漏らした。
「まあ、三島なら大丈夫だろ」
俺が言うと、三島は目を丸くして首を傾げた。
「何がですか?」
「運命の出会いだよ。きっとモノにできるさ」
俺がそう言うと、三島はなんとも言えない表情を浮かべながら首を傾げた。
「どういう意味です?」
深く突っ込まれて、俺は少し気恥ずかしさを覚えながら言葉を続けた。
「いや……三島みたいな、いろいろ機転も利いて、笑顔がいい感じの女ならさ。きっとその男もお前に惚れてくれるんじゃないかって、そう思うぞって話だ」
そこまではっきりと言葉にしてから、俺は照れ隠しでアイスコーヒーを啜った。誰かをほめるのは、あまり慣れていない。別に大したことでもないだろうに、妙に照れてしまう。
三島のリアクションがないことに気が付いて、彼女に視線をやると、三島は視線をきょろきょろとテーブルの上で泳がせまくっていた。
ああ、これか、世界水泳。
あさみの言葉を思い出す。
たいていのことをへらへらと受け流す三島にしては妙に動揺している様子だった。
「い、いやぁ……それは、さすがに」
三島はようやく口を開いて、曖昧な表情を浮かべた。
それから、困ったように、笑う。
「きついですって」
その笑顔も、見たことがなかった。
いつも仕事中に見せる『ごまかし笑い』とは違う、何か大事なものをその中に覆い隠しているような笑みだった。
もしかして爆弾を踏んだかと思いハッとするが、気付いた時には三島はコロッと表情を変えていた。
「まあ褒めてもらえるのは嬉しいんですけどね! いやぁ、吉田さんに褒められる機会なんて仕事じゃほぼほぼないですから」
「できれば仕事で褒めさせてほしいんだけどな……」
「あはは、適度に頑張りまーす」
三島はけらけらと笑ってから、いつものいたずらっぽい表情を浮かべた。
「それより、吉田さん」
この表情には見覚えがある。
完全に、俺をからかう時の表情だった。
「吉田さんのせいで今日観た映画の内容忘れちゃったので、今度一緒に行きましょうよ」
「なんで俺が一緒に行かなきゃいけないんだ」
「いいでしょ別に。休日はなんにもしてないんじゃないんですか」
「まあ、そうだけど……」
俺の返事も聞かずに、三島は有無を言わせない笑顔で言い放つ。
「次の休み、行きましょうね」
「……分かったよ」
俺は苦笑交じりに返事をした。
三島が往来で泣き始めた時にはどうなるかと思ったが、何とか丸く収まって安心した。
胸中に広がる安堵を噛み締めると共に、忘れていたことを思い出す。
「あ」
小さく声を漏らすが、三島は聞いていない様子だった。
家に後藤さんと沙優を置いてきたままだった。
時計を見ると、家を出てから1時間とちょっとが経過している。さすがに初対面の二人で過ごすには長すぎる時間だ。
「帰ります?」
俺が時間を気にしたことに気が付いたのか、三島が首を傾げた。こういう時、三島は妙に聡いと思う。
「できれば、帰りたい」
「なら帰りましょう」
三島はあっけらかんと言って、手早く荷物をまとめ始めた。俺は財布と煙草以外は手ぶらなので立ち上がって、先にレジに向かって歩いた。
従業員がやってきて、会計を俺に伝えた。俺が財布から金を出す寸前に、三島が俺に追いついてきた。
「いくらですか?」
「……いや、今日はいいって」
「ダメです。私の分は私が出します」
「あ、そう……680円だってよ」
「……あ、吉田さん細かいのあります? あるなら私払っちゃいます」
「ある」
三島は財布に札しか入っていなかったようで、二千円を支払って、従業員に「ごちそうさまでした」と笑顔を向けた。
「今日くらい奢るっつってんのに……」
アイスコーヒーの代金を三島に渡しながら俺が言うと、三島は口をへの字にして首を横に振った。
「奢られるのは嫌いなんです」
そう言ってから、三島はいたずらっぽく微笑む。
「そんなに奢りたいなら、私の彼氏になってくださいよ」
「ならねえよ。運命の相手がいるんだろ」
俺が苦笑して返すと、三島はケラケラと笑った。
「逆に吉田さんにはいるんですか? 運命の相手」
訊かれて、一瞬俺は考えてしまう。
俺の、運命の相手。
頭に浮かんだのは、神田先輩と、後藤さんだった。
しかし、神田先輩とは連絡がつかないし、後藤さんについては、未だに俺は彼女の本音を測りかねている。
「……後にならないと、分からねえな」
俺が答えると、三島はくすりと笑った。
「やっぱり、『紫陽花の歌』、一緒に見に行った方がいいですよ、絶対」
三島はそう言って、駅の方に身体を向けた。
「じゃ、今日はありがとうございました」
「いや、まあ……」
礼を言われるようなことを一切していないような気がする。
三島はにこりと笑って踵を返し、駅の方向へと歩いていく。
その背中を見送っていると、急に彼女が振り返った。
「でも、いま分からないってことは!」
少し大きな声で、三島が言う。
「もしかしたら私かもしれないですよね! 運命の出会いの相手!」
「馬鹿言ってんじゃねえ! さっさと帰れ!」
俺が答えると、三島は再び可笑しそうに笑って、ひらひらと俺に手を振った。そして、今度こそ振り返らずに、駅の中へと入って行った。
「帰るか」
一人呟いて、駅の逆方向へ足を踏み出す。
運命の出会い。
三島の言っていたことが、少しだけ胸の中に引っかかった。
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