<― 第二次日本海海戦 編参 乙十九>

 重巡『古鷹』が大きなダメージを受け、舵が効いているのかいないのか、よろよろと左にゆっくりと曲がるのが見える。

 『加古』以下後続は、さらりと速度を落とさず右に回避した。

 敵と『古鷹』の間に割って入る見事な艦隊運動だ。

 白露型のほうは速度を殺しつつ少し左に舵を切り、『古鷹』に続く四番艦『筑摩』の後ろからの離脱を図った。

 その間も砲撃戦は休むことなく続けられ、ソビエト駆逐隊のうち、手前側を走っていた六隻をすべて撃破、奥側の艦列でもさらに一隻を撃破していた。

 こちらも当然無傷ではなさそうだったが、大きな被害を受けたのは『古鷹』一隻だけのようだった。

 二人は後で知る話だが、中でも『夕立』が鬼神のような命中率で二隻を撃破し、『時雨』はこの激戦の中直撃弾なしという幸運をしめしていた。

「宇佐美、見てみろ! 大勝利だ!」

 巽が思わず声に挙げる。

 だが、仕事がある。いったん呼吸を整え、報告をしようと『扶桑』ほうに向き直った。

「あっちは……」

 見ていない間に、様子が一変していた。

 少なくとも、ここからは敵戦艦一隻と味方駆逐艦一隻が見えなくなっている。

 『扶桑』の真ん中あたりから火の手が上がっているのも見えた。

「デカいのの弾、食らっちまったか」

 巽が心配そうに『扶桑』を見る。

 帰るところがなくなっては、非常に困る。そう思ったが、どうやら『扶桑』のダメージはそれほど深刻ではなさそうだった。

 上がった火の手は、それほど大きくない。

 速度も変わらず、砲撃も続けていた。

「あんなところに」

 ふと、宇佐美が、さっきは見えなかった駆逐艦を見つけた。

 見えなかったというより、違うところを見ていたという状態だった。

 北に向かっていると思っていた『島風』が南西に進路を変え、最後尾を走る敵戦艦の尻に噛みつこうとしていたのだ。

 残りの二隻も何とかついていこうと転舵していたが、だいぶ遅れをとっている。

 その近くの暗い水面では、巨大な戦艦の横腹と、そこから立ち上る煙がうっすらと姿を見せていた。

 どうやら、残りの敵戦艦は旧式の二隻だけになっていた。

 旧式とはいえ、扶桑型とさして変わらぬ世代だ。主砲の口径は30センチ程度と小さめだが、手数は多い。

 油断はできない相手だということくらい、巽にもわかっていた。

 だが、そんな心配はすぐに消し飛んでしまった。

 最後尾の戦艦に、数本の水柱が吹き上がった。

 真後ろを横切りつつあったの特型駆逐艦から魚雷が強引に投げ込まれ、命中したようだ。

 速度の鈍ったところへ『山城』からの砲撃が立て続けに命中し、完全に叩きのめした形になっていったのだ。

 そして、爆沈。

 すさまじい炎と煙を噴き上げ、半分に折れて海の底へと消えていった。

「しまい、か」と、宇佐美。

 空から見る限り、戦闘はこれまでのようだった。

 かろうじて生き残った敵が去って行く。

 もちろん、深追いは禁物だ。

 

 あたり所が良かった。

 悪かった、とも言える。

 敵大型戦艦が放った最後の砲弾は、『扶桑』の第三砲塔を直撃していた。

 砲身はひん曲がり、砲塔自体も衝撃でターレットごとずれてしまった。これでは、もう使い物にならない。

 しかし、改装の際に装甲をより厚く強化された、艦でもっとも頑丈な場所でもあった。

 貫通は免れ、火災もすぐに収まってくれそうだった。

「平賀殿。もう、大丈夫でありますぞ」

 消火やダメージコントロールは艦長たちに任せ、西村は隅っこで座っている平賀に声を掛けた。

「ふーむ。さすが、私のフネだ」

 小さな声。

 いや、何かおかしい。

 そう感じて、西村は平賀に駆け寄った。

 暗がりの中にぺたんと座ったまま、立ち上がるどころがほとんど動かない。

 部下の木村がその隣にしゃがみ、ゆっくりと彼の鉄兜を外していた。 

「ちょっと、大将ったら」

「まだ中将……むぅ。『扶桑』も『島風』も、よくやった。あー、みんな、よくやった」

 平賀は右手をひらひらと手を振りながら言った。

「平賀、中将、殿?」

 西村は、ゆっくりと歩み寄って、惚けたように声をかけた。

「おう、なんだね」

 答える声に力がない。

「動かんで下さい」

「なにを言う。戦が、終わったら、やる事が、沢山ある」

 平賀は何かしようと動いたが、「あいたた」と動きを止めた。

「動かないで下さい! 今、軍医を!」

「木村ぁ、早く呼べ。あと、百は、フネを作らんと、くたばれん」

「わかったから、黙ってください!」

 平賀が「ん」とだけ答える。

「平賀殿?」

 少し、西村に向き直る。

「よーぅいこら……。これを、エントツに、な」

 力を振り絞るように、平賀は濡れて重くなった上着のポケットから、小さな鍵を取り出した。

 ぶら下がった、その鍵より大きな札には「玉手箱」とだけ書いてある。

「腰痛ぇ。くたばれ、ねえ……」

 鍵は、誰の手に渡ることもなく、べしゃりと音を立てて床に落ち、跳ねなかった。

 静寂。

 返事も、掛ける声もない。

 床は血の海だった。

 明かりが消えたこの『扶桑』の艦橋で、手当の術すら見つからなかった。

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