23話 詰問
「焼肉の時もちょっと思ったんですけど」
テーブルの上に置かれたステーキとスープ、そしてサラダ。それに加えてサイドメニューのソーセージやポテト。それらに目をやってから、もう一度後藤さんを見る。
「ん?」
ナイフとフォークを手に持ったまま後藤さんが首を傾げるので、俺は鼻をならしてから言葉を続けた。
「後藤さんって、会社だとかなり無理してたんすね……」
俺の言葉に、彼女は少し照れくさそうに目を逸らしてから破顔した。
「そうなの、お腹すいちゃってしょうがないのよね」
後藤さんは会社の昼休みはいつも小麦の麦芽でできた健康食クッキーのようなものと、五百ミリリットルのペットボトルの緑茶で済ませている。ときどき食堂に向かうのを見かけることもあるが、食堂でもサラダしか食べていないという話を上司が口にしていた覚えがある。上司が口をそろえて言っていたのは、「なんであんな小食なのに胸でけぇんだろうな」だった。
「会社でもしっかり食べればいいのに」
「そういうわけにもいかないの。イメージってものがあるんだから」
「イメージねぇ……」
おっさんたちの押しつけがましいイメージに付き合ってやる必要がそこまであるのか、と溜め息が出そうになる。しかし、今まで仕事をしてきて、相手に対するイメージが崩れることによって職場内での関係が上手く行くようになったり、もしくはその逆になったりするパターンはよく見てきた。おそらく後藤さんは、そういったトラブルから身を守っているのだと思う。
彼女は賢く、合理的だ。今まで培ってきたキャリアを、不要なトラブルで失ったりするようなことはしない。
「俺の中の後藤さんのイメージはどうなってもいいんですか」
「イメージ悪くなった?」
「別に」
「じゃあいいじゃない」
俺の意地悪な発言を軽くいなして、後藤さんは上機嫌にステーキにナイフを入れた。そして口に運んだ肉を噛み締めながらなんとも言えない幸せそうな笑みを浮かべる。
その笑顔から目を逸らしながら、俺も持ち上がりそうになる口角を引き結んだ。
会社の他の誰も見ていないであろう彼女の表情を、俺が独占しているのだと思うと、悪い気はしない。
「そ、れ、よ、り」
気付くと、後藤さんは俺の目をじっと見ていた。何か不満なことがあるというのがありありと分かる表情が顔に貼り付いている。
「な、なんすか……」
背中に冷や汗が貼り付くのを感じながら問うと、後藤さんは目を細めて、首を少しだけかしげた。
「どうして出張断ったの?」
やはり、そのことか。
半ば予想でてきていた質問であったが、はっきりと問いただされると心臓に悪いものだった。
「まずかったですかね」
俺がそう問い返すと、後藤さんは肩をすくめて、ステーキに再びナイフを入れた。
答えたくない質問には、質問で返す。
入社したばかりの時に後藤さんが教えてくれたことだ。まさか後藤さんに対して使うことになるとは思わなかった。
「良い悪いって話じゃないのよ。私は仕事の話は会社の外には持ち出さないしね」
これは仕事の話ではないのか、と思ったが、今の後藤さんの言葉には言葉の直接的な意味に込められない別の意味があるのは明白だった。黙って俺は彼女の言葉の続きを待つ。
「断ったこと自体に問題があるって言ってるわけじゃないの。あんなの誰が行ったって一緒だし」
サラッと管理職らしからぬことを後藤さんが口走ったので、思わず失笑してしまう。
「それは言いすぎでしょう」
「言いすぎじゃないわよ。うちの支部の社員はみ~んな優秀ですから。誰が行ったって他の支部には喜ばれるわ」
そう付け加えて、後藤さんは肉を頬張った。
別に、俺のことをほめられたわけでもないのに、後藤さんのその言葉に俺は妙にうれしい気持ちになってしまう。
なんだかんだで、この人は社員一人一人を見ている。
後で聞いた話だが、三島の採用を強く推したのも後藤さんだったという。つい最近まで三島のポテンシャルを見誤っていたが、彼女も蓋を開けばとんでもない逸材だった。働き方にはいささか問題があるが、その点に関しては上司である俺がきちんと理解して、力を引き出してやればいいだけだ。
「何をにやついてるわけ? まだ話の途中なんだけど?」
「いや、別ににやついてなんか……」
「にやついてた」
後藤さんは不満げに俺を睨みつけてから、一呼吸を置いて、また口を開く。
「私が訊いてるのは、『どうして断ったのか』ってことよ。断っちゃだめだなんて一言も言ってない」
「ああ……」
やはり、そこを掘り下げられてしまうのか。
さすがに、俺も馬鹿ではない。後藤さんがそれを気にする理由は安易に想像がつく。
「俺に女がいると?」
単刀直入に尋ねると、後藤さんは一瞬怯んだような表情で固まったが、すぐに首を縦に振って、ナイフを置いた。
「……それ以外に、今まで一度も出張を断らなかった人が、突然断る理由がある?」
