22話  出張


「お前、またわざとか? いい加減ぶっ飛ばすぞ」

「いや……違うんですよ、今回は普通にミスっちゃって……」

「余計タチ悪いんだよ」

「いや……違うんですよ、一昨日の夜にDVD借りすぎちゃって、朝まで見てて、それでそのまま出社したので……」


 机をバンと叩くと、三島の肩が揺れた、隣の橋本も茶化すように「おうおう」と声を上げる。


「言い訳はいいんだよ、今日中に直せんのか?」

「直します、直しますから」

「じゃあさっさと作業に……」


 三島を睨みつけてやろうと視線を上げたのと同時に、三島の背後から近づいてくる上司の存在に気付いてしまった。

 小田切課長だ。


 一気に、嫌な予感がしてきた。

 小田切課長が俺たちの部署にやってくるときは、大抵面倒ごとを持ってくる時だ。しかも、小田切課長の視線はなぜか俺に向いていた。


「ちょっと、いいかい」


 嫌な予感は的中し、小田切課長は俺のデスクまでやってきて、俺に声をかけた。


「はい、なんでしょう」


 俺も背筋を伸ばして小田切課長に向かい合う。


「急で悪いんだけどさ」


 小田切課長は顎の髭をじょりじょりと掻いた後に、言った。


「2週間くらい、出張に行ってほしいんだよね。僕と一緒に」

「へ? 出張ですか。場所は?」

「岐阜にある支社に行くんだけど」

「ぎ、岐阜っすか……」


 正直に言って、今は家を離れたくない。沙優がいるからだ。

 最近バイトも始めて、何が起こるか分からない状況だ。2週間も保護者不在はどう考えてもまずい。

 俺は精一杯の『申し訳なさそうな顔』を作った。


「ちょっと……きついかもしれないっす……」


 俺の返答に、小田切課長は目を丸くした。


「あれ、珍しいね。吉田君が出張断るなんて。いつも二つ返事じゃないか」

「いや、まあ……はは……」


 家に女子高生を匿っているから無理です、とは言えない。渇いた笑いが漏れる。

 そうだ、ここは橋本に代わりに行ってもらえば……。

 思い立って隣の席を見ると、ついさっきまでいた橋本の姿が忽然と消えていた。

 あいつ……トイレ行きやがったな……。

 逃げ足の速さは会社一だった。

 まあしかし、橋本だって奥さんが家にいるわけで、何週間も家はあけたくないよなぁ……。


「あ、三島は? 三島はどうですかね」

「ほえ?」


 急に俺が三島を指さしたので、三島は間抜けな声を上げる。彼女はやればできる社員だし、彼氏もいないという話だったから、好都合なのではないか。

 小田切課長の方を見るが、彼は首を横に振った。


「今回行く支社には社宅がなくてね。宿をとらないといけないんだよ。でも出張ごときで2部屋もとれないでしょ。女性と一緒じゃ1部屋ってわけにもいかないし」

「え、1部屋じゃダメなんですか? 小田切課長奥さんいるし、変なことも起こらないでしょ」


 俺が言うと、小田切課長は複雑な表情をして、「まあ、そうだけども」と口ごもった。


「な、お前もいいよな?」


 三島の顔を覗き込んで、ぎょっとした。


「え、嫌ですよ……」


 ものすごい顔をしていた。

 いや、嫌なのは分からないでもないけど、もうちょっと……こう、あるだろ。

 その顔はやべえよ。

 小田切課長もその顔を一瞬ちらりと見て、首を横に何度も振った。


「やっぱり三島君はダメだよ。男性じゃないと。な、頼むよ吉田君。君しか頼るアテがないんだ。君、独身だしさ」


 余計な一言が胸に刺さった。まあ、妻子持ちを出張に行かせるのは顰蹙ひんしゅくを買いかねないというのはよく分かる。


「何か、行けない理由でもあるのかい。理由次第では諦めるけどさ」


 一番、きつい質問が来てしまった。

 どう答えたものか必死で考える。今回ばかりは、正直に事情を説明することはできない。

 俺が必死で言葉を選んでいる時に、救世主は現れた。


「小田切さァん……本人嫌がってるじゃないっすかァ~……」


 小田切課長の後ろからふらふらと歩いてきた男性社員がふざけた口調で彼の隣に並んだ。少し離れたところのデスクで作業をしている遠藤えんどうだった。


「出張だったら俺が行くって。俺も独身だし、超暇だし。な? それでいいだろ」

「上司にタメ口を利くんじゃない」

「俺と行くのは嫌っすか? 課長ともあろう方が仕事に私情を挟むのはどうかと思いますけどねェ……」


 ねちっこい口調で遠藤がまくし立てる。小田切課長は露骨に嫌そうな顔をしながら遠藤を一瞥した。


「2週間ちゃんと仕事できるのかい」

「仕事はちゃんとしますよ。仕事以外の時間は好きにさせてもらいますけどね」


 遠藤が眉を上げてそう答えると、小田切課長は溜め息一つ、首を縦に振った。


「分かった。じゃあ遠藤に頼むとするよ」

「じゃ、そういうことで」


 遠藤はへらへらと笑って、立ち去る小田切課長の背中を見送った。そして、俺に視線を移して、にやりと笑った。


「吉田ァ、お前、後藤専務一筋じゃなかったのかよ」

「何の話だよ」


 遠藤はわざとらしく俺に肩を寄せて、小声で言った。


「女だろ?」

「は?」

「女ができたから、出張行きたくないんだろ。違うか?」


 遠藤の言葉に、愕然とした。そういう風に解釈されていたのか。

 しかし、完全に「違う」とも言い切れないところが歯がゆかった。別に恋人ができたわけではないが、家に『要保護者』の女の子が居座っているわけなのだから、「女」が理由だと言われても間違いではないのかもしれない。


