母の日

@jidoubun

第1話

 軒先に並ぶ花はみな、5月の空に浮かぶ白い太陽に向けて微笑みかけている。

 静まりかえった住宅街で、窮屈そうに隣家と肩を並べる一軒家。取り付けられた緑色の日除けと所々が剥げた看板、そして軒先の花が辛うじてここが花屋であることを思い出させた。

 毎年この時期に、この花屋に花を買いに行くのは、家族の中での数少ないぼくの仕事だ。さっさとすませて帰ろう、とガラス張りの店の入り口へ歩を進め、

「・・・あれ?」

 ぼくはこの花屋の異変に気付いて、足を止めた。いや、異変というほどでもないけれど・・・店の中に、人がいる。

 その人影の一挙一動にあわせて、黒いワンピースのすそが軽やかに翻った。背はそこまで高くなく、シルエットもこぢんまりとしている。

 同い年くらいの女の子かな? このあたりに住む子なら、同じ小学校の可能性も高い。ぼくはなんとなく、その人影の行動を店の外から目で追った。

花に囲まれて狭い通路を歩く人影は、ある花の前で立ち止まった。女の子の背に隠れて、その花が何かはここからは見えない。

 ぼくは入り口のガラス戸に一歩近づいて、その花をのぞき込もうとした。顔をガラスに寄せると同時に、女の子はふいとその花から顔をそらす。そして、すぐ隣にある白い花の前にしゃがみ込んだ。

 本命は白い花のほうだったのか。いったい何の花だろう? 

店の外からじゃよく見えない。ガラス越しの観察はやめにして、そろそろ店の中へ入ろう。重たいガラス戸を押し開けると、カランと小気味のよい涼しげな音とともに花の甘い香りがぼくを包む。

 甘い、といってもべたべたとまとわりつく甘さではなく、果実を思わせるさわやかな甘さだ。この香りは嫌いではない。

 正面に見えるレジには、なぜか誰もいなかった。

 首筋を冷たい空気が刺す。この店はいつも、冷房がいやというほど効いていた。真夏に来れば良い避暑地になりそうだ。

 赤、緑、黄色と色とりどりの花たちは、隣り合う花と競うように咲き乱れている。普通の一軒家と変わらないスペースにこれだけの花を詰め込んでいるのだから、ケンカするのも当たり前だろう。

 黒いワンピースを着た女の子は、花びらの合間に隠れるようにしてしゃがみこんでいる。花びらと頬にかかる黒髪で、女の子の顔はよく見えなかった。

 ごくりとつばを飲む。ぼくは思い切ってその女の子に近寄り、隣まで来たところで立ち止まった。

 ここはちょうど、さっき女の子が立ち止まったところ。そこに咲いていた花は、真っ赤なカーネーションだった。今日のイベントに合わせたのか、他の花とは異なる赤い縁取りのプレートで花の名前が書かれている。

 彼女も、母の日の贈り物をするのかな。ちらりとしゃがみ込んだ彼女の横顔を、気付かれないようにそっとのぞく。

 驚くことに、ぼくはその顔に見覚えがあった。まさか、と思わず声をかける。

「もしかして、江藤?」

 女の子は肩で切りそろえた黒髪を揺らして、こちらをばっと見上げた。その顔を見て、人違いではなかったとこっそり息をつく。江藤は突然降ってきた声に驚いたようで、黒目がちの瞳を大きく見開いていた。