「体調的にきついとか、疲れがたまってるとか、他にもあるでしょ」
「入社してから一度もあなたは病欠したことないし、いっつも疲れた顔してるじゃない」
「はは……違いねえや」
今まで真面目に働いていたことを後悔するわけではないが、こんな形で裏目に出るとは思わなかった。
しかし、俺に女がいるかどうかという問いに対しては自信を持って答えることができる。じっと後藤さんの目を見たまま、俺は口を開いた。
「女なんていませんよ。俺、会社入ってから後藤さん以外眼中にないですから」
はっきりとそう言ってやると、後藤さんは一瞬言葉を失ったように口を半開きにしてから、はっとして俺から目を逸らした。
「そ、そう……」
後藤さんは視線をうろうろとテーブルの上で彷徨わせながら首をこくこくと縦に振った。
「ま、まあ嘘ではなさそう。吉田くん、嘘つくときすごく目が泳ぐから」
「世界水泳並みですか」
「なんて?」
「いや、なんでも」
あさみの言葉を思い出して小声で言ってみたものの、二回目を言う勇気はなかった。それはともかく、本当に俺は嘘が下手くそらしい。後藤さんにもそういう風に認識されていたとは知らなかった。
「じゃあ、どうして?」
どう話を逸らしても、後藤さんは食らいついてくる。
「どうして、断ったの?」
俺はゆっくりと、唾を飲んだ。
嘘をつけば、確実にバレる。となれば、事実を伝えながら、波風立たない言葉を選んでゆくしかない。
俺は腹をくくった。
「付き合ってる女性がいるわけではないですけど、今家にもう一人同居人がいるんです。それも、だいぶ年下の、未成年なんです」
俺がそう言うと、後藤さんは眉を寄せた。
「なにそれ、どういうこと?」
「言葉通りです。未成年の子供と一緒に暮らしてるんですよ。だから長期間家を空けたくないんです」
「いや、それは分かった。そこじゃなくて」
後藤さんは困惑したように視線をうろつかせて、首を傾げた。
「その……未成年? の子っていうのは、あなたとどういう関係の子なの?」
「実家の近所に住んでいた、昔馴染みです」
絶対に目を泳がせないよう、細心の注意を払って、俺はそう言った。後藤さんも俺の目をじっと見ながら、その言葉を聞いていた。
「……そう。それで、その昔馴染みがどうしてあなたの家に?」
「家出したらしいです。他に頼るアテがなかったんだと」
嘘ではない。
「いつから?」
「数週間前から」
俺が答えると、後藤さんは妙に得心がいったように何度も頷いた。
「なるほどね、それで最近妙に早く帰りたそうな顔をするようになったわけね」
「……そんなに顔に出てました?」
「ええ、そりゃもう。まあおかげで仕事の能率も上がってるようだったし、私としては何も文句はなかったけどね」
言われてみれば、今まで俺は納期を気にして仕事をしたことはあっても、自分の退社時間を気にしたことはなかったような気がする。そもそも仕事をダラダラと進めたことはなかったが、できうる限りのスピードで取り掛かってもその日の定時までに予定していた分をさばけないことはよくある。俺の勤務している会社は定時にうるさい会社でもなかったので、新人の頃から、俺はその日に予定していた進捗に到達するまでは退社しないくせがついていた。
なので、最近は定時が近づいてくると死ぬもの狂いで仕事を進めていた。それでも定時前に予定していた仕事が終わることはあまりなかったが、明らかに退社時間は沙優が転がり込んで来る前よりは早くなっていた。
「で、確認だけど」
後藤さんの言葉の温度がスッと下がったのを、俺の耳は敏感に聴き取った。
「その子は、男? 女?」
訊かれるだろうとは思っていた。この問いに対する俺の答えによっては、『一緒に暮らしている』という言葉の持つ意味が大きく変わってくるのだ。ただ、この問いを投げかけてきている時点で、後藤さんは多くのことを悟っているのだと、俺はもう分かっていた。
「言わないと、分からないですか?」
俺の言葉に、後藤さんは目を逸らして、困ったように下唇を舐めた。
「吉田君……分かってると思うけど……それって犯罪と紙一重よ? 家出した女の子を男性の家に泊めてるだなんて」
「分かってます」
「あえて訊くけれど、その子とおかしなことになってないでしょうね」
後藤さんの口調は、厳しかった。普段から柔らかい笑顔を崩さない後藤さんが、今は神妙な面持ちで俺に真っ直ぐ視線を投げてきている。
「断じて、そんなことにはなってません。俺は惚れた女以外に手は出さない」
俺がはっきりと答えると、後藤さんは俺の目を数秒間じっと見つめた後、目を閉じて、大げさにため息をついた。
「……そう。ならいいけど」
後藤さんは再びステーキにナイフを立てて、肉を切り始める。しかし、すぐにその手がぴたりと止まった。