「吉田センパイ……」


 一部始終を隣で見ていた三島が、じとりとした視線を送ってくる。


「彼女いたんですか……」

「いや、いないって」

「嘘つくなって、今までホイホイ出張行ってたやつが渋りだしたっつったら女以外ねえだろ」

「んなことないだろ。他にも出張行けない理由くらい……」


 言おうとして、言葉に詰まった。

 俺が出張を断るそれらしい理由が、まったく見当たらない。

 俺の表情を見て遠藤がにんまりと笑って、肩にぽんと手を置いてくる。


「ま、ここで喋ってるとキレられるからな。食堂行こうぜ」


 遠藤はそう言って、壁にかかった時計を指さした。見ると、13時を回っている。昼休憩をとるにはちょうどいい時間だった。


「……昼、行ってきます」


 溜め息をついて、少し大きめの声で宣言すると、近くの席の同僚が気のない声で「行ってらっしゃい」と言った。

 横目で橋本の席を見るが、まだ彼は戻ってきていない。

 一人だけ課長からとんずらした罰だ。今日は一人で飯を食え。





「この麺、もうちょいなんとかなんねえのかな。糸こんにゃくのほうがまだコシがある」


 遠藤はうんざりとした表情を浮かべながら、食堂の中華麺を啜った。


「だんだん、家畜の餌食ってるみたいな気分になってくるんだよな。どうせならメニュー名も変えてほしいくらいだぜ。『家畜の餌セット』つってな。そしたら、名前が面白れぇってんで頼む気にもなるだろ」

「そんなこと言って、お前はいつもそれしか食わないだろうが」


 遠藤が強引に連れてきた同僚の小池こいけが、彼の隣で炒飯を食べている。遠藤と小池は仲がいい。客観的に見て、性格のタイプは真逆にも見える二人だが、それが逆に二人の関係性のバランスを保っているようだった。


「で?」


 小池と小言を言い合っていた遠藤が急に、俺の方に向き直った。


「付き合ってんのか? もしかして、後藤専務と上手く行ったとかそういうことじゃねえだろうな」

「だから、違うっての」


 俺が両手をひらひらと振ると、遠藤は疑わしげな視線を向けてくる。

 まあ、上手く行ってないと言えば噓になるのだが。後藤さんと焼肉屋で交わした会話を思い出す。しかし、実際に交際関係まで及んでいるわけではないのだから、嘘ではないだろう。

