第10話 ポジション
昼休みのチャイムが鳴る。一分もしないうち、経理課の中には誰一人としていなくなる。
同じころ、それぞれ手にグローブやバット、そうでない者はニ~三人分の弁当箱を抱え、会社のすぐ真向かいにあるグランドへと走っている。
三分もしないうち、プレイボールのコールが、乾いた空気に響きわたる。
少し遅れて、一人の女子社員が、お茶とおしぼりを両手に抱えて駆けつけた。今日は彼女が当番なのだ。
真新しいソフトボールが、短い金属音を残して、真っ青な空に吸い込まれていく。
五分もしないうち、大きな歓声と共に最初の得点が入る。ホームを踏んだランナーも打ったバッターも、ベンチに戻ると仲間達からのハイタッチ攻めにあう。
すぐに濡れたおしぼりが手渡され、おにぎりとお茶が振舞われる。もちろん、それはアウトになった者にも同様で、彼らも少し照れくさそうにおにぎりにかぶりつくのである。
もう、何年になるだろうか。休日の日以外は、毎日こんな光景が繰り返されているのだ。
「佐々木さ~ん、頑張ってえ!」
女子社員の黄色い声援がいくつも飛ぶ。
この女子社員に絶大な人気を誇る佐々木さんは、経理課のポープなのだ。ただ、ポープというには、定年を再来年にひかえている彼は、多少歳を食い過ぎている。
ところが、なにしろ、ことソフトボールに関しては彼の右にでる者がいないのだ。昔とった何とかやらで、当然ポジションもピッチャーというわけだ。
経理課では、このみんなが公認する彼のポジション以外は、毎回順番で交代するシステムになっている。
すなわち、今日、運動音痴の高木課長がサードを守っているのも、このことによるものなのだ。
「課長さ~ん。足引っぱっちゃダメよー」
最初ソフトボールに興味がなかった女子社員も、こうして毎日経理課と営業課が試合をするようになるにつれ、お弁当を外で食べるようになった。そして、ついには全員がマネージャー兼応援団のようになってしまったのだ。
まあ、中には営業課の若手社員を目当てに来ている不届き者もいるが、決められた当番日には、みんないやな顔ひとつせず、お茶とおしぼりの用意をこなしている。
『カキーンッ』
打球が高木課長の正面に飛んだ。いや、飛んでしまった。
「いや~、すまんね、佐々木君」
「ドンマイですよ、高木課長」
案の定。営業課には二点の追加点が入ってしまう。
その後、経理課も営業課も一歩も譲らず、一進一退のゲームとなった。
「次の回で、最終回で~す」
時計係の女子社員が審判に伝える。
昼休みの残り十五分を切ったところで、最終回とする約束になっているのだ。
ここまでの得点は六対七、経理課が一点リードされている。残す攻撃はあと一回。
一人ランナーが出れば、あの佐々木さんまで回ってくるのである。
「課長さ~ん、デッドボールでもいいから塁に出てえ~」
勝った負けたからといってどうなるわけでもないのだが、午後も気持ちよく仕事に取りかかるには、やはり負けない方が良いに決っている。
高木課長は期待とヤジ半々の声援を背中に受けて、打席へと入った。
「ボコッ」
デッドボールだ。
「キャー、課長さん、ステキー」
頭をかきながら、照れくさそうに一塁へ走っていく課長に、みんな大きな拍手を贈る。
「佐々木さ~ん、ホームラン打って~」
たしかに、野球同様、ソフトボールも筋書きのあるドラマなのだろう。結局このあと、彼のサヨナラ逆転ホームランが飛び出した。
高木課長も佐々木さんも、薄くなった頭をみんなからたたかれる祝福の輪の中にいた。
汗で下着が濡れていることも、今は気にならない。なんと気持ちが充実した昼休みを過ごすことができたのだろうか・・・
課長を先頭に、みんな会社への足取りも軽い。
「ハイ、佐々木さん。ご苦労様でした」
女子社員が冷たい麦茶を差し出す。
彼は近くの椅子に腰掛けると、一気にその麦茶を飲み干した。
「それにしても、パワー健在ですね。佐々木さん」
男子社員もねぎらいの言葉をかける。
満足の汗が一筋、ひたいを流れていく。彼は
そこへ、シャワーを浴びて、スッキリした顔の高木課長が戻って来た。
「佐々木君、そこは広瀬君の席だろう。
そう言うと、高木課長は窓際の隅にと置かれている、いつもの小さな木の机を指差した。
【語彙】
ポジション:特定の場所、位置。または地位を表すこともある。
バレエ用語では、「位置,方向,姿勢」の意で,踊り手が静止、または停止している状態の身体の基本的な姿態をいう。
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