第2話 参上、時の魔法使い
翌日。
この地域では珍しく、雪が積もった。
1センチも無い程度だけれど、滑りやすくなってはいる。いつもは自転車で行くところを今日は諦めて、徒歩で行くことにした。幸いキャンパスまでは目と鼻の先の距離で、歩いても10分程度だ。寒いことがネックではあるけれども、散歩だと思えば少しは我慢できる。
いつも通りの時間に家を出て、いつものリュックを背負って歩く。
雪に慣れていないから、時折足元の雪で滑りそうになる。ただ積もっているだけではなくて、凍っているような感じだから、なおのこと歩きにくい。こんな日でも授業があるのが恨めしい。授業さえ無ければ、滅多に無い積雪を喜ぶことができただろう。
雪はまだひらひらと舞い、空はどんよりと雲で覆われている。おまけに空気も体が凍えそうなほど冷たい。この調子だと、雪は長く続くかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、キャンパス近くの橋にさしかかった。そんなに大きくない川に架かる橋で、交通量は多い方だ。ただ今日は車の数が普段より圧倒的に少ない。タイヤにチェーンを巻いたバスを含めて何台か通り過ぎていく程度だ。
ジャラジャラと音を立てて去っていくバスを横目で見送っていたら、突風に襲われた。予期せぬ風に煽られたせいで、足が少し滑った。足元のわずかなズレが体の各部を伝って大きなズレとなり、僕の体のバランスを崩した。とどのつまり、僕は転びかけた。
咄嗟に欄干に掴まり、足を開いて踏ん張った。自分の体から熱が抜けて一気に冷え、ゾワッとした感覚が背筋を駆け上る。
また1台、バスがジャラジャラと音を立てながら僕の横を通り過ぎて行った。
欄干に掴まったまま姿勢を正して、僕は突風の吹いた方向を向く。風は橋とちょうど垂直になるような感じで、上流側から吹いてきた。川が細く続くさらにその先に、雲を被った山々が見える。
さっきの突風で胆が冷えた僕は、欄干にもたれかかってその山々を眺めた。冷や汗を下着が吸って少し気持ち悪いし、心臓もまだドキドキしている。心を落ち着けようと深く吐いた息は、白くなって風に流された。
寒い。
当たり前のことだけど寒い。さっきまでは歩いていたおかげで自分で発熱して緩和されていたけれど、冷や汗で服の中の温度は下がったし、立ち止まっているからリカバリーできるだけの熱を発していない。かと言って歩き出すにはまだもうちょっと休んでいたい。
うだうだとしながら、僕は体を縮めた。自然と、下の川面に目がいった。
ゆったりと流れる川。その川面に雪が一片落ちて、波紋を広げる。また雪が一片、もう一片……じっと見ていると、風や車の音までもがゆっくりに聞こえてきて、しまいには時間さえもゆっくりと流れているように感じた。
段々と心が無になってきて、そのまま川面に吸い込まれそうに――
「そこのお兄さん、ちょっと良いかしら?」
――なったところで、誰かの声が聞こえた。
気付けば、小学生ぐらいの女の子がすぐそばに立っていた。ゆるやかに揺れる金髪ツインテールに、目鼻立ちのしっかりした顔と僕を真っ直ぐ見上げる碧い瞳。多分外国人だろう。ロングコートのこげ茶色とブーツの黒に対して、マフラーと手袋の赤がはっきりと自己主張している。
「ど、どうしたのかな? 何か用?」
寒い中無言で居たせいで、上手く口が動かない。
「ねえ、お兄さん。もし過去に戻れるとしたら、あなたは何をしたいですか?」
「へ?」
女の子が投げかけてきたのは、唐突かつ予想外の質問だった。
過去に戻ったら何をしたいか?
