4 文目タクト

渦巻くもの

 心をえぐる傷はあまりにも多かった。ヨシワラを介抱する余力はなくて、タクトは大岩の へちへととぼとぼ歩いていくのが精いっぱいだった。参道を上れば動けなくなって、しばらく空を見上げてアヤメを持って参道を下りれば、また動けなくなる。ときには途中の大岩で動けなくなってしまうこともあった。心をいやしてくれる土いじりをしようにも、それ以前のところでタクトは身動きが取れない状況に陥っていた。

 いつもだったら夕方頃には全て終わっていた作業もことごとく遅れて、全てのアヤメを下ろし終わったころには月明かりの中に入り込んでしまった。タクトは照明を持ってはいなかったけれども、作業をするには十分な明かりが空から降り注いでいた。

 タクトは植え替え作業を目前にして、草が土を覆っている一帯に寝そべっていた。次の作業へ移ろうにも体が重たくて、心も重くて立ちあがれなかった。だからといって全てを止めにして帰ってしまうという気持ちもなかった。アヤメたちを花壇に植え替えたいという気持ちをまだ捨ててはいなかった。

 植え替えたいけれども、動く気になれない――気持ちが相反する中、タクトは夜空を眺めていた。木の葉で彩られた額縁の中に満月がこうこうと照っていて、木の葉と空とがはっきりと、溶け合わずにくっきりと分かれていた。現実離れした光景には心を吸い込まれそうな気分になる。

 空をぼんやりと見つめる目に、頭の側から何者かがにゅっと飛びこんできた。月と木の葉の絵画的な配置に割りこむ黒い影をタクトは一瞬、呆然と見つめて、かと思えば飛び起きて影と向き合った。鼓動がまたたく間もなく跳ね上がって、けれどもすぐに収まったのは、光の加減で黒い影が黒くなくなったからだった。黒い影はアヤメだった。

「タクト様、どうして苦しんでおられるのですか。そのような必要はございませぬのに」

「俺には呪詛の相手の命を救う道がありました」

「すでにかの者の呪詛は成就されました。過去を変えることはできませぬ」

「そう、俺は取り返しのつかないことをしたんです」

 タクトは膝を抱えてアヤメを見上げた。ほのかな明かりの中にたたずむ和服の女という姿には艶やかさを感じたのだが、たちまち不快感にとってかわった。なにもない普通の状況であれば素直に受け止められたのだろうけれども、今のタクトには受け入れられない価値観の塊がたたずんでいるようにしか見えなかった。

「タクト様はどうして変えることのできないことをくよくよと考えるのでありますか」

「人をひとり殺したんですよ、ひとりの未来を全て消してしまったんです。俺はどうにかして償わないといけないんです、どうやっていけばいいのか、まだ分かりませんが」

「過去を覗き込むのに立ち止まってはなりませぬ。前にずっと進んでゆかなければ」

「人を殺した人間が前に進んでゆくなんてできません。人の未来をつぶしたのだから、自分の未来をつぶします。それでもつぐないには足りません」

 アヤメがすぐに理解できない価値観を示すかとタクトは睨みつけてみたけれども、思っていた通りのことはおきなかった。アヤメは襟をぎゅっと握りしめて、口を固くしてタクトを見つめていた。

 アヤメは反論しなかった。言葉を待っていても、アヤメは口を開かないでただただ袖を握りしめるだけだった。じっと様子をうかがっていれば、ついに視線を逸らして胸元の握りこぶしを見下ろしてしまった。ややあって襟から手を離すと、歪んだ襟を正しもしないでタクトの目の前までやってきた。それから正座でタクトと対峙して、再び視線を交えた。

「タクト様、わたくしにはひとつ考えていることがあります」

「なんですか」

「わたくしはいままでずっと、者どもの呪詛を成就させてきました。もちろん、亡き者にした数は計り知れませぬ」

「そりゃあそうでしょう、戦をいくつも呪詛で戦ったんでしょう?」

「わたくしが述べているのは戦に駆り出されなくなったのちのことであります。名分を失った呪詛を者どもに力を振るう中、わたくしもまた多くの呪詛を浴びてきました。大事な人を殺したのはお前だ、お前が入水をけしかけなければ一緒にいられた、ときには呪詛の成就そのものにかかわっていない者からの恨みを頭からかぶったことさえあります」

「当たり前ですね、人が死ねばその周りの人も悲しむでしょう。もしそれを喜んでいれば、死の呪詛を願った張本人です」

 アヤメはまっすぐ見すえていた視線を徐々に下げてゆき、再び襟に手を伸ばした。指先が襟に触れるなり襟にかぶりつき、思いっきり握りしめた。こぶしがプルプルするほどに力をこめていて、視線をあげれば目がてかてか光っていた。

