こころのけしき

かさかさたろう

親心、子心

太陽が向こうの山陰に姿を消そうとしていた時、時折、がたんと揺れる電車の中で一人の青年が、気難しそうな顔をして静かに座っていた。名を幸晴といった。ゆらゆらと走る電車の中は、仕事帰りの疲れた様子のOLだったり、昼間に街で遊んできたと思われるペアルックのカップル、学生服を着て熱心に参考書を読み漁ってる高校生らしき男の子など、様々な人の群れでそれなりに埋まっている。身動きが取れない程ではないが、席を移動しようとするなら、誰かしらに声をかけながら動く必要がある程だった。

しかし、先程の青年・幸晴にとってはこれくらいの人混みはどうもない。小さく体を畳んで、他人の邪魔にならないようにしている。

電車がカーブに差し掛かり、少し揺れると、座っている青年の方に、中年小太りの少し頭の禿げた男がよろめく。

中年男が「おっと、すいません」と頭を下げた。「いえ」、幸晴も頭を下げる。

そうしていると、電車は速度を緩めながら、するするとホームに吸い込まれていく。がたん、きー、とゆっくり電車が止まり、アナウンスが流れるとドアが開く。先程の中年の男が疲れた様子で、ハンカチで汗をかいた頭を拭きながらゆっくりと人混みと一緒にドアに流れていく。幸晴はそっと立つと、人混みの後ろについて出ていった。


幸晴は電車とホームの隙間を跨ぎ、ホームに降り立つ。ホームの出口には行かず、ホームに設置してあるベンチの方へすこし歩くと立ち止まって、一旦、息を吐いてからゆっくりと、優しくそよぐ故郷の風を吸い込んだ。



幸晴は実は久方ぶりに故郷に帰ってきたのである。およそ3年……。

青年にとってはそこまで短い月日ではあるまいが、実家に全く頼らず生きてきた。もっと言えば、母親からの心配の連絡も一切取らずであった。ある人から言わせれば、「親心、子知らず」のバカ息子である、とは少し言いすぎな気もする。

では、そんな「バカ息子」がなぜ突然、しかも連絡もなしに帰ってくるのか。それは、仕事仲間のパートのおばさんに言われた一言がきっかけだった。

このおばさんは、幸晴が都会の工場に配属された時から幸晴のことを何かにつけて気にかけてくれたのである。

聞けば、一人、息子がいるが、地方に異動になってから、もう随分と顔を見てないらしい。そのおばさんが独り言のようにこう言ったのだ。

「たまには帰って顔でも見せんと、いつ居なくなるかも分かりません」


幸晴の「帰れない」には理由があった。

彼は、父親が町工場を経営して生計を立てていた。その町工場は繁盛もしているし、借金もなく、ずっと黒字の優良な会社であった。普通であれば、父親が社長であるし、将来は安泰であると、傍目から見ればそういう環境で育ったのである。しかし、それが父子の関係を悪化させてしまうのは人生の不思議なところである。


彼の父は小さい頃からしつこく「お前がワシの跡を継ぐんだ」と言ってきた。そして、息子に出来るだけいい状態でバトンを渡せるように、仕事に精を出して働き、規模は小さいなりに評判も業績もすこぶる良い状態にしていたのである。幸晴の父は年取ってから生まれた一人息子が、ただ可愛かったのだ。そして、息子を置いて早く死ぬであろうことを考えた時に、遺された息子が、ただ心配だったのかもしれない。

しかし、幸晴はただ跡を継ぐことを潔しと思わなかった。

「世の中には、父親が一代で建てた会社をなんの苦労も知らぬバカ息子が食い散らかして潰してしまうということも聞く。俺はそれだけは絶対に嫌なんだ。父さんの会社の人たちを思ってみても、そんな中途半端なことはしたくない」


