番外21-7︰エンド・オブ・ヘゲちゃんの憂鬱

 “幻聴”はときどきヘゲに語りかけた。けれどヘゲは耳を傾けることもなく、なにも考えず、ただ存在していた。

 どれくらいの時間が経ったのか。半日かもしれないし、数十年かもしれない。空気の揺らぎさえない狭い空間でじっとしていると、時間の感覚がなくなる。もしかしたら自分は、遠い過去の昔話になっているのかもしれない。


 しばらくぶりに幻聴が聴こえた。


「おい。アガネアを見てみろ。面白いことになってんぞ」


 アガネア。面白いこと。いたずらっぽい声の調子。それらに釣られ、ヘゲの意識は久々に浮上した。


 どうせ嘘だ。ヘゲはぼんやり思う。なにせ幻聴なのだから、と。

 そもそもアガネアはまだ生きているのか。あれから数百年が経っていてとうに死んでいたとしてもおかしくない気がする。


 それでも何気なく、ヘゲはミニチュア百頭宮を通してアガネアの様子を探ろうとした。


 いた。アガネアはなぜかサロエに抱きしめられている。その豊かな胸に半ば横顔を埋めるようにして。

 音声は聴こえないが、至近から負のオーラを浴びてるにも関わらずアガネアの顔は嬉しそうだった。


──なによ、これ。


 自分が気の狂うほど苦悩し、恥辱と引き換えにすべてを投げ出し、アシェトに見捨てられ、虚ろな存在に成り果てたというのに。


 冷たい怒りが足先から水位を上げ、ヘゲを満たす。ヘゲはほとんど無意識のうちに、バビロニアにあるアシェト別邸へ転移していた。


 転移した先は廊下。目の前のドアの向こうからアガネアとサロエの楽しげな声が聴こえる。


「ずいぶんと楽しそうね」


  いきなり中へ踏み込むと、アガネアとサロエが抱き合ったまま固まっていた。その光景に、ヘゲは怒りで我を忘れそうになる。


「ひ、久しぶり。もう、その、いいの?」


 アガエアの笑顔がひきつっている。


「ええ、すっかり。ここに来るまでは」


 ヘゲとしてはなるべく冷静に答えたつもりだったが、そのせいで余計に抑え込まれた怒りが周りからはよく見えた。

 一人、また一人と部屋を出て行く。だが、ヘゲはそのことにほとんど注意を払わない。そしてとうとう残っているのはヘゲとアガネア、サロエの三人だけになった。


「それで、これはどういうこと?」


 いちおう殺す前に言い訳くらいは聞いてやろう。ヘゲは自分の冷静さと寛大さに感心しながら尋ねた。


「え? あ! これ? これはその、どうもこうもなくて」


 そこでようやくサロエと離れたアガネアが事情を説明する。使い魔学会でのこと、呪いから解放されたサロエが廃人のようになったこと。それをどうやって回復させたか。


 話を聞いているうちにヘゲは落ち着いていった。どうやら自分を忘れてイチャついていたわけではなかったらしい。殺すのは勘弁してやろう。そう思ったときだった。


「メフメトにはすごい助けてもらったけどさ。やっぱヘゲちゃんが居てくれてたらあの使い魔だって秒で倒せてたよ。秒で」


 ヘゲは一瞬でカッとなる。


「それは、私が帰ってたことへの当てつけかしら?」


──やっぱりアガネアは死罪ね。私を気遣うならまだしも、そんな皮肉を言うなんて。


 ヘゲは怒りに染まった頭で思う。


「ワタシとしては、ヘゲちゃん帰ってきてくれてよかったって気持ちなんだけど。ヘゲちゃんいないと、なんか張り合いないし。あとその……ちょっと寂しかったかな。うん。戻ってこなかったらどうしよう、とも思ったし」


 目の前で少し言いにくそうに喋るアガネアを見ていると、怒りは沸き起こったときと同じくらい、急激に消えた。


──どうしたのかしら。なんで私こんな不安定に……。


 きっと短いあいだに精神を揺さぶられすぎたのだろう。ヘゲはゆっくり深呼吸すると、落ち着こうとした。落ち着いて、理論的に、この件で誰が悪かったのかを考えようとした。

 それは少しも冷静な行動ではなかったが、まだ少し、いやだいぶ正気度の下がっているヘゲはそのことに気づかない。


 ヘゲは少し考え、結論を出した。悪いのはサロエだと。ただ、サロエに厳しくあたるのは気が引けた。できるだけ穏やかな気持で、優しく指摘してやるべきだろう。なにげなく、話の流れのついでといった感じで。


