山野の知り合い - 第109話

 雪村……? それは一体だれだ? 初めて聞く苗字だ。


 うちのクラスに雪村なんていうやつはいないし、俺の知り合いにも当然いない。


 山野が白いペンキで塗られた柵に手を置く。左足をあげて柵を軽々と乗り越える。


「お、おいっ。山野っ」


 山野が画家の女の人を目がけて土手を降りていく。一体何があったんだよ!?


 ただならない異変を感じたので俺も慌ててついていく。土手の坂は意外と急勾配だから、階段をつかわないと転がり落ちてしまいそうだ。


 だが山野は急勾配をもろともせずに土手を降りていく。坂を下って画家の女の人がいる場所にあっさり到着していた。


 あの女の人に用があるみたいだけど、どうしたんだよ。普段の冷静沈着な山野とは明らかに違うぞ。


「待て。山野っ、一体どうしたんだよ。急に走っていきやがって」


 下り坂をなんとか降り切って山野の元へ到着する。しかし山野に声をかけても何も応答はなかった。


 画家の女の人は右手の絵筆を止めてこちらを見ていた。立ち上がって、「ひゃっ」と変な声を出している。俺たちの襲来にかなり驚いているみたいだ。


 キャップの中から見える髪は黒髪で、毛先は肩にかからない程度の長さだ。あれはボブスタイルというやつだったかな。


 顎のラインで毛先がくるりと内巻きになっているから、たぶんそうだろう。


 キャップのつばに隠れた顔は――こんなことはあまり言いたくはないが、男にもてそうな感じではないなと俺は思った。


 何しろ目もとに科学者がつけていそうな大きいメガネをかけているのだ。昔の漫画やアニメで見かける、レンズが丸くてさらに分厚いメガネだ。


 山野がかけているようなおしゃれメガネとは全然違う。あれは視力が悪いからかけているだけの機能的なものだ。


「あああっ、あのっ」


 女の人はかなり怖がっているのか、過剰なまでにびくびくしている。


 鼻のまわりにはそばかすが多いな。鼻は小さく、唇は上も下も薄い。顔の形は少し面長なのか、頬に余計な肉がなく、顎がやや尖っていた。


 もてなそうだけど、なかなか特徴的な顔立ちの人だな。――そんなことより、この人、思っていたよりも全然若いぞ。


 外でキャンバスを立てて本格的に絵を描いているのだから、俺はてっきり年上の人だと思っていた。けど顔の印象から察すると、俺や山野と同い年くらいだ。


「ああのっ! わわわたしに、な、なにかっ、ご用――」


 画家の女の人は顔を真っ赤にして、俺と山野を見てわなわなと肩をふるわせていた。しかし山野の顔を何秒か見上げて、「あっ」と肩のふるえを止めた。


「柊ニ《しゅうじ》、くん?」


 彼女の口から山野の名前が出た。するりと。


 柊ニって、なんでこいつの名前を知っているんだ? まさか、山野の知り合いなのか?


 俺の前に立つ山野が右手をあげる。メガネの縁をつまんでメガネをはずした。


「やはり雪村だったのか。久しぶりだな」

「ああっ! そう言うあなたは、やっぱり柊ニくんだっ!」


 彼女が絵筆をパレットに置いて立ち上がった。


 山野が雪村と呼んだ彼女がくすくすと笑いながら山野に近づく。身長は上月と同じくらいだろうか。女子の平均身長より低めだ。


 いや、女子の平均身長との比較なんて別にどうでもいい。この雪村という女子は一体何者なんだ?


