27話  現実

 何かを言おうと口を開く。けれど、答えが私の中にないのは分かりきっていた。


「私は……」


 それだけ、開いた口は閉じてしまう。1分か、もしくは、それ以上。もしかしたら、5分くらい、私と後藤さんは無言だったかもしれない。


「答えはないのね」


 沈黙を破り、後藤さんが優しく微笑んで、そう言った。その口調は咎めるようなものではなく、確認をする、といったようなものだった。

 後藤さんは一度目を伏せて、言葉を選ぶように、机の上に視線を彷徨わせた。


「……中学生、高校生って特別なのよ」


 そう言った後藤さんの目には少し哀愁のような色が浮かんでいたように、私には見えた。


「どう頑張っても、背伸びをしても、高校生であることをやめることはできないの。他の何者にもなれないのよ、悔しいけれど」


 後藤さんは私の目を見ずに、口ずさむように言葉を続けた。


「それほどに、強力な『身分』なの。高校生って」


 そして、後藤さんは顔を上げて、私を見た。


「場所が変わっても、制服を着ることをやめても、あなたは高校生以外にはなれない」


 その言葉は、鋭く、そして的確に、私の心の中の甘さを貫いた。

 薄々、感じていたことなのだ。自分のいた環境を投げ出して外に飛び出してきても、私はどこに行っても『女子高生』として扱われた。今まで出会ってきた男は、私が『女子高生』で、それなりに可愛い見た目をしていたから、私を抱いた。そして、『家出女子高生』は、彼らにとっては長居させるには不都合な存在だった。だからこそ、私は居候先を転々と変えることになった。逆に、吉田さんは、私が『女子高生』だから、私を子供を見るような目で見る。


「吉田君が許しても、社会は許してくれないのよ」


 後藤さんのその言葉を聞いて、私の胸はずきりと痛んだ。けれど、それと同時に私の中にあるもやもやとした違和感が打ち消されたような気がした。

 吉田さんは、私に他の男が求めたようなあれこれは一切求めずに、ただ家に置いてくれた。最低限の家事をしていれば、私がその他の時間に何をしていても何かを言ってくることはなかった。そんな生活に最も安堵して、そして、最も疑問を抱いていたのは私だと思う。


 私を取り巻いていたすべての嫌なことから逃げ出してきた私が。

 こんなに、心の安らぐ環境を与えられて良いのだろうか。

 こんなことが、許されるのだろうか。


 答えは、後藤さんが言ってくれた。

 許されてなど、いなかったのだ。


「……ありがとうございます」


 気付けば、私はそう口にしていた。

 後藤さんは、驚いたように肩をぴくりと震わせて、私をじっと見た。


「私、多分……誰かにそう言って欲しかったんです」


 ぽつぽつと、胸の内から、言葉が零れだしてゆく。


「全部から逃げたい、楽になりたい、って思いながら……でも、誰かに『逃げるな』って、言ってほしかったのかも」


 後藤さんは、何も言わずに、私の話を聞いていた。


「吉田さんは、私の甘ったれた部分を、『おかしい』ってはっきり言ってくれたんです。私は家を出てからここまで、いろんな男の人の家を渡り歩いてました。その……身体を、使って」