そして、都会に出て違う会社で武者修行をすることを、一人決めたのである。もちろん、父はこれに反対した。

居間で母が心配そうに見つめる中、父親は怒鳴りつけるように言った。

「都会に行ったって何も身につきはせん。ただ、人間の汚さと社会の不条理を知って人間に絶望するだけだぞ!」

これには幸晴も辟易した。なぜ、自分の考えがこの親には分からないのか、また、何故自分の人生の大切な道筋を、親とはいえ、他人に決められなければならないのか。

「都会といっても俺は遊びに行くわけじゃない。恵まれた環境で仕事したってなんの力がつくんだよ。俺は泥を被って汚い場所でいっぱい働いて、ちゃんとした感覚を磨いてくるんだ。そのために都会に行くんだ。最初から父さんの会社にいたって役に立てないと思う。俺はそれは嫌なんだ」

「どこにいたって人間、自分を磨くことは出来る。お前は環境を変えることに拘りすぎている。つべこべ言わずにワシの会社で苦労してみろ!」

「嫌だ。俺は都会に行くんだ。もうこれは決まってるんだ」

声もいつしか荒だってしまっていた。そして、ついに折り合いつかず、とうとう、幸晴は飛び出すように大都会に武者修行へと出ていったのである。


幸晴のそういう複雑な感情も、故郷の風は思いの外、優しくほぐす。幸晴はホームに取り付けてある3人がけくらいの大きさのベンチにゆっくりと腰を下ろす。そして両足を開いて、少し前かがみになり、開いた両膝の上に両肘を置き、じっと唇を締めて暫く地面を見つめていた。

時折、前を向くと、アナウンスが流れる。電車がホームに滑り込む。止まる。また人が降りてくる。そして、また乗りこんでいく。電車ががたんと一息吐いて発車する。また下を向く。そんなことを無機質な機械のように繰り返し見て聞いて、すっかり夜になってから、とうとうゆっくりと立ち上がって、ホームから駅の出口の階段へと、とぼとぼ歩いていった。



幸晴の実家は駅から20分程歩いた所にある。まっすぐ伸びた大通りを歩いて、カーブしているところで交差する道に入る。その住宅街に続く道を登ったり降りたりもしながら少し歩く。我々にとっては、何の変哲もない、住宅街の一画でも、坂の多い面倒な道路でも、幸晴にとっては子どもの頃よく遊んだ場所で、青春時代を過ごしたかけがえのない場所である。幸晴は少し歩いては立ち止まり、立ち止まりしながらまた歩いていく。


そうこうしつつ、だんだんと実家に近づくと、幸晴の歩調もぎこちなくなる。綺麗にカットした短い髪の毛を気にするそぶりをしながら、どうやら足が重たいらしい。

こんな小さな町では自分の価値なんてちっぽけで、大した人間にはなれないと思っていたが、案外、大都会で働いてみても人間の価値なんて変わらないらしい。俺はどれだけ成長できたのだろうか。父は俺を認めてくれるのだろうか。

幸晴はそんなことを物思いにふけりながらふと気がつくと実家の前にいることに気がついた。

こじんまりとした家だ。兄弟も居ないので、これくらいの家が丁度いいと、父は古くなったこの家を手放すこともなく、そのままにしていた。

そんなことを幸晴は思い返しながら、ドアの前で突っ立っていると、玄関に誰かがやって来て中から開き戸を滑らせた。

「まあ……あんた何やってんの」

口に手を当て、信じられない顔をする、少し白髪混じりになった髪にパーマをかけ、小太りで、背の低い女性。そう、幸晴の母だ。

「いや……なんとなく……」

「ちょっと痩せたかい。ちゃんと食べてるのかい。そうだ、さっき夕飯の支度したんだから、ともかく入んな。」

最初、幸晴の顔をじっと見て心配そうな顔をしたが、一転、笑顔になって玄関に招き入れようと手招きする母。

幸晴はその仕草を見ると、少し強ばって、身じろぎした。しかし、それでも止めない手招きに足を緩める。

玄関に入ると、奥の襖が開いて、とうとうしかめ面をした、前頭部の禿げ上がった痩せ男が姿を見せる。緩めた足は硬直する。男は幸晴を見るなり、顔をさらに強ばらせ、幸晴の母を見る。

