平成モラトリアム人間

柴田ちろ

第1話 劣等感


11月24日(火)


大阪から神前(しんぜん)あずさが来た。

夜中に向こうを出て車でやってきたらしい。

白いバンが駅に着いたのは、まだ太陽も昇りきらない明け方のことだった。

父親と兄の賢二が、東京で用事があって出てくるついでに乗せてもらったようで、明日の同時刻には帰宅するという。


会うのは初めての事であった。照れくさいようなぎこちないようなそんな緊張感を胸に自転車を勢いよく走らせ、もうすっかり冷たくなった風に鼻の先をつんと赤くさせながら、昇りゆく太陽を背に駅へと向かった。

バスターミナルのベンチに座るあずさの姿が見えると、それまでの緊張感が嘘だったかのように解けていった。

彼女がこちらの姿に気付くと、すくっと立ち上がり微笑みながら手を振りこちらへ駆け寄ってきた。彼女はとてもやわらかい雰囲気をしていた。電話で話していた時と同じ、凛として強かそうでいてとても優しい印象だった________



ふと5年も前の日記を読み返し、青春の美しい記憶を懐かしく思い返していた。




「こはるー?今日は笑太郎の日じゃなかったの?

 毎回毎回、いい加減にしなさいよ!」



母の怒鳴り声にはっとして時計を見ると、時刻は18時を回っていた。また遅刻である。そもそも、今日バイトが入っていた事すら頭からすっぽり抜けていた。この歳になって未だに母親に叱られるなんて、何て情けないんだろう。


どうして、いつもこうなるのか。ただ思い出にふけっていただけだというのに。どうしてこう、いつもどうしようもないのか。本当にやりきれない。本当はきっちりと始業5分前には着いて、支度して準備を済ませておきたいというのに。



「すみません、ついうたた寝してしまって……」

「もういいから、早く着替えて3番テーブル空けて!」

「はいっ!本当に申し訳ないです……すぐ着替えます」



いつも言い訳がありきたりでお粗末すぎやしないか。さらに口調がどもってしまうため余計に酷い。言い終えたあとでまた下手なことを言ってしまったと後悔し、恥ずかしくなる。




駅前の繁華街にある居酒屋笑太郎は、今日も大繁盛である。私のような小間使いが来ようが来まいが、客足はやまないし営業がとまるわけでもない。いつ誰が辞めてもすぐに新しい人が入るし、代わりなんていくらだっているのだ。もうこんな惨めで情けない人間、いなくなったって誰も惜しむ人はいないだろう。


そんなことをぼーっと考えながら注文の品を作っていると、先輩がものすごい形相でこちらへ近づいてきた。



「ちょっと高峰さん!焦げてるってば!聞いてんの?!

ただでさえ間に合ってないのに何やってんのよもう!!」

「え……うわ……うそ」

「嘘じゃないっての!誰のせいでこうなってると思ってんの?

どいて!あたしがやるから!あなたはお会計やってきて!!」



私の手から玉子焼き器を奪い取り、真っ黒になっただし巻き卵をごみ箱に放り投げると、出口を指さしてもう一度声を荒げた。



「ぼーっとつっ立ってないで早くしてよ!!」



それからあとのことはあまり覚えていないが、きっと何とか集中してこなしたのだろう。ラストオーダーから閉店作業まで無事終わらせることができた。先輩ももうさっきのことは怒っていないようで、お疲れ!とだけ言い残してそそくさと帰っていった。





「高峰さん、ちょっと」

「へっ、へいっ!?」

「へい?」


「はい、でしょ?  馬鹿にしてんの?」

「すみません、ちょっとびっくりしてしまって」


「あのさぁ……… はぁ」


「……すみません」



「やめてくれる?すみませんすみませんってさ、謝れば済む話じゃないことくらい分かるでしょ。

何回目?この間の無断欠勤もそうだし、遅刻ばっかして。もう俺もかばってやれないんだよ。みんなもう頭きてんだからさ。」



「もう次の出勤は来なくていいから。今までお疲れ様、制服だけ置いて帰って」






そうか。そうだよな。先輩はもう怒っていなかったわけじゃない。私がこの話をされることを知っていたのだ。さぞ清々した気持ちだったに違いない。代わりはいるとか、私がいなくなっても誰も惜しまないなんて考えていたつい数時間前の自分が恨めしい。

今までずっと亀裂が入っていたところに、遂にとどめを刺してしまった。信頼を裏切られてもなお信じようとしてくれた人の気持ちを、踏みにじり続けた罰だ。本望ではなかったにせよ、結果としてこういう状況を招いた自分が悪い。


