番外21-8︰エンド・オブ・ヘゲちゃんの憂鬱
戻って来なければよかった。あのままあそこで朽ち果てることもなく、ただじっとすべては幻聴だと思ってじっとしていればよかった。
そう思うのは何度めだろうか。もうなにも考える気になれなかった。何を考えれば何になるというのか。
ヘゲはアガネアをぼんやり見ていることが多かった。意識していたわけではないが、頭を空にしているといつの間にかアガネアを目が追っているのだ。
話しかければ受け答えはするし、それなりにちゃんとした内容ではあるのだが、ヘゲ自身はどこかうわの空だった。ほぼほぼ自動応答である。
そんなヘゲの視界の中で、アガネアは以前にも増してサロエと仲良さそうにしていた。そんな二人を見ているとヘゲはスッキリしない気持ちがつのるばかりだったが、もうその理由を突き詰める気にはなれなかった。それに、好きにしろと言った手前、どうにかできるものでもない。
──やってみようかしら。
そう思ったのは、珍しくアガネアがタニアとダンタリオンを気にしたときのことだ。
今のところタニアから一度、動画メッセージを受け取っただけで目立った動きはない。
おそらく一発勝負を狙ってるのだろうが、確実さを優先させているのか、こちらの防備が万全で手が出せないのか、とにかく拍子抜けするほど何もしてこない。
それならいっそ、相手が何かを仕掛けやすい状況にアガネアを置いてみたらどうだろうか。
用心深い二人のことだ。そう簡単には乗ってこないだろう。しかし現状、向こうが動かないとヘゲたちも身動きの取りようがない。
損はない気がした。上手くすればタニアなりダンタリオンなりを捕捉する糸口がつかめるかもしれない。もし失敗してアガネアが連れ去られれば、ヘゲはこんな日々に別れを告げられる。
しかも今なら、連れ去られても自分の失態にはならない。そういう決断を下したと言えばいい。
アガネアがさらわれる場面を想像するとヘゲの胸は激しく痛んだが、もはやヘゲは自分のこの、不可解な反応と向き合う気をなくしていた。
こうしてヘゲは自分でも驚くほど低クオリティな理屈を持ち出して、アガネアを餌にする作戦を実行した。
結果は失敗。対タニア、対ダンタリオン。どちらもなんの反応もなし。
おまけに、ヘゲにとってはかなり後悔させられる展開になった。
まずアガネアが実行を渋り口論に。怒って馬車を飛び出した。その時点でヘゲはかなりの精神的ダメージを受けた。
さらにアガネアが襲われはしないかと気が気ではなく、裏通りでチンピラ二人に絡まれたときなどは、二人がアガネアの前に立ち塞がった時点でもう、メフメトに早く助けに行くよう指示を出してしまった。
次にダンタリオンとアガネアを二人きりにしてみた。このときは状況作りとして途中でベルゼブブに会いに行ったのだが、アガネアのことが気になりすぎて監視に集中してしまい、ベルゼブブと何を話したのかまったく憶えていなかった。
──やっぱりこの路線はダメね。
ヘゲはそう結論づけた。そもそもがかなり用心深い相手。こんな方法でどうこうできるわけがなかったのだ。もし次やるならよほど周到に用意しないと、一度目以上に警戒されるだけだろう。
その後、アシェトから届いた装置でアガネアの魂に記録されていた“記憶”を観たり、ついサロエにトゲのある言い方をして嫌な気分になったりしながら、ヘゲは残された滞在期間を過ごしていった。
魂から読み取られた按城天恵の人生は、なかなか面白かった。
なにもかもに恵まれた人間がその絶頂で奈落に落ち、際限なく落ち続け、終盤でようやく小さな救いを得たかと思えばそれさえも偽物で、最後は恐怖と絶望のなか惨めに殺される。
それはかなり悪魔ウケのするストーリーだった。
本人の前では言わなかったが、ベルトラでさえ後から“あれ、ウチで上映したら大ヒットしそうですよね”と言っていたくらいだ。
最初は義務感から観ていたヘゲだったが、途中からは時間が経つのも忘れて見入ってしまった。
外見も知力も運動能力も環境もまるで違うアガネアと天恵だったが、ヘゲはそれでも二人を似ていると思った。
若いころの天恵の言動や性格はいかにもアガネアらしかったし、なにより表情や仕草がヘゲの見てきたアガネアにそっくりだった。
表情も仕草も本人は普通、あまり具体的に自覚しない部分だ。しかしそれは歳を重ねても外見ほどには変わらない。
だからヘゲは、中年を迎えすっかり変わり果てた天恵の中にさえ、アガネアを見て取ることができた。
そしてとうとうルシファーの晩餐会。このところ、ヘゲは自分が平穏な気分で過ごせていることを不思議に感じていた。
それはたんにヘゲが一人でアガネアに振り回され、苦しみ、悩み、傷つき、心がズタボロになって麻痺していたからでしかないが、ヘゲはそのことに気づいていない。ただ久々に訪れた心の平穏を心地よく味わいながら、機械的に警護を続けていた。
ルシファー城、豪奢な更衣室、城主からの目をみはるような贈り物。それらを身に着け、サロエにメイクされたアガネア。
「ヘゲちゃん。ちょっとこれ、どう、かな?」
少し恥ずかしそうにしながら目の前に立ったアガネアを見て、ヘゲの平穏はあっさり砕かれた。自分でも戸惑い、動くことも呼吸さえも忘れるくらい強烈な感情に撃ち抜かれたのだ。
美しく着飾っていたからではない。わずかにうつむき、上目遣いで、口元にはにかむような笑みを浮かべ、微かに不安と期待の空気をまとった、そのたたずまい。
それがこれまでアガネアと過ごしてきたすべての時間と一緒になって、ヘゲを惹きつけたのだ。
そんな自分に驚きながら、ヘゲは何かをつかめそうな気がした。これまでずっと自分の中にあり、それでいて見えていなかった何か。
強烈にヘゲを襲った感情。これまでずっとヘゲの中にあったとしても、今この瞬間ではじめて明確な形となったという意味でそれは──まさに一目惚れだった。
悪魔にとってはなじみのない感覚。ヘゲにはそれがなんなのか解らない。ただ自分でも何を言いたいのか解らないまま、何かを言おうと口を開いた。次の瞬間。
ヘゲの目の前からアガネアの姿が消えた。
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