 私が言うと、後藤さんは一瞬目を見開いてから、下唇をぐっと噛んで、首を垂れた。


「そんなことを……」

「本当に、何かが狂ってたんです。数日の宿のために、簡単に身体を許してました。しかも、男性から求められることに少しだけ快感を感じていたりして。でも……」


 私はそこで言葉を区切った。

 吉田さんの顔が頭に浮かぶ。

 あの人だけは、私の安易な選択を許してはくれなかった。


「吉田さんは、一度も私に手を出しません。それどころか……『根性を叩きなおしてやる』って言って」

「ぷっ」


 真面目に話を聞いていた後藤さんが、そこで急に吹き出した。


「ごめんなさい。真面目な話なのは分かってるんだけど……ふふっ」


 後藤さんは何度も首を縦に振って、可笑しそうに肩を震わせた。


「その台詞を言ってる吉田くん、すごく克明に想像できてね。ほんと……彼らしい」


 そう言って、後藤さんは柔らかな表情で私を見た。


「良かったね。落ち着ける場所が見つかって」

「……はい」


 瞳が潤んで、涙がこぼれそうになるのをぐっとこらえた。


「吉田君は、あなたのことを受け入れてくれているわけでしょう。そして、あなたも彼を信用している。それは今までの二人の会話を見ていれば簡単に分かることだった」


 後藤さんは机を人差し指でとんとんと叩きながら言葉を続けた。


「だから、吉田君には甘えていいのよ。自分を許してくれる人に甘えちゃいけないなんてことはないの」


 後藤さんはそう言いながら立ち上がって、私の向かいから、私の隣へと座りなおした。そして、私の手の上に自分の手を重ねて、ぎゅっと握ってきた。ひんやりとしている手だった。


「でもね、吉田君がいくらあなたを許しても、それは、社会があなたの存在の消失を許している間だけなの。言っている意味は、分かるわよね?」

「分かります」

「だから、少しずつでもいいから、あなたは考えるべき。これから……どうしていくのか」


 後藤さんの瞳が、私の真横から私の瞳を覗き込んでくる。その目は、何か重要なことを問いかけるような、そういった真剣なものだった。なんとなく、これが後藤さんの本質なんじゃないか、と根拠もなく思った。


「……私、どうしても逃げ出したい過去と、環境があったんです。いや……あったというか、今もそれは続いてて」

「うん」

「思い出すだけで吐き気がするし、戻りたいって微塵も思えないんです」

「そうなのね」

「でも……このままじゃいけないっていうのも分かってます。吉田さんに一生養ってもらうことはできない。だから」


 私はゆっくりと息を吐いて、一つずつ確認するように、言葉を発した。


「過去のこととしっかり向き合って」


 どうしても思い出したくない過去のこと。

 親友の笑顔が頭に浮かんで、消える。忘れたい、けれど、忘れてはならないあの出来事。


「覚悟を……決めて」


 きっと私の帰りを待っていないだろう母のことを思い浮かべる。

 そして、きっと、ものすごく私を心配しているだろう兄のことも。


「必ずここを出て、元いた場所に帰ります。自分のためにも……吉田さんの、ためにも」


 そこまで言って、後藤さんの目を見返すと、彼女はゆっくりと微笑んで、私の肩に手を置いた。


「……よく言った」


 後藤さんは小さな声でそう言って、私の肩を抱き寄せた。


「その気持ちがあれば、大丈夫よ」


 後藤さんが私の耳元でそう言った。


「高校生はね、特別な期間なの。高校生でいなければいけない時間はとても長く感じるけれど」


 彼女の声色が、何かを懐かしむような、私でない誰かに言っているような、そういうものに変化するのを感じた。


「高校生でいられる時間って、人生の中ではとても短いものなのよ」


 後藤さんはそこまで言ってから、肩に置いていた手を私の頭の上に置き換えた。そして、優しく頭を撫でてくれる。


「だから、向き合うべきものとは向き合って、甘えるときは甘えて……めいっぱい高校生しなさい。学校に行っていなくても、あなたはちゃんと高校生なんだから」


 後藤さんのその言葉が、じわりと胸に染みて、気付けばまた視界が揺らいでいた。今度は我慢がきかない。目尻から涙がこぼれていく。


 私の心は、矛盾だらけだった。

 すべてから逃げたくて、けれど、逃げてはいけないと思っていて。

 誰も私に構わないでほしいと思いながら、誰かに求められることを欲して。

 高校生の身分に不自由を感じながら、自分はもう高校生ではないのではないかという不安に取り憑かれていた。

 全部ちぐはぐで、それでも、すべてが正直な気持ちだった。


 涙を流す私を胸に抱き寄せて、後藤さんは私の頭を撫で続ける。


「あなたが今感じてるすべて。それは全部、あなたの物よ。あなた以外にどうすることもできないし、どうする権利もないの。つらいのも、幸せなのも、全部あなただけの財産」


 後藤さんの、柔らかいトーンの言葉は、頭に直接響いてくるようだった。身体が密着しているせいもあるし、きっと、彼女は私の欲しがっている言葉を分かっているのだ。今は、彼女の言葉のすべてが、私の中になんの抵抗もなく浸透してゆく。