 じっとりとした視線を感じて隣を見ると、にらみつけるように三島が俺を見ていた。


「冷やし中華、伸びるぞ」

「今は冷やし中華よりも吉田さんの話です」


 三島は自分の目の前の冷やし中華にほとんど手をつけずに、こっちを見ていた。

 俺は、小さく息を吐いてから、料理を注文している間に必死で考えた言い訳を口にした。


「荷物が、届くんだよ。この2週間の間に」

「荷物だぁ?」


 遠藤が眉を寄せた。


「なんの荷物だよ。別にあとでもいいだろそんなの」

「いや、どうしてもすぐ受け取りたい荷物なんだよ」

「だから、そりゃなんだって訊いてんだって」


 たっぷりと間を持たせて、あからさまに「言いたくない」という顔をしてみせると、遠藤はにやりと笑って、頷いた。


「なるほどな。そうだよな、吉田もいろいろあるよな、そりゃあな」


 遠藤は理解したようににやにやと笑って、なぜか小池の肩を小突いた。


「なんだ」

「お前も去年くらいに買ってたよな、DVD」


 小池は一瞬眉をしかめたが、何度か首を縦に振った。


「そんなこともあった。あの時は、本気でハマッてたんだ。成瀬心愛なるせここあにな」

「ごふっ」


 俺は食べていたあんかけ焼きそばを噴き出しそうになった。

 隣の三島が、俺を訝しげに見つめてくる。


「なんですか、その成瀬……なんとかっていうのは」

「ああ、なんだっけ、なんかのアニメのキャラだよ、確か」


 本当は、アダルトビデオの女優だ。

 俺のごまかし文句を聞いて、遠藤は大笑いして、小池は呆れたように息を吐いてから炒め飯をまた頬張った。三島は未だにクエスチョンマークを頭の上に浮かべたままだ。


「まあ、そこまで隠したいってんなら聞かないでおいてやるよ」


 遠藤は可笑しそうに笑って、中華麺を啜った。俺はその様子を見ながら、少し申し訳ない気持ちで口を開いた。


「いや、でも、なんだか悪いな。遠藤が代わりに行くことになっちまって」

「別に構わねえよ。俺は独身で暇人だからな。それに、岐阜でなんか美味いもん食えるかもしれないしな」

「いや、そうは言っても、お前小田切課長結構嫌いだろ」

「ああ、大っ嫌いだね」


 遠藤はおどけたようにかくかくと肩を揺らして、にやりと笑った。


「嫌いすぎて、一周回って楽しくなってきたところだ。だから気にすんな」

「……悪い。助かる」

「吉田はいちいち大げさなんだよな。だからモテねえんだ」

「それは関係ないだろ」


 遠藤に食ってかかってみるが、案外、彼の言うことも見当違いではないのかもしれないと思った。

 ちらりと、神田先輩の姿が脳裏をよぎる。


「ま、理由がなんであれ構わねえけど、俺に代わりに出張行かせたんだからよ」


 遠藤は中華麺をずるずると派手に啜った後に、俺の目をじっと見てきた。


「しっかり、行かなかった理由を満喫するこったな。エロDVDでも、女でも」


 遠藤はそれだけ言って、食事に集中し始めた。彼がずるずると麺を啜る音を聞きながら、俺は小さく息を吐く。

 遠藤の言葉は明らかに、『お前の答えに納得はしてないけど今回は勘弁してやるよ』という意味の込められたものだった。彼は基本的にがさつで、自分勝手な性格をしているが、妙に他人に対して懐が広い一面を持っていた。仕事においても、何度も彼には助けられた。

 おそらく、何度もごまかすことはできないだろう。次出張が俺に振られる頃には、沙優は北海道に帰っているだろうか……と、そんなことを、考えた。


「よ、し、だ、センパイ」

「んぐっ」


 あんかけ焼きそばを口に含んだタイミングで、三島に力強く脇腹を小突かれて、口の中身が飛び出しそうになった。慌てて飲み込んで、三島の肩を叩いた。


「お前な、食ってる最中になんてことすんだ」

「だって……」


 三島は何度か俺の目を見たり、逸らしたりを繰り返したのちに、口を開いた。


「ほんとに、彼女とか、いないんですよね?」

「だからいないって言ってるだろ。何回言わせんだよ」


 むなしくなるから、やめてほしい。

 三島は何か言いたげに口を開いたが、すぐに閉じて、頷いた。


「それなら、いいんですけど……」

「いや、恋人作るのにいちいちお前の許可はいらねえだろって痛ってぇ!! なんだよさっきから肘で容赦なく小突きやがって! あばらに当たってんだよ!」

「いや、さすがムカついてきたので」


 なぜかふくれ面をして、ようやく冷やし中華を啜り始める三島。それを訝しげに眺めていると、一部始終を見ていた遠藤が突然大声で笑い始めた。


「なんだよ」


 机を叩きながら笑う遠藤を軽くにらみつけると、遠藤は肩を震わせながら首を横に振った。


「いやな、そんな調子じゃ」


 遠藤は笑いすぎて滲み出た涙を目尻からすくいながら、言う。


「女ができた、ってのはほんとに違うんだろうなって思ってな」

「どういう意味だよ」

「まんまの意味だよ、なぁ、三島?」


 遠藤が三島に話題を振ると、三島はキッと遠藤を睨みつけて、大口で冷やし中華を頬張った。

 一体何の話をしているのか、さっぱりわからない。困惑して小池を見ると、小池も、苦笑いを浮かべてから、肩をすくめてみせた。






 三島は昼食後に修正作業を素早くこなし、俺の仕事も多くはなかったので、今日は定時にきっちり帰り支度を始められた。

 荷物をすべてビジネスバッグに詰め、いざ帰らんというところで、思わぬ人物から声をかけられる。


「吉田くん、ちょっと」


 肩が跳ねた。

 後藤さんが、デスクから手招きしていた。

 やっぱり、後藤さんに呼び出されるのはいろいろな意味で気が気ではない。仕事では特にやらかしてはいないはずだ。ということは、今日出張を断った件でお叱りだろうか……。

 ひやひやとしながら後藤さんのデスクに向かうと、後藤さんは笑顔で自分のPC画面を指さした。覚えのある、展開だった。

 おそるおそる、PC画面をのぞくと、Wordの画面に『もうすぐ上がるから、駅前のファミレスで待ってて』と書いてあった。

 ぎょっとして後藤さんを見ると、不自然なほどにニコニコと笑っている。


「じゃ、よろしく。帰っていいよ」

「あ、うす。お疲れ様です」


 俺に選択権は与えられていないようだった。

 今日は早く帰ろうと思っていたのに、という失望感と、後藤さんに個人的に呼び出された高揚が胸の中で複雑に絡み合っていた。

 エレベーターを降り、会社のビルの前に出たところで、大きなため息をつく。


「……連絡、するか」


 夕飯はいらない、という旨のメッセージを書いて、沙優に送った。

 そして、重いのか軽いのか分からない、ふにゃふにゃとした足取りで、駅前のファミリーレストランに向かった。


 今からすでに、何を言われるのか、気が気ではなかった。


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