弓坂と透矢の逃避行 - 第139話
今日は最悪な日だ。まさか、あのくそ野郎に遭遇しちまうなんて。
母さんが生きていたときは碌に会話もしなかったくせに、何が父さんだ。今さら父親面するんじゃねえっ。
衝動的なものは治まったけど、全身を巡る苛つきはなかなか消えない。身体がわなわなとふるえているぜ。
俺たちにひどいことをしたやつと話す言葉なんて、ひとつもない。腐り切った親子の縁なんざ、俺の方から切ってやる!
イライラしながら歩道を大股で歩く。脳裏に浮かぶのはあの野郎の怯えた顔ばかりで、気持ちの整理ができない。
足が疲れたからガードレールに座って少し休もう。
歩行者のいない道にたたずんで考える。あいつはなんで急に姿をあらわしたんだ?
今はたしかベトナムで仕事しているはずだから、日本にいるわけはないんだが。
俺に会うために帰国してきたのか?
何も聞かされていないから、なんであいつがあらわれたのか、意味がさっぱりわからねえ。人の都合も考えないで、いきなり出てくるんじゃねえよ。
――そういえばあいつ、俺に電話したと言ってなかったか?
何度もかかってきた、知らない番号の電話。あれはあいつの電話番号だったのか。
ああっ、すべてがうまくいっていない。頭がむしゃくしゃするっ。両手で頭を掻きむしる。
あいつがなんで帰国してきたのか理由はわからないが、知る気も起きない。こんなにも遠く離れている気持ちで、仲良く対談なんて今さらできるわけねえだろ。
むしろ俺は、あいつの顔を見たらまた発狂しちまうかもしれない。
さっきは上月が抑えてくれたからよかったものの、あのまま殴りかかっていたら事件になっていたかもしれないんだぞ。
そうしたら退学なんていう生易しいレベルでは片付かなくなってしまう。
冷静に考えると、俺はとんでもないことを考えていたんだな。背中に冷たい汗が伝う。
俺を必死に止めてくれた上月には感謝しきれないな。目の色まで変えちまって、俺はバカだ。
だがあの野郎を殴ったことは、謝らないぞ。あんなへらへらしたやつは、世界の果てにでも飛ばされちまえばいいんだ。
* * *
車の交通量の多い国道や商店街をあてもなくぶらつく。
お昼前の時間になって、商店街は買い物客で賑わいを見せてきた。今日は日曜日だから、子どもを連れた家族の姿が目立つな。
俺も小さいころは母さんに連れられて、この商店街に来てたな。おまけつきのお菓子を必死にねだったりしたっけ。
それももう遠い昔の記憶になっちまったんだな。母さんに育ててもらって、身体ばっかり大きくなってしまった。
そんな感傷に浸っていても仕方がないな。鞄を放り投げて戻ってきちまったけど、こんなところをひとりで歩いていても退屈だ。
しかし学校をさぼると啖呵を切ってしまった以上、今さら学校には行けないよな。
上月が鞄を拾ってくれていればいいけど、勝手に切れた俺のことなんて、あいつは気遣ったりしないだろうな。
幸いにも鍵や財布などの貴重品はすべてズボンのポケットに入っている。鞄にあるのは筆記用具とノートくらいだから、鞄が紛失してもそれほど大きなダメージにはならない。
胸を撫で下ろして俺は商店街を出た。駅の方にデパートがあるから、デパートの中で休憩しよう。
デパートの中は冷房が全開でかかっているからかなり涼しい。いや、温度が下がりすぎて少し寒いくらいだ。
全身の汗が急速に冷えて熱を奪うから、デパートに入って数分で身体の温度が下がってしまったぜ。
そんなどうでもいいことを考えながら、デパートの各階のフロアを行ったり来たりする。最上階の本屋で、本棚にずらりと並べられた本の背表紙を眺めたりするけど……暇だな。
もうお昼になるから、昼食はハンバーガーにするか。そう思ってエスカレーターを降りていると、エスカレーターの傍に置かれたベンチに座っている女子高生がいた。
その子は流れるような金色の髪を生やしていた。肌は白人のように白くて、制服の身にスカートから伸びる足はしなやかだった。
弓坂みたいに外国人っぽい女子高生が他にもいるんだな。下りのエスカレーターに乗りながら、その子の横顔を覗き込むと――。