こんなことを言うのはいけないことかもしれないけど、ちょっと頭のおかしい子に話しかけられてしまったかな、と思ってしまった。
「お兄さん、さてはバカな女の子だと思ってますね?」
「へ? いや、そんなことは無いよ?」
顔に出ていたのだろうか、女の子がムスッとして僕を睨みつけてきた。小学生にしてはちょっと怖い。
僕は慌ててブンブンと手を振ったけど、どうやら効果は無かったようだ。女の子はため息をつくと、一つ手を叩いた。
その瞬間、僕の周りから音が消えた。
(何が起きて……あれ?)
僕はもう一つ、おかしなことに気付いた。
体が動かない。言葉を発することができない。
僕の体だけじゃない。ちらついていたはずの雪もまた、僕の視界の中で動きを止めていた。
(な、な、な、な⁉)
(どうですか、これで少しは真面目に相手してくれますか?)
動転している僕の頭の中に、女の子の声が響く。耳を通してではなく、頭に直接。
(これはどういう……)
(今、時間を止めました)
(は⁉)
(そういえば、自己紹介を忘れてましたね。私は時の魔法使い、クロノスと申します。私の力なら、このように時間を止めることも過去に行くことも造作の無いことですよ)
女の子が自己紹介をしてくれたけど、荒唐無稽すぎて余計に動揺する。こんなの、あり得んだろ……。
(うーん、疑いますか。現実に起きていることなんですけどねえ)
女の子――クロノスちゃんは、一点の曇りもない瞳で僕をじっと見つめている。
(……マジで?)
(マジですよ?)
声を出さずに意思疎通が出来ている時点で、信じるしかないようだ。頬をつねろうにもまったく身動きがとれない。
(わかった。信じるよ)
すぐに、音が戻ってきた。感覚の無い拘束から解放された体は、奇妙な倦怠感を訴えた。だけど目の前のクロノスちゃんは平然として立っている。
「さて私の力を少し体験してもらったところで、もう一度お聞きします。お兄さんは、過去に戻れるとしたら何をしたいですか?」
「過去に、ねえ……そう聞かれても、パッとは浮かばないなぁ」
ポリポリと頭を掻きながら、僕は素直に答えた。唐突にそんなこと言われても思い浮かばない。
「入試をやり直せたりできるとしてもですか?」
「え……?」
驚く僕に、クロノスちゃんは悪戯っぽく笑って言った。
「ふふふ、隠したって無駄ですよ。何でもお見通しですから」
その笑顔に妙な説得力を感じて、僕は納得してしまった。
ただ、それでも新たな疑問が出てきた。
「でも、なんで僕に?」
「それはですね……」
くるり、と一回りして、クロノスちゃんは欄干に背中を預けて空を見上げた。
「もし私が手助けしなかったなら、お兄さんは過去に縛られたまま終わってしまう。そう思っただけです」
「あー……」
本当に、この子には何でも見透かされているらしい。漠然とだけど納得してしまった。
「まあ、確かにそうかもしれないけど、過去って変えても大丈夫なの? ほら、過去を変えたら未来が変わるとかなんとか言うじゃん?」
「問題ありませんよ。確かに過去の事象の積み重ねでお兄さんは存在している。だけど、過去の事象そのものは現在とは独立的に存在しています。だから、過去で何をしたとしても、現在には何ら影響を及ぼしません。安心して好き放題やってきてください」
「そうなんだ……」
僕も欄干に寄り掛かって、また彼方の山々に目を向けた。
相変わらず雲は空を覆って、山の頂さえも隠している。
「やり直せたとしても、成功できる自信なんてないよ」
ため息交じりに出てきた言葉は、僕の本音だ。
たとえ何度やり直せたとしても、失敗し続ける気しかしない。
「じゃあ、騙されたと思ってやってみませんか?」
そう言って、クロノスちゃんは僕に向けて手を伸ばしてきた。
「騙されたということなら、言い訳もできるでしょ?」
「……君って優しいんだね」
差し出されたその小さな手に、僕は自分の手を重ねた。
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