髭女の生活


 髭女に生まれついた。出勤前の夫と並んで、毎朝欠かさず髭を剃る。

 朝起きて、家族三人分の弁当を作り、つめたおかずを冷ましている間に洗面所に立つ。起きてきた夫と鏡の前でおはようを言いあいながら、黒ずんだ頬のぞりぞりを湯で温めてふやかして、シェービング剤の上からカミソリを当てる。剃り残しのないよう念入りに、剃り終わったら泡をすすいで、メイクをするのはそのあとだ。朝に頬をあたっても夕方にはもう青みがかるので、コンシーラーが欠かせない。

 私よりも早く夫が剃り終わる。娘を起こして着替えさせるのも彼で、寝ぼけまなこの娘が朝食をとるタイミングで私と交代、弁当を持って出勤する。忙しい時期には剃らない日さえある。もともと夫は体毛が薄く、顔の髭も一日くらいなら放っておけるので羨ましい。逆だったら楽だろうになと、たしかに思わないこともないが、こればかりは体質だ。

 夫を見送り、娘を幼稚園のバスに乗せ、天気のいい日には洗濯物を干し、それから私も出勤する。職場は歩いて十分ほどの、近所のクリニックの受付事務。午前中の診療受付を担当し、二時には退勤してバスで帰ってきた娘を迎える。なんのかのと家事を片づけ、夕食の席で娘の一日を聞き、それを帰ってきた夫に報告して笑いあい、三人で風呂に入り私はもう一度髭を剃り、それから布団を敷いて川の字になって寝て、そして次の朝がやってくる。


 何の変哲も、変わり映えもない毎日。その日々のなかで、娘はどんどん大きくなっていく。このあいだ買った靴がもう合わなくなる。友達とかけっこして転んでも泣かなくなる。髪の毛を長くするからぜったい切りに行かないんだとがんばる。

 ひとつひとつ、数えあげればきりがない。娘に流れる時間のすべてが愛おしい。けれど。


 ある夜、布団の中で、娘が目に涙を溜めてこう言う。

「ママはどうしてひげをそるの」

 ままごとで、娘は私の真似をして笑われた。リサちゃんなんでひげそるの、おかあさんにはひげなんか生えないよ、ひげが生えるのはおとうさんだよ、へんなの、リサちゃんはおかあさん役できないよ。

 そろそろ話していい頃だろうと、私は娘に髭女の宿命を語る。リサもいつかは髭を剃るのよ。隣で夫が聞きながら、黙って娘を撫でている。


 髭女に生まれついた。私の母も髭女だった。祖母も曾祖母も髭女だった。娘もきっと髭女だろう。高校生になる頃には、ちょうど私がそうだったように、毎朝髭を剃ることになるだろう。

 でもこんなものは剃れば済むのだ、私は今が幸せで、ただ、眠る娘のやわらかな頬を撫で「気にするなよ髭なんて」と呟く夫に「気にしてないよ」と繰り返す、その瞬間はとても悲しい。

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