かわいいあの子は狐娘

モーフル

第1話 コーヒーフロート大豪雨

 テーブルにグラスがコン、と置かれる。コーヒーフロートとガムシロップ、ミルクが入った小瓶。店員がテーブルを離れるのを確認し、彼女は声を潜めて聞いてきた。

 「これは飲めるの?表に飾ってあったのとは違うのね?」

 「飲めますよ。僕のももうすぐ来ると思うので気にせず飲んでくださいな。」

 「あら、それでは申し訳ないわ。すぐなら待っててあげる。」

 澄ました口調で言っているものの、体はそわそわと落ち着かない。コーヒーフロートをしげしげと眺める彼女は実に美しい。私のような冴えない学生がこんな美少女とコーヒーフロートを挟んで午後のひと時を過ごすなど、今朝の私に言っても決して信じないだろう。

 さて、先日の飲み会で「ちゅう」と言われた私がかような美少女と差し向かいに座っているのか。まずはそこから説明せねばなるまい。


 吉祥寺きちじょうじ駅北口サーティーワン前で私は友人との待ち合わせをしていた。周囲の人々と同じように携帯と睨めっこ。何もしないのは退屈だが他に何かすることもない。

 約束の時間になっても友人は姿を現さなかった。今回に始まったことではない。私は約束した時間の10分前、友人は10分後にやってくる。いつものことだ。だったらもう少しゆっくり出てもいいじゃないか、と思い立ちのんびりと行動したこともあったが、それでも着くのは10分前になってしまうのであった。おそらく向こうも同じ感覚なのであるから今更どうこう言おうとも思わない。だが空白の20分を携帯だけで過ごすのは少々つらい。同じ「何もしない」でも近くをぶらついた方がまだましであろう。ここまで考えるのが着いてからのいつもの流れであった。

 ふと、私の前に誰かが立つ気配がした。

 「ねぇ、あなた。」

 顔を上げなかった。私が待っているのは黒縁メガネに黒服のオタク友達である。真っ暗とは言わないまでも鈍色にびいろに光るのが精一杯な大学生活を送る私に、こんな鈴の音の転がるような声の主とは認識などない。

 だが突然視界の外から細い指がすっと伸び、携帯をちょんちょんとつついてきたため私は思わず顔を上げた。

 「あなたよ、あなた。」

 黒髪の美少女。国が保護すべき絶滅危惧種である。それが今目の前にいる。すらりと伸びた黒髪と同じくらい黒く輝く目。ノースリーブから覗く腕はそれらとは対照的に真っ白。8月の紫外線をあざ笑うかのようだ。

 「あなたお暇でしょう?よろしければ少し付き合っていただけないかしら?」

 詐欺。こんな美少女が話しかけてくるなんて詐欺に決まっている。

 「ごめんなさい。待ち合わせがあるので。」

 美少女からのお誘いを断るなど過去と未来の自分に罵詈雑言の嵐を浴びせられることであろう。しかし物騒な世の中ではこれも止むを得まい。

 「待ち合わせ?何時に?」

 応えるように携帯がピロリンと鳴った。オタ友からである。

 『もうすぐ着きまっせ。』

 「もうすぐだそうです。」

 「ふぅん、そう。残念ね。」

 彼女はそういうと私の携帯に向けてくるんと指を振った。再びピロリン。

 『すま○こ!やっぱ嘘、二時間くらいかかりそう!』

 顔面蒼白で謝るスタンプ付き。

 「え?」

 「お付き合い願えるかしら?」

 私の脳内には二つのイメージが流れていた。一つは目の前の美少女が白昼堂々摩訶不思議な術を使って見せたというもの。もう一つは電車内で黒服に囲まれ、涙と鼻水でぐじゅぐじゅになりながら文章を打つオタ友の姿である。どちらの方が現実的であるかというと甲乙つけがたい。だがしかし、せっかく脳内で映像を流すのであれば美少女の方がいいに決まっている。それにこのような貧乏貧弱脳足りんノータリンな学生一人騙すにしてはあまりに手が込み過ぎている。オタ友という枷がなくなった私は彼女に向き合った。

「二時間くらいなら。」

 