断崖絶壁での綱渡りのごとく、今にも消え入りそうなろうそくの炎のごとく、ギリギリのところをいつだって歩いてきた。私はいつだってギリギリの状態を保持したまま、自分が存在し得るその幅だけは死守せんと思って生きている。それ以外の事は考えている余地がない。そんな余裕が持てるなら、今こうしてはいない。




散々な一日だったな……

もう、穴があったら入りたい。そして一生出て来られなくていい。ただ息をしているだけで、生き恥をさらしているような感じがする。自分以外の全員、敵みたいに思える。どうせ何やったって無駄だ。どうせ何やったってできるわけがない。どうせ、私なんかには。



対人関係に問題を抱えていた思春期のおかげで、それから今日にいたるまで身近に友達と呼べる友達はいない。親からは何をしても褒められず、間違えれば怒鳴られて叩かれ叱られてきた。これだけ自尊心の乏しいダメ人間では、これから何をしたってどうにもならないのではないだろうか。そんな気さえする。

SNSの投稿を見る限り、周りの同級生だった人たちは何事もそつなくこなすし、友達だってたくさんいて、毎日充実しているように見える。とてもうらやましい。隣の芝生はいつだって青い。青くて眩しくて輝いている。それは私には手の届かない世界のような気がして、悲しくて切なくて泣きたくなる。


これまで高校を2度も中退した上に、仕事だって最短で3日、まあまあで3カ月、最長でも1年しか続いたためしがない。そうやって何か失敗するたびに自分を責めて、卑下してきた。一体いつになったら、心から幸せに笑える日が来るのか。


本当なら世界中を駆け巡り、おまけに誰彼かまわず家に住まわせちゃうくらいのキャパのある人間になりたい。でも今は目の前にいる知り合いですら拒絶して自分の部屋に引きこもるくらいキャパがない。こういった理想と現実のギャップにも苦しみを感じてやまない。


なんかもう疲れた。




「さ、次のバイトどうするかな……」


街灯の明かりがついては消え、ついては消えを繰り返している。私も同じようなものなのだろう。上がっては落ち、上がっては落ちを繰り返す。いずれ消えゆく定めならば、このまま夜の静寂に溶けていなくなってしまえ。重たく沈んでしまいそうな足を引きずるようにして、悲しみと絶望を胸に、帰路へと着いた。





「ただいまぁ」


玄関の土間だけが温かい橙に照らされた、薄暗く広い家の中に小さくか細い声が響く。


世界はまだ眠りの中にいて、自分だけが息をしているように思える夜が好きだ。誰も私の事を責めたりしない、誰も私の事を考えることもしない。そんな寂しくてひとりぼっちで、静かな夜が大好きだ。


いつまでもこの時間が続けと願うけれど、日は昇り、また沈んでゆく。必ず朝がやってきて、また同じ毎日が始まる。そんな当たり前の事分かってはいるけれど、太陽の下をどうやって歩けばいいのか、もはやもう分からない。希望や夢の持ち方も、追いかけ方も、忘れてしまった気がする。


脱力した全身を預けたすべてが暗闇に包まれるその中で、私はわけもなくただひとしきりに泣き続けた。とにかく胸が痛くて、苦しくて、悲しくて仕方がない。

誰か助けてよ……抱きしめて…………こんなこと、一体誰に言えばいいんだろう。誰にすがれば、救われるのだろう。





気付けば窓には西日が差しこんでいた。

夜中に泣きはらした目はまるで、怪談話のお岩さんのように重たく視界を遮っている。その姿があまりに滑稽で思わず鏡の前でひとり吹き出していると、丁度学校から帰宅してきた妹が同じように吹き出して後ろで笑いだしたものだから、二人で顔を見合わせてより一層に声を上げて笑いあった。



「なに、その目!ぶさ!てか、今起きたのかよウケる」

「うるさいな!昨日感動系の動画観て泣きすぎたんだよ。ほんと最悪」




こういう他愛のない家族との時間に、実家に戻ってきてよかったなと心底思う。

一人暮らしの時はもっと救いがなかった。ひとりで悲しみを抱え込んでつらいつらいと泣いているときには気付けない、家族のあたたかさを感じてまた泣きそうになる。それをぐっとこらえて鏡の前を譲ると、夕飯の支度を始めた。











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平成モラトリアム人間 柴田ちろ @chikachilo92

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