「弓坂?」
ベンチに座っていた女子――弓坂が驚いてふり向いた。
「あっ、ヤガミン」
やっぱり弓坂だ。こんなところで何をしているのだろうか。俺はエスカレーターを降りた。
「お前、こんなところで何してるんだ?」
「あっ、うん。……そのぉ、行くところがなくって」
弓坂は苦笑いしながら答えた。
「ヤガミンこそぉ、どうして、こんなところにいるのぉ?」
当然の反問を弓坂からされてしまった。俺は頬を掻いてとなりに座る。
「ああ、ちょっと、いろいろあってな」
「いろいろぉ……?」
弓坂は純朴な表情で首をかしげていたが、俺の顔を見てびっくりした。
「頬っぺた、腫れてるよっ。どうしたの!?」
「あ、これか? 上月にはたかれちまったんだよ」
「ええっ!? はたかれたって、麻友ちゃんと、喧嘩しちゃったのぉ!?」
弓坂が焦って俺の腕をつかんだ。
「もしかして、あたしのせいで――」
「いや、違う。そうじゃない」
「へぇっ。……違うの?」
「ああ。実はさっき、親父に会ったんだよ」
「おや……お父さんに?」
弓坂が手を離してきょとんとする。
「ヤガミンのお父さんって、外国でお仕事してる人だよね。そのお父さんに、会ったのぉ?」
「ああ。よくわかんねえけど、なんか帰国してたみたいでさ。それで駅でばったり会って、あの野郎の顔を見たら、頭が真っ白になっちまってさ。あいつを殴っちまった」
こうして言い直すと、とんでもない行動をしていたんだと改めて思い知らされる。
「俺はパニックになって、さらに殴りかかろうとしてたところを上月が止めてくれて、それで……ビンタされちまった。情けないよな」
自分のあまりの愚かさに笑うしかなかった。
弓坂は目を背けずに、俺の話をじっと聞いてくれる。そんな優しい姿がすごくありがたかった。
「あいつにビンタされたら、全部がどうでもよくなっちまって、鞄を放り投げてここまで来ちまった。もう学校には行けないよな」
「そうだったんだぁ」
「上月が鞄を拾ってくれなきゃ、やばいよな。鞄を買い直さないといけなくなっちまう」
「それはまずいよぅ。今からでも、取りに戻れば、間に合うよっ」
弓坂が生真面目な様子で俺の腕を引っ張ってくれる。彼女の純粋な姿が少しおかしかった。
「鞄には筆記用具しか入ってないから、心配しなくても平気だ。鍵や財布は全部ポケットに入ってるし」
「でもぅ」
「もういいんだ。全部がかったるくなっちまったから、鞄も学校も、もうどうでもいいんだよ」
「そっかぁ」
弓坂がしゅんと肩を落とした。
「ヤガミンも、大変だったんだ。お父さんに会って、嫌な思いして。それなのにぃ、昨日は、あたしのために、優しくしてくれたんだよね」
弓坂の消え入りそうな声が胸を打つ。でも今の俺には、弓坂を元気付ける気力がない。
俺は手をついて天井を見上げた。
「俺もお前も、散々だったよな。はは。……俺たちの恋愛同盟は、不幸のどん底だ」
「不幸のどん底ぉ?」
「ああ。お前のためにがんばりたかったけど、俺ももうダメだ。こんな頼りないやつが同盟の相手で、悪かったな。期待ばっかりさせて、ほんと情けねえやつだぜ」
俺の脳は完全にダークモードへ突入してしまった。思いつく言葉は後ろ向きなものしかない。弓坂が嫌がっているのに、最低だぜ。
でも虚無感や失望で支配された今の心では、前向きになんてとてもなれない。これで弓坂に嫌われたら、自業自得だな。
虚ろな目で天井を見ていると、視界に突然弓坂の姿が映った。驚いて身体を起こすと、弓坂が立ち上がっていた。
「じゃあ、ヤガミンっ。幸せになること、しよっか」
「幸せになること?」
「うんっ」
弓坂が両手をにぎりしめて小さくガッツポーズする。そして俺の手を引っ張って、俺の身体を強引に起こした。
「お、おいっ! ちょっと、どこに行くんだ!?」
「うふふっ。いいからいいからぁ」
弓坂が急に元気になったけど、どこに行くつもりなんだ?
俺は弓坂にされるがままに引っ張られていってしまった。
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