「ところでサロエ」

「ハイッ! 私です!」


 サロエの緊張を和らげてやろうと、ヘゲは笑顔になったつもりだった。だがそれが笑顔だと気づいたのはアガネアだけだった。


「嬉しかったとしてもあなたのその態度、従者としては少し馴れ馴れしすぎるんじゃないかしら?」

「はい。すみません。でも、ガネ様も前に、あんまりよそよそしいのは居心地悪いって」

「それにしても、主人にじゃれつくのは感心しないわ」

「ええっと、でも……」


 ヘゲはなぜサロエが言い返してくるのか、理解できなかった。ヘゲとしては主従関係にふさわしい振る舞いを優しく指摘しただけのつもりだったのだ。


「主人と従者の関係は主従ごとにいろいろです。決まった正解なんてありません。それに、ガネ様は私のことを二度も救ってくれたんです! つまり私たちはそう。契約上の主従を超えて、ただの悪魔同士では不可能な強い絆と信頼で結ばれた仲なんです!」

「強い絆と、信頼……!?」


 ヘゲはその言葉に動揺した。二度救われた。それはそうだろう。だからサロエがアガネアを慕うのは理解できる。けれど、強い絆と信頼で結ばれるというのは双方向のはずだ。

 どうしてそんなことになるのか。どうして自分とアガネアはそうならず、お互いの距離が空いてしまったのか。


 そのあとサロエの言ったことをヘゲはろくに聞いていなかった。

 アガネアに確かめてみよう。ヘゲはそう思った。ひょっとしたら絆うんぬんというのはサロエが勝手に言っているだけかもしれない。


「アガネアはサロエの振る舞いに問題があるとは思わないの?」


 言外に、サロエの主張について真偽を確かめる意図をこめたつもりだった。

 つまりは自分とサロエ、どちらの肩を持つのかという問いかけだ。

 もはや、なぜ自分がそんなことを気にするのか。なぜアガネアにサロエより自分を選んでほしいと思っているのか、そんなことを疑問に思うだけの冷静さがヘゲには残っていなかった。


「へ? いや、特には……」


 ヒザから力が抜けるような気がした。ヘゲからすればその返事は自分よりサロエの味方をするという意味で──。


「なら、好きにして。もっと変わった主従だっているんだし」


──アガネアから目を離したのは間違いだったわね。泥棒ネコに奪われてしまったじゃないの。


 ヘゲは錯乱気味の頭で自分に語りかけた。それから、話を終わらせにかかる。どれだけ錯乱してようが、業務連絡は口から出てくる。


「とにかく、急にいなくなったことは悪かったわ。これからは副支配人として、護衛としての職務に専念するから、安心してちょうだい」

「うん。えっと、なんて言ったらいいんだろ。お願いします? ありがとう?」


 ヘゲは何かを言いそうになって言葉にならず、諦めた。



 話が一区切りついて、ふと意識が別のところへ向く。これまで幻聴だとばかり思っていた念話が本物だったと気づいたのだ。

 ザアッと血の気が引く。さっきから感情の振れ幅が大きすぎて吐きそうだ。


『アシェト様、申し訳ありません!』

『よお。ヘゲか。どうだった? 面白かったろ』


 面白かったのはアシェトだけだろうと思ったが、それどころではない。


『せっかく念話で語りかけてくださったのに私は……』

『ああ、いや、いい。気にすんなって。戻れてよかったじゃねぇか。それより言ったろ? おまえがこの状況を乗り越えるとこ、見せてくれよ』

『ですが私のしたことは許されるようなものではありません』

『そうか? おまえの気が済まねえってんなら、そうだな……。そうだ。もう一個、課題を出してやろう』


 いかにも楽しくてたまらないという声に、ヘゲは厭な予感しかしなかった。


『私の呼びかけにも答えなかったおまえが、サロエとイチャつくアガネア見ただけで泡食って飛び出してったのはどういうことだ? 理論的な理由じゃなくていい。本当の理由を聞かせてくれ。そのうちな』


 アシェトとの念話が切れた。もしその場にひとりきりだったら、ヘゲはそのまま崩れ落ちていただろう。

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