「……吉田くん」
「なんですか?」
後藤さんは肉から再び俺に視線を戻した。
「やっぱり、腑に落ちない」
「え?」
「あなた、私のこと好きって言ったわよね」
「言いましたし、それは本気です」
「ええ、分かってる。でも」
後藤さんは眉を寄せて、俺から一旦視線をはずした。そして一呼吸おいてから、また俺を見た。明らかに不満の色が顔中から滲みだしている。
「でも、そんなことを言いながら、私以外の女性と毎日同じ家で過ごしていたって言うのが気に食わない」
「いや、女性っつったってガキですよ。別に何かが起こるわけじゃない」
「そういうことじゃない、そういうことじゃないのよ吉田くん」
ついに持っていたナイフをテーブルに置きなおして、後藤さんは食いかかるように俺に言葉を投げつけてくる。
「あなたが女性に対してとっても紳士な対応ができるのは知ってるし、その同居してる女の子があなたの恋愛対象じゃないのもあなたの態度からよぉく分かる」
「じゃあ、何がそんなに」
「人の価値観は日々変わるものよ」
俺の言葉を後藤さんは遮った。
「今日はそう思ってるかもしれない。でも明日は? 明後日は? 私が一人で家に帰る間に、あなたはその子と顔を合わせるわけでしょ。いつその子に対する気持ちが変わるか分からないじゃない」
「いや、だから、そもそも高校生の女なんて恋愛対象外なんですって」
「今は、ね。それに高校生って言ったって大人びた子だってたくさんいるし、いつあなたがその子の魅力に気付くかなんてわからないでしょう」
「後藤さん」
「それに、吉田くんがその子に気がなかったとしても、その子はどうなの? その子があなたに惚れちゃって、突然あなたのこと押し倒したとして、それをちゃんと拒める? 流れでどんなことになっちゃうかも分から……」
「後藤さん!!」
俺が少し声を荒げると、後藤さんは肩を震わせて、言葉を止めた。
たしなめるように、ゆっくりと言う。
「本当に、そんなことにはならないですから」
「……本当に? 誓える?」
「誓いますから。なんなら指でも切りますか?」
俺がそう言って右手の小指を立てると、後藤さんは小指をじっと見つめてから、ふっと失笑した。
「嫌ね、急に子ども扱いして」
「してないですよ……」
「うん……ちょっと感情的になりすぎました。ごめんなさい」
後藤さんは小さく頭を下げて、中途半端に切れた肉にナイフを入れた。肉を口に運んで何度か噛んで、鼻から息を吐きだす。
「美味し」
「そりゃ良かったです」
後藤さんは拗ねた子供のように視線を落としたまま、数分間無言で肉を頬張り続けた。その間、俺も黙って少し冷めたブレンドコーヒーを啜っていた。ちらりと腕時計を見ると、20時を回っていた。沙優は今頃、夕飯を済ませているだろうか。
「……吉田くん」
声をかけられ、後藤さんに視線を戻すと、そこには普段からは考えられないほどに自信のなさげな彼女がいた。
「……若い子に盗られたりしないわよね?」
少し上目遣い気味にそう訊ねてくる後藤さん。
全身に鳥肌か立つのを感じた。
「後藤さん……」
今まで見たこともない彼女の表情。それを他でもない自分が引き出したのだと考えただけで、純粋な喜びとも、優越感とも分からない感情に体が打ち震えるのを感じた。
端的に言うと、興奮した。
後藤さんから目を逸らして、俺は言葉を続ける。
「5年ですよ。5年間も恋していた女性が、俺のことを好きって言ってくれてる状態で、他の女になびくはずがない」
そう言うと、後藤さんも少し頬を赤くして、俺から目を逸らした。
微妙な沈黙が二人の間に流れて、それから、後藤さんがわざとらしい咳ばらいをした。
彼女に視線を戻すと、そこにはいつも通りの、柔和な笑みをたたえ、かつ、自信たっぷりの後藤さんがいた。
「じゃあ、そこまで言うなら……」
後藤さんは小さく首を傾げて、片方の口角をくいと上げた。
「その子に会わせてよ」
その言葉で、俺の思考はフリーズした。
会わせる? 誰を?
後藤さんを。
誰に?
沙優に。
どこで?
「え、それって……」
冷や汗をだらだらとかく俺に、後藤さんはダメ押しのように言い放った。
「吉田君のお家に行きたいって言ってるんだけど」
「いやいやいや」
「やましいことはないんでしょう?」
「ないですけど、さすがにまずいですって」
「どうして?」
後藤さんのシンプルな問いに、俺は言葉を詰まらせた。
「どうして……って」
「女子高生と暮らすより、私を家に招く方が難しい?」
「……」
完全に返す言葉を失った。
俺の様子を見て、後藤さんは満足げに頷く。
「じゃあ、決まりね」
俺は返事をしなかった。
それは、実質、許可を下ろしたのと同じような意味だった。
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