スクランブルエッグ
NNTG
ゆで卵殺人事件
それは雨音しか聞こえない土砂降りの夜に起きた出来事である。
いつ建て直しになってもおかしくはない築年数を誇る小さなオフィスビル。壁にはひびが入り、レンガ調のタイルは所々剥がれ落ちていた。見ようによってはレトロとも言えるが、五つあるフロアの一つしか埋まっていない。唯一入居者の居る最上階のオフィスには、口元に立派な髭を蓄えた大男が探偵事務所を構えている。
「――それで、現場には血の付いたゆで卵があったという事ですな」
大男――名探偵を自称しているがいつも金欠のしがない探偵――は依頼主の話を聞いては手帳に万年筆を走らせているが、みみずがのたうち回ったような線が並ぶばかりで真面目に話を聞いている様子とは言えそうになかった。
「ええ。確かに僕は怒ってました。でも、何もそれ位で死ぬなんて!」
依頼主の話を要約すると単純な話だった。
探偵の前で後悔している男はディナーで彼女と喧嘩をし、彼女が大切に取って置いたというゆで卵を勝手に食べてしまった。食後のデザートに残して置いた彼女は激高した挙句、男の頭を何度も鞄の角で殴打した。彼女の興奮ぶりに耐えられなくなった男は席を立ち、彼女の家を出て行った。二時間程経過して彼女の家に戻ると、彼女がゆで卵を握りしめたまま事切れていた……。
依頼主の話は荒唐無稽ではあったが、筋道は立っていた。探偵は窓の外に広がる夜景を眺め、大きく息を吐いた。依頼主はご丁寧にも血の付いたゆで卵を持参しており、探偵は受け取ったゆで卵に付いた血をじっくりと眺める。血は既に固まり、探偵が爪で軽く擦ると鉄さびのような匂いが鼻先をつんと刺激する。
「現場を見ていない私が言うのもなんですがね、その人……本当に死んでいましたか? 確かにこのゆで卵には血が付いています。それも比較的最近の血ですな。ですがねえ、このゆで卵……完璧なんですわ。つまり、食べ頃ってやつですな」
「それがどうしたって言うんですか! 僕の彼女はそのゆで卵で――」
探偵は両手を前に突き出すと依頼主を手で制し、まあまあと穏やかに言った。依頼主はばつが悪そうに視線を逸らすと舌打ちをした。
「大体ね、どうして私のところに来たんです? あなたの言う通り、彼女さんの家で彼女が亡くなっていたとしましょう。そして狂気はこのゆで卵。あなたの彼女さんはゆで卵を彼氏――あなたに食べられた腹いせで自殺した、と。それが本当かどうかは知りませんよ。私には分かりませんからね。しかし……何故警察ではなくここへ?」
「そ、それは……死体を見て……気が動転していたから……」
「はははっ。気が動転していたと。いいでしょう。この場は信じましょう。でもねえ、このゆで卵で人は殺せません。固茹でにはなっていますが、食べ頃のゆで卵です。そうですなあ……もし本当に卵を使って人を殺すとしたら、卵を凍らせてから頭部を殴るしか方法は無いんじゃないですかね。どう思います?」
「分かりません……ただ……彼女は……彼女は自殺で……」
依頼主の目が泳ぎ始めると、探偵はゆで卵に付いた血痕を爪で掻いた。するとそこには剥がし損ねた卵の殻が隠れていた。探偵は丁寧に殻を剥がすと、未だ血痕の残る小さなかけらを依頼主の眼前に突きつけて笑った。
「おや、彼女さんはどうやら慌てていたようだ。他は綺麗に卵の殻が取れているというのに、血が付いた部分だけは殻が残っていたようですな。はて、どうして殻に血が付いていたのでしょうか。いや、その前に――彼女は何故ゆで卵で死ぬ必要が?」
探偵が依頼主を睨み付ける。僅か数秒の後、依頼主の瞳からは大粒の涙が落ちた。
「あいつが……あいつがいけないんだ……。俺は半熟の黄身が好きだって……何度も言ってたんだ。それなのにあいつ……いつも完熟にしやがって…………。今日も勝手に俺が買ってきた烏骨鶏の卵を使って……くそっ、頭の固いクソ女め……」
「ここで泣くのは勝手だがね、人を殺した罪は償わなくてはならない。自分で警察に事情を話しなさい。固茹でにも関わらず冷え切った卵……大方彼女が用意したゆで卵を冷凍して凶器にしたんだろう。この殻は証拠隠滅に失敗した証だね?」
依頼主は探偵の言葉に大きく頷くと、自ら携帯電話を操作して警察に連絡をしていた。そんな彼の姿を見ながら探偵はゆで卵をそっと手渡した。
「半熟が好きな気持ちも分かるが、完熟も良いものだよ」
依頼主――彼女を殺した犯人は立ち上がり、探偵事務所を出て行った。久々の依頼主が肩を落として歩く姿はもの悲しく、探偵は煙草に火を点けた。たゆたう煙越しに見える夜景はいつもと変わらず、どこか哀愁が漂っている。
「……適当な事を言っていただけなんだがなあ」
探偵は煙草を咥えたまま眠り、その後事務所は全焼した。
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