 喫茶店に行きましょう、と言われた時にはやはり詐欺であったかと後悔した。窓際に座らされた途端、黒服がぞろぞろと乱入して押しくらまんじゅうの挙句幸運を呼ぶかもしれない壺を買わされる、という古典的な手法を用いてくるに違いない。私は数歩前を歩く彼女を追いかけながら周囲への警戒を怠らなかった。なら逃げちまえばよいのであるが、蛾が明かりから逃れられないように、男は美人から逃れられない。自然の摂理には逆らえないのである。それでも黒塗りの高級車がついて来ないかだの、この真夏にトレンチコートにグラサンの人物はいないかだの周囲の警戒に余念がなかった。

 そんな厳戒態勢を潜り抜け私の肩をぽんぽんと叩く者がおり、私はひゃっと情けない声を上げた。見ると私の肩に白くて細くて華奢な指が乗っており、そこから美少女へと続いている。

「どうかしたの?」

 いつの間にか私の横にいた彼女は私の挙動不審ぶりを見てくすくす笑っていた。

「いえいえ何でもないです。行きましょうか。」

 平静を装って言ったが内心コチコチであった。当然である。これから詐欺に遭うかもという恐怖と、美少女と一緒にかしら公園への道を歩いている、プラスとマイナスの感情がごっちゃになって私のチンケな心の器などには到底収まるはずもない。道端でうずくまって泣き出さないだけまだましというものである。

「なるほど、そういうことなのね。」

 彼女はこちらをじっと見てにんまりと笑っている。

「何がです?」

「あなた私を詐欺師だと思っているんみたいね。このまま一緒にいたらどんなひどい目に遭うことか。でも女の子と一緒に歩く機会なんて滅多にない。プラスとマイナスが渦巻いて泣き出しそうなんでしょう?」

 私はぎょっとして彼女を見つめた。

「安心してちょうだい。私は詐欺師ではないし、あなたをどうこうしようなどと思ってないわ。ただこの先にある喫茶店に一緒に行ってほしいだけ。」

「さいですか。」

 自ら詐欺師と名乗る詐欺師などいない。反面、単純な私は彼女の言葉を信じたいとも思いつつあった。そんな葛藤を読み取ったのであろうか彼女は少し考え込み、肩から手を離して言った。

「そうね。先にすっきりさせておきましょうか。」

 ぱちん、と華奢な指からは想像もつかないほど大きな音が鳴った。

 道行く人々がみな歩みを止めた。否、人だけでなく空を飛ぶ鳥も写真の中にいるように停止している。少し先でははしゃぐ女の子の手には、ソフトクリームのコーンがしっかりと握られている。主役のクリームは激しく振る手に愛想を尽かし、ぽーんとコーンを離れ、空中で留まっている。前方のかしら公園から聞こえるはずのセミの喧騒も、遠くの井の頭通りからの車の音も聞こえず、頬を撫でていたそよ風も感じない。

「これは一体……。」

 停止した世界に戸惑う私の耳元で彼女が囁いた。

「二人だけの秘密よ。」

 彼女は私に背を向けるとするりとスカートをめくりあげた。うおぉ⁉と驚きつつも凝視する私の目に飛び込んできたのは乙女のパンツではなくふさふさとした狐の尻尾であった。

「どうかしら。」

「……マジもんですか?」

「ええ、本物よ。触っちゃ駄目だけれど。」

 綺麗だ、と言おうとしたが恥ずかしさがそれを遮った。目の前でふぁさふぁさと揺れる尻尾は作り物のようなぎこちなさは感じられない。真夏の陽光を受け黄金色こがねいろきらめき、風になびいている。おや、風?先ほどまでは感じなかった筈だが。

「もうわかった?そろそろ行きましょ。」

 彼女がこちらに向き直った。豊かな尻尾はもう見えない。

「おがあさあああん‼アイズぅぅぅ‼」

 ソフトクリームは無残にもアスファルトに落ち、女の子は泣き叫び、それに負けないぐらいのセミの喧騒。世界は再び動き出していた。

「喫茶店はもうすぐ先よ。」

 

 おん千代野ちよの三吉みつよし国立くにたち八王やおう。彼女の名前らしい。かつて江戸を大混乱に陥れた化け狐らしく、その妖力は未だ健在だという。先刻見せられた不思議な現象も彼女の力によるものらしい。「だという」だとか「らしい」だとかどうにもフワフワしているが、彼女の術を見、スカートから覗く尻尾を見た私でさえ半信半疑なのであるから仕方ないことであろう。