「だから……十分に逃げたらその後は……全部受け止めなさい。それがあなたの人生においての義務と、権利なのよ」

「……うっ……はい……っ」


 嗚咽を漏らしながらこくこくと首を縦に振ると、後藤さんのは再び私をきつく抱きしめた。気付けば、私は声を出して泣いていた。

 後藤さんの胸は、とても温かかった。





「それで? 何か質問があるんじゃなかった?」


 ひとしきり泣きじゃくって、ようやく私が落ち着いた頃に、後藤さんがまた他人をおちょくるような微笑みを貼り付けた顔に戻って、私に質問した。

 そうだった。

 どうしても、これだけは訊きたいと思っていたのだ。


「……後藤さんって」


 鼻をずび、と啜ってから、彼女の目をしっかりと見つめた。逃がさない。という意味を込めて。


「吉田さんのこと、好きなんですか」


 私が訊くと、後藤さんは目を丸くした後に、吹き出した。


「なによ、改まって。そんなこと?」

「大事なことなんです」

「誰にとって?」


 質問に質問で返してくる後藤さん。しかも、私の胸に的確にささる質問を投げてくる。けれど、絶対にひるまない。


「私にとっても、吉田さんにとってもです」


 嘘偽りなく、答える。

 まっすぐと目を見たまま答えると、後藤さんは面白い物を見るように笑ってから、私の目を見つめ返してきた。しかし、一向に口を開かない。


「ど、どうなんですか……」


 業を煮やして私がもう一度訊くけれど、後藤さんはにこりと笑って、首を傾げるだけだった。

 私は悔しくなって、余計なことを口走ってしまう。


「吉田さんは…………後藤さんのこと、大好きですよ……」


 だというのに、あなたはいつも分かりづらい態度で。

 そういう意味を、込めた。

 けれど、後藤さんは鼻から息を吐いてから、私に問い返してきた。


「……悔しい?」

「そういう話じゃないです!」

「あはは、怒らないでよ。可愛いんだからほんとに」


 後藤さんは可笑しそうに笑ってから、ついに観念したように、首を縦に振った。


「好きよ。彼以外、眼中にないもの」

「……ほんとですか?」

「なんで嘘をつかないといけないわけ?」

「……だって、後藤さんって何が本心なのか分かりづらいから…………」


 私がもごもごと答えると、後藤さんはにこにこと笑って首を縦に振る。


「ミステリアスな女って言って?」

「そういうとこほんと嫌い」

「あはは、言われちゃった」


 後藤さんは子供のようにけらけらと笑ってから、小さく息を吐いた。


「ほんとに、好きよ。彼が入社した時から、ずっと彼のこと見てたもの。驚くほどまっすぐで、頑固で、それでいて他人の生き方には柔軟に対応できるのよ。あんなに本当の意味で『優しい』人、なかなか会えるものじゃない」


