雨の日の過酷 - 第33話
『あの、すみませんが、どちら様ですか?』
インターフォンから聞こえてくるのは、三十代と思わしき女性の声だ。おそらく妹原の母さんだろう。
その不審者に困惑するような声色から、あからさまに迷惑しているのが伝わってくる。
「あ、あのっ、申し遅れました。お……わたしは、妹原、さんのクラスメイトで、その……」
まずい。緊張しすぎて呂律が全然まわらない。
妹原に迷惑をかけてしまったことを謝らなければいけないのに、最初の挨拶でつまずいてどうするんだ。
「俺は、あの八神と言いまして、妹原さんのことで謝りに――」
『帰ってください』
ガチャっと音がして、通話が不意に途切れる。
……えっ。なんだ、これ?
突然の予期していないできごとに頭が真っ白になりそうになるが、落ち着いて状況を整理しよう。
まさかと思うが、門前払いにされたのか? 痛烈に罵倒されるくらいまでは想像していたけど、それ以前に話すらさせてもらえないなんて、さすがに予想できなかった。
だが、この程度であきらめるわけにはいかない。ここで粘りを見せて、俺の本気を妹原の親に伝えるんだ。
気を取り直して、インターフォンのボタンをもう一度押してみる。しかし呼び出しのチャイムが家の中から聞こえてくるものの、妹原の母さんからの応答はない。
そんな、まさかここまで嫌われていたなんて、思いもしなかった。
松山から伝えられたときはまだ現実味がなかったから、直接謝りにいけばなんとかなるんじゃないかと、
しかし現実は、俺が予想していたどの結果よりも厳しかった。
俺は、どうすればいいんだ。
あきらめずにインターフォンのボタンを押すべきなのか。でももう一度押したところで妹原の親が応じてくれないのは目に見えているし、俺の印象が余計に悪くなるだけだ。
なら、このままおめおめと引き下がればいいのか。全くの無駄足だったことを後悔しながら、情けない面を引っ下げて。
俺自身のことなんて別にどうでもいいが、それで妹原は無事に学校に来れるようになるのだろうか。
妹原の親父さんはまだ会ったことがないからわからないが、母さんはきっとかなり剛情な人だ。時間が経ってどうでもよくなったから、娘をまた学校に通わせます――なんて、軽々と言ってくれる人ではないと思う。
薄暗い空から一滴の雫が右の頬に落ちる。それが二滴、三滴と増えていき、次第に小雨となってぱらぱらと空から降ってくる。
もう、絶望的だ。前に進むことも、後ろに下がることもできない。とんでもない過ちを俺は犯してしまったんだ。
まわりの景色が暗闇に閉ざされるような気がして、ふらっと立ちくらみが襲う。少しずつ強くなってくる雨に打たれながら、俺は愕然と膝をつくしかなかった。
* * *
それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。まわりはすっかり暗くなっていた。
時折傘を差した人が後ろを通りなから、不審そうに俺を見てくる。
他人の家に見知らぬ男が傘も差さずに立ち尽くしているんだから、不審に思うのも無理はない。
俺だってこんな冷たい場所に居続けたくなんかない。でもどうすればいいかわからないから、重い足を動かすことができないんだ。
一言だけでいいから、妹原に謝りたい。俺の恋路はもう、どうなってもいいから。
それからさらに数時間が経過して、となりの家からカレーの匂いがするなと思ったときだった。ドアノブからガチャっと不意に音がした。
ドアを開けて出てきたのは、四十歳くらいの、身体の細い男性だった。薄いレンズのメガネをかけて、身体には深緑色のトレーナーを着ている。
一重まぶたの目も細く、眉間には険しい表情がにじみ出ている。見るからに厳格で手ごわそうな人だった。
「きみは一体いつまで居るつもりなんだ。いい加減に帰ってくれないか?」
妹原の父親だろうと思われる人の無情な言葉が胸に突き刺さる。
「そこにずっと居られると、わたしたちが酷い人間だと思われてしまうから、はっきり言って迷惑なんだ。きみだって高校生なのだから、それくらいの常識はわかるだろう?」
俺だって子供ではないのだから、そんなことは言われなくてもわかっている。
「学校できみが何を言われたのか知らないが、きみたちのせいで娘の練習が予定から大幅に遅れているんだ。だから、もう帰ってくれ」
この人は、あくまで自分たちの言い分だけで俺を納得させようとしているらしい。
あんたの言い分はよくわかっているつもりだ。スーパー女子高生なんて持て囃される娘を持って鼻が高いのだろうし、娘に素晴らしいフルート奏者になってもらいたいから、きっと毎日一生懸命になって娘を練習させているのだろう。
けれど、突然とはいえ学校から直接出向いた人間に向かって、自分の言いたいことしか言わず、こちらの意見には一切耳を傾けないのが、大人の正しい姿といえるのか?