 アヤメが今にも泣きそうになっている。タクトが見たことのない姿だった。目の下には月明かりに輝くものがたまっていて、瞬きするたびに表面が弧を描いてこぼれ落ちそうになる。口は堅く閉ざされていて、唇がかすかに震えていた。薄闇のもとであっても、真ん前に座られていればよく見えるものだった。

 タクトは普通の受け答えをしたつもりだった。普通のアヤメなら、感情のない機械のような応対をするはずだった。しかし、目の前のアヤメは口を失って、人間らしく感情をさらけ出している。厚焼き玉子にキャッキャしたり、かと思えば口をつぐんで涙ぐんだり、タクトはアヤメがますます分からなくなった。

「わたくしはずっと考えてきました。多くの者どもの呪詛を成就に導いて、同時に多くの者どもから呪詛を受ける身となったそのときからずっと。わたくしはどう振る舞えばよいのか、と」

「呪詛を成就させるだけしか考えていないのかと思っていましたよ」

「答えを得たからであります。それゆえに、わたくしはタクト様に神代となっていただいてから、冷静でいられたのであります」

「それで、答えというのはなんですか」

「神は者どものためにあり続けなければなりませぬ。だとすれば、わたくしに呪詛を願う者どもの声も聞き入れてやる必要があるのです。わたくしを殺せ、という願いを」

 タクトはアヤメがもっと分からなくなった。呪詛の成就を推し進める側にいたアヤメもまた呪詛で苦しんでいるというのは不可解だった。アヤメを殺せという呪詛は自分自身に都合が悪いのだから無視していればよいものの、あえて考慮のうちに入れようというアヤメの姿勢はなんなのか。

 タクトはアヤメの言葉を待ち構えた。うるうるした目を見据えながら、タクトの疑問を解決してくれるであろう言葉を待ったけれども、しかし言葉の門は閉じたままだった。それどころか、タクトの後ろ遠くに目をやって、すると尻を持ち上げた。タクト様、申し訳ありませぬ。タクトを満足させるには程遠い言葉を残して、すっと消えてしまった。

 タクトはため息をついて地面に倒れた。そうしてからもう一度ため息をついて、頭にこめた力を抜いた。今日のアヤメはかなりおかしかった。今までにそれっぽい前兆やほのめかしがあったわけではない、単に気づかなかっただけかもしれないけれども、どう思い返したってそれっぽい行動はなかった。言い争いはしたけれども、アヤメはずっと同じ立場でいたし、タクトの文句でうろたえることもしなかった。まさか酒を断たせたのが原因かとも思えたけれども、禁断症状はなかったし、特にアレ? と思うこともなかった。

 どうしたのか、タクトは腕をまっすぐにして背筋を伸ばした。背中に心地よい刺激が肩甲骨の下あたりにじんわり広がってゆく。体の中に溶けこんだ気持ちの良さはタクトに植え替えへのやる気を引きだした。横に転がってうつぶせになれば、なんだか身も心も軽くなった気がした。

 しかし、その心もたちまち固まってしまった。音が鳴った。鳥が飛び立つとか木の葉がざわめくといったたぐいではなかった。輩の声でもない。アヤメがふらっと戻ってきたわけでもない。

 パン、パン。

 境内から、花壇の向こう側から手を叩く音が聞こえたのだ。金属や木が出すような硬い音ではなく、肉質を感じさせる、鋭くも柔らかみのある音は拍手だった。タクトはそこで理解した。アヤメがいなくなったのは、だれかがやってきたからだ。

 けれども、そのような場面は今までもあった。小学生のときだって、ヨシワラのときだって、アヤメは逃げなかった。階段でひしゃげたようになっていたヨシワラに対しては目の前にたたずみさえした。

 アヤメが消えた理由は境内で祈りをささげている人を確かめなければ分からない。タクトは確信めいたものに突き動かされて、花壇まで忍びよった。花壇のレンガに張りつくような恰好となって、おそるおそる、左目で境内の様子をうかがった。

 ちょうどだれかが頭を下げているところだった。白っぽい服を上下にまとうその容姿は見るからに細くて、背中を覆う長い髪がその体つきをより印象づけた。足元はサンダルで、ほんのわずかに見える足首も簡単に折れてしまいそうだった。

 お辞儀を直すと、その人はもう二度手を打ち、それまでは作法通りの振る舞いをした。そうしてから、一歩後ろに下がってからもう一度、二回の礼をして、二回の拍手をした。作法とはやや異なる振る舞いだったけれども、タクトは今まで見てきた人たちの中では、最も美しいそれに感じた。拍の打ち方から礼での背中と腰の動きに至るまで、どれもが滑らかだった。

 振り返るときも、上半身から動くのではなく、回れ右をして参道を正面にした。そのときになってその人はかなり荒い息をしているのに気づいた。口を開けっぱなしにしていて、眉間にしわの寄る様子はいかにも苦しそうだった。

 また、その人はタクトのよく知る人でもあった。

 あれは――サチ姉だ。

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