 後藤さんは本当に愛しい物を思い出すような表情で、そう語った。そんな顔もできるんだな、と思った。


「良かったぁ……」


 気付けば、そう呟いていた。

 後藤さんは私の方を横目で見て、首を傾げる。


「良かった、って何が?」


 後藤さんの問いに、私はよどみなく答えた。


「吉田さんの恋が叶うんだったら、すごく嬉しいと思って」


 私がそう言うと、後藤さんは一瞬、今まで私に見せたこともないような表情をしてから、それをごまかす様に笑った。

 あの表情は、何を思った表情なのだろう。

 悲しいとも、こわがっているとも、怒っているともわからない、複雑な、熱のあるような、ないような、そんな表情だった。


「そうね。このまま何事もなく結ばれれば、いいわよね」

「本当に。そうなればいいと思います」


 私が頷くと、後藤さんはまたごまかすような笑みを浮かべてから、私の目をのぞきこむように首を傾げた。


「沙優ちゃんは……応援してくれる?」


 返事をしようとした時、頭の中に、ある情景が浮かび上がった。

 吉田さんと後藤さんがキスをする。

 そして、照れたように笑う吉田さんが、再び後藤さんを抱き締める。


「……も、もちろん。応援しますよ!」


 私がそう答えると、後藤さんはにっこりと微笑んで、「ありがとう」と言った。


 何故だか、とても胸が痛かった。

 けれど、その痛みに気付くまいとするように、私の口からは次々と言葉が出た。


「なにか手伝えることがあれば言ってください! 何ができるかは分からないけど……できることならなんでも手伝うので! それから……」


 まくし立てる私を、後藤さんは笑っているのか、そうでないのか分からないような表情で見ていた。


 私の言葉を遮るように携帯電話が鳴った。

 光る画面を見ると、店長からの電話だと分かった。


「あ、ごめんなさい。バイトの店長から電話で……もう、なんでこんな時に」

「いいわよ、出てきて」


 私は後藤さんに会釈をして、携帯電話を持って慌てて玄関を出た。さすがに、バイトの電話を後藤さんの前でするわけにもいかない。

 今日ばかりは、店長に少し文句を言ってやりたい気分になった。








 沙優ちゃんが玄関から出て行って、私は一気に肩の力が抜けるのを感じた。


「はぁ……」


 自然とため息が漏れる。

 多分、緊張していたのだ。

 誰かに、本音で話をするのは、本当に緊張する。


 吉田君が高校生の女の子を家に住まわせているなどと言うから、どんな図々しい女かと思って来てみれば、予想とは打って変わって、謙虚で礼儀正しい女の子だった。

 そして、その表情と、瞳の奥の『くらい何か』は、私の高校生時代に、何度も『鏡』で見た。


「おばさん臭かったよね……」


 明らかにあれは説教だった。

 知らない女がやってきて、突然説教される気分はどうだっただろうか。最終的には私の話を聞いてくれていたように感じたけれど、最初は明らかに警戒されていたし、きっと不快だっただろう。

 私は性格が屈折しているから、吉田君のように真っ直ぐな行動で誰かを導いてあげることはできない。けれど、すべてを言葉にすると、それはそれで薄っぺらいと、沙優ちゃんに必死で語りかけながら、私はずっと自分を客観視していた。

 何かを伝えるのって、こんなに難しかったのか。と、年甲斐もなく発見をした。

 会社では、本音を伝える必要のある相手なんていないのだ。久々に必死になって会話をしたような気がする。


「向き合うべきものとは向き合って、甘えるときは甘えて……だなんて」


 自分が沙優ちゃんに言った言葉を思い出して、自嘲的な笑みが漏れた。

 私は、本当に性格が悪いと思う。

 自分が高校生の頃にまったくできなかったことを、他人にはやってみせろと言ったのだ。

 彼女は純粋だから、きっと私を『本当は優しい人だ』なんて認識しているのではないかと思う。けれど、そんなことはまったくないのだ。

 私は彼女を通して、過去の自分を見た。それだけのことだ。

 沙優ちゃんがこの後の人生を立て直すことで、私の過去が少し清算されるような気がした。


 きっと、吉田君もそうだ。

 沙優ちゃんは吉田君の優しさを無条件のもののように言うが、きっと、吉田君も心のどこかで、沙優ちゃんに何かを求めている。


「大人って、本当に自分勝手……」


 呟いて、再びため息が漏れた。


 だから、あなたも自由に、自分勝手に生きなさい。

 不自由から、自由を学びなさい。


 きっと、そんなことを、本当はあの子に言いたかったんだと思う。

 本当に言いたいことは、なぜか、言葉にならない。


 ただ、吉田君なら。

 吉田君なら、彼女を良い方向に導いてあげられるのではないかと、確信に近い思いがあった。

 そして、沙優ちゃんの胸の中に育ちつつある、吉田君への想いがどういう形で表に出るか。

 それを見届けるまでは、私は吉田君を欲しがらないことにした。


 本気で欲しくなったものが手に入らないのは、もう二度とごめんだ。


「吉田君、遅いなぁ」


 ぼんやりと、彼の顔が見たいと思った。




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