 その大妖狐おん千代野ちよの……ええと、大妖狐と私は喫茶店「檸檬れもん」の前にいた。彼女は屈んでショーウィンドウを眺めている。

「凄いわね。」

「何がです?」

「こんな暑いのに全然溶けないでしょう?きっとガラスの中は冷気で守られているのね。」

 何を言っているのかと少し考えたが、合点して答えた。

「これ作り物ですよ。」

「え、あ……冗談の通じない人ね。」

 ぷいとショーウィンドウに向き直る彼女であったが目の前のガラスに映る顔は真っ赤であった。

「これよ!これ!」

 しばらくして目当てのものが見つかったらしく、嬉しそうに指差して見せた。尻尾が見えていたらちぎれんばかりに振り回しているに違いない。どれどれと見る指先であるが、ぴょこぴょこと動き回って大変見辛い。あまりにも長いことぴょこぴょこしているので途中からわざとそうしていることに気づき、むっと睨むと彼女は口元を押さえて笑っていた。

「ごめんなさいね。」

「……コーヒーフロート?」

「そう、一度飲んでみたかったの。」

「デラックスパフェとかパンケーキじゃなくて?」

 彼女は立ち上がって言った。

「これがいいのよ。」

 そう言うと彼女は店の中へと入っていき、私もまぁそれでいいならと続いた。


 おしゃべりをする中年の女性2人と、ナポリタンをすする老人、計3人。ランチを過ぎた喫茶店はお客がほとんどいなかった。

「コーヒーフロート2つ。」

 席に着くなり彼女は注文し、あっという間もなくウェイトレスは奥へと引っ込んだ。

「構わないかしら。」

「構うもなにも、もうウェイトレス引っ込んじゃいましたよ。」

「そう、ならいいわね。」

 そう言って彼女は頬杖をつき、ふんふんと鼻を鳴らした。その愛くるしさと美しさに「時止めの術」が使えるならば未来永劫眺めていたいと思ったが、そうはいかない。彼女に聞きたいことが山ほど浮かび、押し合いへし合いしている。口をついて出たのは

「どうして僕なんです?」

 であった。

「お付き合いしているご婦人がいなさそうだったからよ。」

 彼女はにべもなく言った。

「自分の殿方とのがたが見知らぬご婦人と歩いているなんて嫌でしょう?私だって嫌だわ。」

「そう……。」

 納得はしたものの気持ちがずんと落ち込むのを感じ、我こそはと順番を争っていた質問達はぞろぞろと引っ込んでいた。

「お待たせ致しました。」

 テーブルにグラスがコン、と置かれる。コーヒーフロートとガムシロップ、ミルクが入った小瓶。店員がテーブルを離れるのを確認し、彼女は声を潜めて聞いてきた。

「これは飲めるの?表に飾ってあったのとは違うのね?」

「飲めますよ。僕のももうすぐ来ると思うので気にせず飲んでくださいな。」

「あら、それでは申し訳ないわ。すぐなら待っててあげる。」

 澄ました口調で言っているものの、体はそわそわと落ち着かない。

「お待たせ致しました。」

 私の分がコン、と置かれる向こうで彼女の尻尾がふぁさっと揺れるのを垣間見た。

「いただきましょう。」

 彼女は言うが早いかチュッと吸い込み、途端にぎゃっと叫んだ。

「どうしたんです⁉」

「苦いじゃない!」

「コーヒーですよ、当たり前です。」

 彼女は紙ナプキンで口を拭いながら言った。

「コーヒーって苦いものなの?」

 しばし沈黙。

「初めてなんですか?」

 彼女は羞恥にまみれた顔を真っ赤にし、こくんと頷いた。

 1888年4月13日東京下谷したやに最初の喫茶店「可否茶かひさかん」が開店し、薬だったコーヒーが嗜好品となって幾年もの歳月が流れた。江戸時代から生きる大妖狐ともあれば、コーヒーなんぞモガに紛れて飲み尽くしているものと思っていたのだが。