「先原くん」

 江藤はぼくのクラスメイトだ。江藤とは5年生になって初めて一緒のクラスになった、約一ヶ月のつきあいに過ぎない。だから、江藤についての情報は特に持ち合わせていない。

 ついでに、学校の外で会うのもまともに話すのもこれが初めてだ。

 立ち上がる様子のない江藤の横に、ちょこんとしゃがみこむ。

「江藤も、母の日?」

「うん」

 江藤は突然現れたクラスメイトより、目の前の白い花に興味があるらしく、視線をそこへ移して動かそうとしない。

 ふっくらとした白い花びらが特徴的な花。その花束を擁するバケツには、例に漏れずネームプレートが下げられていた。

 江藤の視線はそこに固定されている。

「母の日に、ユリを贈るんだ?」

 ぼくの質問に、江藤は黙ったままこくりと頷き、そのまま目を伏せた。横顔をこっそり眺めていると、江藤は言い訳のようにぼそりと付け加える。

「好きなの。お母さんが」

「でも、母の日なら、こっちじゃない?」

 ぼくはすっくと立ち上がり、真っ赤なカーネーションを手に取ってみせた。

 江藤が立ち上がったぼくとカーネーションを見上げる。

 ぼくとしては何気ない質問だった。けれど、江藤にとっては重要な質問だったようだ。

 こちらを見上げる黒い瞳は苦しそうに揺れ、それを抑えるかのように江藤は膝の上に置いた拳をきゅっと握りしめる。そして俯き、かぶりを振る。

「ううん。誕生日も、母の日も」

 そこで一度言葉を切った。少し眉を寄せて、

「そういう日には、お母さんに白百合を贈ることにしてるの」

と続けた。いらついたような、責めるような口調は、今までの弱々しい相づちとは全く違う。そして声をぐっと低くして、呟く。

「今更、他の花を贈るなんて」

 まるで、それ以外は許されない、とでも言いたげな口調だ。

 ぼくは、江藤の丸まった背中を見下ろして、立ちすくんだまま動けなかった。

 勘違いだったらそれまでだ。けれどぼくには、江藤がユリ以外の花を買いたいように・・・カーネーションを買いたがっているように見えた。

ぼくは江藤に声をかけようとした。でも、ぼくが口を出していいことなのか?

 第一、ぼくは江藤のことをよく知らない。たかだか1ヶ月のつきあいだ。知らぬが仏、触らぬが吉だ。よし、カーネーションを買って帰ろう。そうと決まれば、店員を呼びに・・・。

「・・・」

 ぼくの足はなぜかレジへ向かわずに、その場にしゃがみ込んでいた。

 再びしゃがんだぼくを江藤は怪訝な顔で見つめる。

 ぼくはわざとらしく咳ばらいをしてから、再び口をひらいた。

「ええと、うちは、母の日はカーネーションって決めてるんだ」

 この話をするのは少し恥ずかしい。どの男友達にもしていない話をどうして江藤にしているのか、自分でもわからなかった。だけど口は止まらない。

「それが定番だからってのもあるけど、小さい頃から父さんと一緒に毎年カーネーションを買って、母さんにプレゼントしてたんだ。そしたら、ある年にさ、母さんが『カーネーションが貰えるこの日が、毎年楽しみ』って笑ってくれて」

 だから、毎年カーネーションを懲りずに買いにくるんだ。

 江藤はだまってぼくの話を聞いている。

 だからさ、とぼくは手に持っていた赤い花を、江藤のやわらかな手に握らせた。

「江藤のお母さんも、新しい楽しみが増えるかもしれないじゃん」

 はっとしてぼくへ顔を向ける江藤は、目をビー玉のようにまるく見開いていた。震えるくちびるを薄く開け、

「お母さんの・・・」

 かすれた声でつぶやく。そしてまた下を向いた。今度は、手元の赤い花をにらむかのように、じっと見ている。

 あとは江藤次第だ。

 立ち上がろうとすると、レジの奥からがこん、と網戸を引き開ける音が聞こえた。店を留守にしていた店主が、戻ってきたらしい。足音が近づいてくる。


「先原君、ありがとう」

 あれからすぐ、ぼくたちはめいめい花を買ってから店を出た。

 ぼくは一輪のカーネーションを持って。そして、江藤の手にも同じ赤い花が握られている。百合を見つめていた時より、いくらか晴れやかな顔をしていた。

「や、ぼくは別に」

 どうにも決まりが悪く、ごまかすように頭をかいた。

 みっともなく照れているぼくから目をはずして、江藤は困ったように眉を下げる。

「わたしね、お母さんのこと、一番わかってるつもりだったの」

 ・・・江藤とお母さんの間には、やはり何かあるのだろう。

 色々聞きたいことはあったが、ぼくは聞かないでおいた。

 それを聞く資格は今のぼくには、まだ無い。きっと彼女の大切な部分なのだろう。

 江藤は、カーネーションをいとおしそうにながめる。

「でも、お母さんに楽しんでもらおう、って考えたことなかった・・・先原くん、ありがとう」

 江藤は花が咲いたように笑う。

 風に揺れる髪を耳にかける動作がどきりとするほど大人びていて、ぱっと目をそらした。

 体中の熱が、耳と頬に集まるのを感じる。それを悟られないようにあわてて手を振った。

「じゃ、じゃあ、また学校で」

「うん、また明日」

 江藤は軽く手を一振りして、あとは振り返ることは無かった。

 新学期は、まだ始まったばかりだ。

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