俺の親父もそうだが、親なんて勝手な生き物だよな。自分の予定通りに娘が動かなかったら学校を休ませたり、娘のクラスメイトを子供となめてかかっている。
今度の件は、全面的に俺に非があると思っている。……けどな。こんな一方的なやり方で、失礼極まる態度で帰れと言われたら、黙って引き下がる気なんて起きるわけがないだろう。
髪からずぶ濡れになっている頭を上げて、俺は妹原の父親を正視する。こんな、朝の電車に同乗しているサラリーマンみたいな野郎に何を怖れる必要がある。――そう思うと、不安も緊張も全く感じなかった。
「わかりました。では、今日はこれで帰ります。ですが、ひとつだけ、どうしても確認しておきたいことがあるんです」
「確認……?」
「今は娘さんに学校を休ませて、音楽のレッスンをずっと受けさせているみたいですが、それは娘さんの意思なんですか?」
すると妹原の父親は、嫌いな食べ物に出くわした小学生のような顔をした。
「それはきみには関係のないことだ。さあ、話は終わったから、もう帰りたまえ」
話なんてまだひとつも終わってねえだろ! お前こそいい加減に耳をかたむけやがれっ。
閉めようとするドアを俺が抑えると、妹原の親父は表情を一変させて喚いた。
「こ、こら! きみ、離しなさい!」
「俺はっ、いや俺たちは、妹原の夢を邪魔する気なんてない! けど、もし妹原が、本当は学校に行きたがってるんだとしたら、学校にも行かせてやってくださいよ! どうしてそれだけのことも言わせてくれないんですかっ!?」
一昨日の月曜日から鬱積していた何かが激流のように流れ出てくる。一度流れ出すと、もう止めることなんてできない。
「俺のことは、別にね、いくら嫌ってもらっても構わないんですよっ。……でも、クラスメイトも、先生も! みんな妹原のことが心配なんだ。そういう気持ちを全部無視して叶えないといけない夢ってなんなんだよ! あんたはっ、娘に、観客の気持ちを無視するオーケストラ奏者になってもらいたいのかよ!」
自分でもなんでこんなに怒り狂っているのか、わからない。言葉も滝のように喉から滔々と流れ出てくるのが不思議でならなかった。
「きみは、一体なんなんだ。なぜきみはそこまでして娘にこだわるんだ。きみは娘とはなんの関係もない、ただのクラスメイトだろう……?」
妹原の親父は、俺の気持ちが心の底から理解できていないらしい。言葉の通じない外人を見るような目をしているが、同じクラスの男子が女子にこだわる理由なんて、他にあるかよ。
「俺は、せ……娘さんのことが、好きでした」
感情にまかせて言い散らしてしまったんだから、俺も正直に白状するしかない。
「コンビニで初めて見て、一目惚れでした。だから、仲良くなりたかった」
そうだ。俺は妹原を邪魔する気なんてさらさらない。俺はただ、妹原と仲良くなって、ふたりで話がしたいだけだったんだ。
でもこんな暴走しきった姿を見て、上月や山野はなんて思うのだろうか。今まで少しずつ積み上げて仲を築いてきたのに、妹原の親から本人に伝えられてしまったらどうするんだ。
「それだけです。悪いで――」
恥ずかしいのと、上月や山野に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったから、最後は早口で捲し立てようと思った。その勢いで顔を上げたら、
「えっ……」
妹原だった。私服姿の彼女が、親父さんの少し後ろで両手を口にあてて、目を丸くしていたんだ。
しまった……。
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