 彼女はまたちびっと吸うと、苦い…と呟いた。

「飲んでみようと思ったことはなかったんですか。」

「そう思ったからあなたに声をかけたんじゃないの。」

 今度はスプーンに持ち替えて、ぷかぷかと浮かんでいるアイスクリームを食べ始めた。

「ああ、これは甘いわ。」

 ミルクや砂糖を勧めたが、彼女はアイスクリームがえらく気に入った様子で、甘い甘いと食べ続けた。あんなに彼女に好かれて食べられるならば私もアイスになりたい、と思っているうちに彼女は見事に食べ終えぺろりと唇を舐めた。そのまま私の分まで手を伸ばさん勢いであったが大妖狐の威厳か淑女の嗜みか、そこまではしなかった。

 2人分1500円を支払うと店を出た。私のグラスが空になるまで、彼女は吸っては苦い、吸っては苦いを繰り返し、結局彼女のグラスも空になっていた。

「ありがとう、美味しかったわ。」

 苦い苦いと言っていたがアイスクリームのご利益が上回ったのであろう、彼女は大層上機嫌で言った。

「ねぇ、公園に行きましょうよ。歩きたいわ。」

 そう言うと彼女は意気揚々とかしら公園に向けて歩き出した。 

 かしら 公園はのどかな午後を楽しむ人々でにぎわっていたが、セミの声や風の音を打ち消すほどではなく、散歩するには実に丁度良い賑やかさであった。

「あの殿方とのがたかわいそうね。こんな暑いのにボート漕がされて、汗だくじゃない。」

 池のボートを眺めていた彼女は言った。日傘をさして涼しげに笑う彼女と、笑顔を張り付けて一心不乱にボートを漕ぐ彼氏。確かに優雅に浮かぶ水鳥みずどりと、水面下のバタ足を同時に見ているような気分、私は彼に同情とエールを送った。

「あなたも漕いでくださる?」

「汗だくの僕は見苦しいですよ。あの人みたいに笑顔なんて作れません。」

「それも面白そうだけど。」

 そう言うと彼女は鈴の音を転がすような声で笑い、静かに池の周りを歩いた。美少女と喫茶店でひと時を過ごし、今また一緒にかしら公園を歩いている。たとえその正体が狐であろうと、私の人生最幸の時であった。だが時計は無情にも友のメールから二時間近く経っていることを示し、それは二人の時間の終わりを意味していた。ちらりと彼女を見ると、ふんふんと鼻歌を歌って楽しそうに歩いている。

『ごめんなさい、そろそろ時間が…』

『あら、至極残念。とても楽しかったのに。』

『時の流れというのは残酷なものでありますな。貴女のような美しきご婦人とお茶をご一緒する機会など、今後二度とありますまい。』

『ええ、私もこれほど楽しい時間を過ごしたのは初めてよ。嗚呼!あなたともう会えないなんて嫌!』

『ならば会いましょう!貴女を想い、私はいつまでもサーティワン前で待っています!』

『ならば私も待ち続けますわ!貴方を待ち続け、今度はコーヒーフロートを美味しく飲めるようになってみせるわ!』

 突如頭の中で繰り広げられる会話劇のそのあまりの甘さと突飛ぶりにこみあげてくるものを感じ、彼女に見えないようにペッと唾を吐いた。歩いている最中も彼女は何人もの男を振り向かせた。狐とはいえそんな美少女と図々しくもまた会いたいだなど、ちゅう男子にあるまじき桃色脳みそである。

「まだ漕いでるわ、あの殿方。」

 彼女の声に私は我に返った。

「ねぇ、ちょっといたずらしてみない?」

「いたずら、ですか。」

「そう。あの殿方、少し涼ませてあげましょ。」

 どうやって、と聞くと彼女は両掌を青空に向け、何かをかき集めるような仕草をし始めた。するとどこから来たのであろうか黒雲がたちこめ始め、たちまち空を覆いつくした。彼女が掌をぎゅっと握ると黒雲は縮こまり、池の上へと移動していった。まさか…。