「あら、お父さん」

「ちょっくら出かけてくる」

「そう、気をつけてね」

母と父の間で短く飛んだやり取りは幸晴の頭上を舞った。

目も合わせずに下を向いて、幸晴の父は幸晴の横をすり抜け、夜の薄明かりへと消えていった。

「嬉しそうだったわね」

「そう?……分かんないよ」

母に返すと、とっとと上がんなさいと言って母は台所に向かったようだ。


幸晴は随分久しぶりに、居間で座布団に座りテレビの方をみやる。地方ローカルのバラエティ番組が流れていて、昔と変わらない地方ローカルのタレントが笑いながら中華料理を食べていた。居間には背の低い円卓の周りを座布団が3つ、囲んでいる。しばらくテレビを観ていた幸晴だったが、それにしてもご飯が出てくるのが遅いと感じる。退屈そうにテレビの続きを観ながらも、心身は紐で締め付けられたように緊張していた。そんなふうに自分の状況を把握していると、やっと台所からの開き戸が開いて、料理が運ばれてきた。

「ちょっと待たせちゃったわね」

「いんや、ありがとう」

お盆に乗った、明らかに今こしらえたであろう、一人分の料理を見て、残してはいけないなと思った。

母は幸晴の右隣に座った。

「それにしても、手紙ぐらいよこしなさいよ。いくら忙しいとはいえ、心配してたのよ。お父さんもああしてるけど、心配で時々寝言でおまえの名前を呼んで、うるさいったらありゃしなかったわよ」

「……へえ」

幸晴は意外だった。物珍しそうに母を見る。母はニヤリと、そうよと言って笑った。肉じゃがに手をつける。温かく、舌にあたり、喉を通って、腹の奥底から熱が伝わるような味をしていた。そして、何だか、胸の奥がこそばゆくなる感触に見舞われて、幸晴は下を向いた。

仕事の話やら、近所の話やら、生活のことを事細かに次々と聞いたり話したりする母に、料理に話にてんやわんやしながら応える。

「それにしても、元気そうでよかったわ、食べ終わったら食器持ってきて、お風呂が沸いてるから入んなさい」

そう言って、台所へ向かう母。

一人居間でご飯を頬張る時に1滴の透明な液体が、白飯の中に染み込んでいった。



久々の実家の風呂に入って、さっぱりした青年が玄関に繋がる廊下に出た時、物音を立てないように静かに帰ってきた様子の父と遭遇した。父が顔を上げた瞬間に、幸晴と目が合って、両者視線を下げる。

「と……都会はあまりいい所じゃないだろう」

「いや、そうでもないよ。悪いところばかりじゃない」

「そ……そうか」

それだけ交わして、父はそそくさと寝室に入っていった。


翌日、早朝に目が覚めて、仕方なく散歩に出る。

公園への道を歩くと、故郷の匂いというものを感じた。故郷にも、故郷の匂いがあるのだと、幸晴の心は解されていって、だんだんと都会の緊張は蔭を潜めた。南には山が見える。山の稜線を眩く彩る、早朝の太陽光がまた、古い記憶を呼んだ。

幼い時分、よく父と朝の散歩をした。父はその時いつも笑顔で、色々なことを教えてくれたり、黙って色々聞いてくれたりした。その時間は、確かに好きだったと幸晴は思う。

父に話したことや、父から聞いたことが様々な情景と共に思い返されているようで、幸晴の顔は緩んでいた。


「もう行っちゃうのかい?」

母は寂しそうに言う。うん、と幸晴が返した。

「たまには連絡よこすのよ、体に気をつけなさいよ。いい人も見つけなさいね」

これも、うん。

そして、黙りこくって下を向いた、少し母より下がったところの父は、意を決したように、前に進み出て、幸晴の目を見つめた。

「……しっかりな」

そう言って、後ろに隠していた、紙袋を渡した。

貰っていいのかわからない、といったように幸晴は躊躇したが、顎で促す父を見て、手に取った。

ありがとう、と父に礼をした。


帰路につく電車の中で、紙袋を開け中を見ると、立派な黒の箱に包まれた重たそうな時計と、手紙が入っていた。

恐る恐るの手つきで手紙を開けると、「あの時はすまんかった。達者で。またいつでも帰ってこい 父」と書いてあった。

持て余した感情にどう落とし前をつけるのか、腹の底からのうめき声と泣きじゃくる自分を抑えて、幸晴はただ手紙でもと思うばかりだった。





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