「久しぶりに会ったのに、お前は変わらないな」

「もう一年ぶりだったし、しかもメガネまでかけてたから全然気づかなかったよっ!」

「おいおい、まだ一年も経っていないだろ。中学のときに会ってたんだから」

「あっ、そうだよね。それよりも柊ニくん。いつの間にメガネかけたの? あとその制服って、そこの高校の制服だよね!? 柊ニくんってそこの高校に通ってたんだ!? あと身長も――」


 どうでもいいけど、かなり早口だな。雪村さんは。おっとりぽわぽわの遅口が男子に受けている弓坂とは正反対だ。


 その後も雪村さんの山野への質問攻めが矢継ぎ早につづいた。これがマシンガントークというやつか。


 ふたりの話から推察すると、雪村さんはどうやら同中おなちゅうの知り合いのようだ。久しぶりの再会だったから、いろいろな想いがあふれ出てきたんだろうな。


 山野の恋人ではないと思うが、そのわりにはやたら親しいぞ。


 一気にしゃべりたおして疲れたのか、雪村さんが会話を止めたときに俺の存在に気づいた。「あっ」と赤ら顔を手で隠した。


「しゅしゅ、柊ニ、くん。この人は……」


 俺を見たらまたどもり出したぞ。山野と話してるときははきはきしてたのに。かなり人見知りするタイプなのかな。


 山野がメガネをかけ直して俺に振り返った。


「ああ、こいつは俺のクラスメイトの八神だ」

「八神っス。どうぞよろしく」


 とりあえず頭を下げると、雪村さんの口から「あああっ」という妙な悲鳴が漏れた。


「そそそ、そんなっ、頭なんて、下げないでくださいっ! わわわたしは、そんな――」

「雪村。緊張しすぎだぞ」


 山野が見かねて雪村さんを制止する。軽く挨拶しただけだが、そんな緊張するようなことだったか?


 雪村さんはわなわなと身体をふるわせて、「でで、でもっ」と俺を怖がっている。何もしていないのに怖がられるとなんだか傷つくな。


 そんなことより、


「山野。この、雪村さんは、お前の知り合いなのか? かなり親しいみたいだが」


 俺が尋ねると、山野は無表情のまま口を噤む。そのまま三秒ほど間が空いた。


「ああ。そうだ。中学のときの友達だ」


 なんなんだ、さっきの意味深の間は。ただならない関係性を感じさせる間が空いていたぞ。


「同中のクラスメイトだった雪村だ」

「雪村、旺花おうか、です」


 雪村さんがしゅんと肩を落として挨拶する。さっきまでの騒がしさがうそのようだ。


 なんだかいたたまれなくなったので、俺は後ろのキャンバスに目を向けた。描かれていたのは一枚の水彩画だった。


 ここから見える景色を描いたものだろう。向こうの橋や対岸の景色が水彩画らしい優しいタッチで描かれている。


 向こうのビルの人工的な灰色や、暑さの残る秋空。土手の草花や瀬上川が柔らかく描かれていて、かつ色鮮やかに表現されていているのだ。


 さらに目を凝らすと、橋の微妙な凹凸や川のまわりの堤防まで鉛筆で細かく描き込まれている。空に浮かぶ雲だって、白だか水色だか判別がつかない色で柔らかく描かれているぞ。


 俺は風景画のことなんて何も知らないし、美術的なセンスだって一ミリもないけど、美術の授業で提出したら間違いなくクラスで一位になれるほどの作品だ。いや、市や県の展示会に出したって余裕で入賞できるんじゃないか?


「すごいな、その絵。あんたが描いたのか?」


 俺がキャンバスを指さすと、雪村さんは息を吹き返したように身体をふるえ出した。


「ああいや、こここれはっ、そんな大したものじゃ、なないしっ、ああ、あの――」


 いやだから、絵を褒めただけでそんなびくびくするなって。


 雪村さんは自分の描いた絵を見られるのが恥ずかしいのか、キャンバスの前に立って絵を隠そうとする。見られたくないんだったら、外で絵なんて描くなよ。


「わわわたしのっ、ことは、気にしないで、ください。そ、そのっ、ああっ」

「いや雪村。緊張しすぎだから」

「う、うんっ」


 山野が呆れて声をかけると、雪村さんがまた消沈してしまった。


「人が苦手なのも相変わらずだな。まあ、雪村らしいけどな」


 雪村さんの挙動不審な態度は、どうやらデフォルトの動きのようだ。俺を特別に怖がっているわけではないらしい。


 山野はいつもの無表情面で雪村さんを眺めているけど、俺はこの人苦手だな。キャンバスの前で落ち込む雪村さんを見ながら思った。

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