「こうするのよ。」

 ぱっと手を開くとたちまち豪雨が池へと降り注がれた。突如池の上に現れた黒雲への好奇心に木陰から池の傍へと引きずり出された人々は大量の水を被った。

「なんてことをするんですか!」

 私の説得は彼女の耳に届いていない。彼女は池や慌てふためく人々を見て「ほほほ」と笑っていた。はためくスカートからは尻尾が覗き、黒髪の間からはピンととがった狐耳が生えている。私は彼女が江戸を混乱に陥れた大妖狐である、ということを改めて思い知らされた。

「やめてください!」

 我慢できず、私は彼女の前に立ちはだかった。

「⁉退きなさい馬鹿!」

 彼女の荒げた声からは怒りではなく焦りの感情が伝わってきた。その理由はすぐに分かった。私の体が宙に浮きあがってメリメリと捻じれていく。まるで雑巾を絞るかのようだ。私の最期は雑巾みたいだったと言ったら故郷の家族はどう思うのだろうか。薄れゆく意識の中で私はそんなことを考えていた。


 目が覚めると青々と茂った木々と隙間から差し込む木漏れ日が目に入った。続いて私をのぞき込む彼女の顔が目に入る。狐耳はもう見えなかった。顔を横に向けるとかしら公園は何事もなかったかのようにのどかだった。

「駄目よ、寝てなさい。」

 身体を起こそうとする私の頭を押さえて彼女が言った。頭のもやが晴れるにつれ、私の頭が彼女の太ももの上にあることに気づき、心拍数が上昇すると同時に全身を刺されたような痛みが走るのを感じた。

「現実だったんですね。」

 痛みに呻きながら言った。

「何が?」

「さっきまでのこと。」

「ええ、現実よ。」

 その答えに私はふーっ息を吐いた。雑巾な私をどうやって元に戻したのかは今は疲れ切ってあまり関心がなかった。きっと大妖狐の成せる業によるものであろう。 膝枕への緊張は大分薄れ、むしろその心地よさに再び眠気を覚えるほどであった。殺されかけた相手に膝枕されるなど本来ぞっとするはずなのだが、やはり男は美人に弱いのだ。

 しばらく沈黙が流れた。セミの喧騒と、離れたところでやっている紙芝居屋の声が微かに聞こえるばかりでとても静かだ。

「馬鹿ね。」

 彼女はぽつりと沈黙を破った。

「ごめんなさい。」

「私のことよ。」

 そう言うと彼女はこちらを見てごめんなさい、と呟いた。

「私はやっぱり狐なんだわ。」

「尻尾も耳も綺麗でした。」

 疲れきっているからか、素直に言えた。

「耳も見えていたの?」

 私はうん、と頷いた。私の髪が彼女の太ももを擦るのを感じたが、心は穏やかであった。私らしくもない。彼女は狐耳の生えていた辺りを手でさらさらと撫でていたが、その心中を推し量ることはできなかった。

 再び沈黙が訪れた。夏の太陽も段々と西へ傾き始めている。私は相変わらず美少女の膝枕に甘え、美少女の顔を鑑賞していたが、だんだんと瞼が重くなっていくのを感じた。彼女の方は私の髪を指に絡めたりして物思いに耽っている。

おん千代野ちよの三吉みつよし国立くにたち八王やおうさん。」

 今度は私が沈黙を破った。彼女は驚いたように私を見下ろした。

「覚えてくれたのね。」

「ええ。」

「呼びにくいでしょう、千代野ちよのでいいわ。」

「えと、じゃあ千代野ちよのさん。」

 言葉が詰まってしまった。彼女はじっと私の言葉を待っている。

 決心した私は一呼吸入れてとうとう言った。

「また、会えますか?」

 彼女は驚いた表情で沈黙し、やがてくすくすと笑うと答えた。

「また会えるわ。」

 その言葉に安堵した私は再び瞳を閉じ、眠りに落ちていった。


 目を開けると吉祥寺きちじょうじ駅北口サーティワン前に立っていた。えっ、と驚き周りを見渡すが彼女はどこにもいない。状況が呑み込めない私のポケットで携帯が鳴った。

『もうすぐ着きまっせ』

 オタ友からである。約束の時間から7分、私が最初に着いた時から17分しか経過していなかった。太陽も真上に戻っている。白昼夢かそれこそ狐に化かされたか。狐につままれたような顔をする私の耳に、鈴の音の転がるような声で笑う彼女の声が微かに聞こえてくるのであった。

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