Aster tataricus

虎渓理紗

Ⅰ 

 いつからだったか。

「ねぇ、――くん」

 ラジオのノイズってあるだろう。

 ノイズ。雑音。ラジオっていうのは周波数を合わせないときちんと聴き取れないようになっている。ノイズは電波が届きにくい山の中や、トンネルの中で起きる。聴き取りやすい地域に来れば再び聴こえるようになる。

 でも、たまに聴き取りやすい地域に来てもどこかのチャンネルが聴こえなかったりする。AMだけが聴こえない、FMだけが聴こえない、どうしてもノイズが入る……。

 そんな具合に。

 その場合の問題は、ラジオの配線の調子が悪かったとか、ラジオとそのチャンネルの相性が悪いなんてことがあるみたいだ。

「ねぇ」

 だから、僕のラジオは壊れていて、どうやら君の声だけを聴き取らないらしい。



◇◆◇◆◇


 君の存在に僕が初めに気づいたのは、夏休みが始まる前のこと。たまたま講義室が混んでいて、ぎゅうぎゅうに押し込められた席の、空いた場所を探して、探して、ようやく見つけたのが彼女の隣の席だった。

 なんでこんなに押し詰めるんだよ、と思いながら今日が、テスト前の最後の講義であることを知った。僕はあまりこの講義に出ていないし、出席数は守っているけど、出ても真面目に受けてなんかないから、きっと聞き逃していたんだろう。

「これ、隣に回してください」

 彼女から回って来たプリントを一枚引き抜いて隣に回す。講義の終わりに提出するそれに、彼女は綺麗に整えられた文字を書く。

「……」

 盗み見たのは悪かったと思ってる。

 と、いうのも、なんだか彼女に会うのが初めてではなかった気がして――。正確に言えば、ずいぶん昔のことだけど、彼女に似た人に僕は会ったことがあった。

「……杏」

「え?」

「あっ、すみません」

 思わず声に出ていた。

「あの……」

「あっ、いやっ、」

 そんな変な意味じゃなくって。そう弁論しようとして、思わず声が上ずった。側から見たら隣の席の女子の名前を盗み見た変なやつ。そう思われても仕方ないし、弁解の余地もない。

 僕は慌てた顔を見られたくなくって、真っ正面を向いた。教授の話す声が、耳から通り抜けていくのを感じながら、彼女の熱い視線を感じながら。

 ああ、本当にダメだな。

「あのっ」

 彼女がそっと小声でこう言ったから、つい彼女の顔を見返してしまった。顔が予想以上に近くで目が泳いだ。

「珍しいってよく言われるんですよね。杏奈、なんて外国の人みたいって。アンナ、音だけ聞くと外国の名前みたいで、私は好きなんです」

 明るく喋る子だと思った。

「あぁ……、お、俺もそう思って! 珍しいなぁと。ははっ。そうなんだよ!」

 俺、と一人称を変えたのはただの強がり。

「そうなんですよね! もしかして、私の名前、知ってるんですか?」

「いいや。初めて聞いたよ」

「そうですか! では、初めましてですね!」

 よかった。どうやら誤魔化せたらしい。

 彼女も僕も、お互い小声で話していた。聞くところによると、今日はいつも一緒にこの講義を受けている友達が風邪を引いて休みなんだそうだ。だから一人で寂しかった。たまたま話せる相手ができてよかった。何学部なんですか、同じ学年? なんて話をしばらくして、講義が終わった後、僕と彼女は別れた。

 最後に連絡先を交換して、僕は彼女のアイコンを見た。真っ白い猫の写真で、彼女と同じく可愛かった。

「あっ、名前、聞き忘れちゃいました」

「そう言えばそうだね」

「私の名前は――」

 多分、名字も聞いたんだと思う。だって、日本人ならまず名字から自己紹介をするだろう。聞いてないはずがない。なのに、ちっとも記憶がないのは、その後、彼女が嬉しそうにこう言ったからかもしれない。

「颯太くんですね。よろしくお願いします」

 自分の名前を嬉しそうに話す、彼女の顔が目に焼き付いて離れなかった。

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