卵焼きとタクト

 バックの中には弁当が入っていたけれども、平然と弁当箱を広げるヨシワラにすぐさま背を向けて別れた。腹は減っていたけれども、食べる気にはなれなかった。人殺し、あるいは傷害に加担しているという恐怖心や緊迫がそれの引き金となったわけではなかった。ヨシワラの姿が食べる気をなくさせた。これから人殺しをすると思っているのになにくわぬ顔で弁当を広げられるなんておかしい、ヨシワラの恨みによる狂気じみた印象がそうさせたのだった。

 午後はなにもなかった。でも、落ち着かなかった。やることはやった、なにもやり残していない。けれども、なにかしっくりこなかった、どこにしっくりこない要素が潜りこんでいるのか分からないから性質が悪い。言いようのない不安とすべきか、とにかく、自分の中には全く不安がるような事柄はないのに、そわそわして仕方がなかった。

 放課後、日光で白みがかってしまったヒマワリ畑に水をたっぷり与えたら、幾分か気が紛れた。まだ淡い緑色をした芽が顔を出すけはいはしないけれども、みずみずしさを取り戻した土の下で水ががば飲みしているだろう。いずれ体が殻を破るほど大きくなって、それから土をも破って日差しに白い肌をさらす――ゆっくりと育つ姿は、汗が止まらない季節になるころには頭ひとつ越えたところに重たい花を咲かせる。力強い太陽のもとに生きる鮮やかな色を想像すれば、そりゃあ気分もよくなるってものだ。

 学校の帰りに社へ足を運ぶのはもはや習慣となっていた。いつのまにかアヤメがタクトの後をついてきていて、参道の階段を下りてゆく、これらもまたいつものこととなってしまった。ちょっと前までには存在すら知らなかったというのに、今ではどっぷりこの異空間に吸い寄せられている。

 祠の基礎の石に腰かけて弁当箱を取り出すのはいつものことではない。昼には食べる気がしなかったが、ヒマワリの世話をして帰途についていたら、無性に腹がすいてきたのだった。

 弁当箱を包むバンダナをほどいて弁当のふたを開けた。ごく普通のことに、アヤメが、わあ、とらしくない声をあげた。一段目には卵焼きと野菜炒め、冷凍のコロッケ、下段一面に白米を敷きつめただけのごくシンプルなものだった。そのどこにアヤメを驚かせるものがあったのか、タクトの知るところではなかった。

「これは、タクト様がお作りになられたのですか」

「ええ、自分で作りましたよ」

「わたくしが人間だった時分の弁当とは全く違いまする。握り飯が一つか二つといった具合だったものが、なんとまあ、このようになっていたとは驚きであります」

「今までは、その、神になってから弁当を見てないんですか」

「さようであります。食べる必要もありませぬし、食欲も不思議と湧かなくなってしまったゆえ」

「神様が空腹、ってのは想像できませんしね」

「ですが、その黄色いものには、妙に関心をそそります。これはなんでしょう」

 なんと、卵焼きをアヤメは知らないというのか。甘い味つけにした厚焼き玉子。弁当の三分の一を占める黄色。昔の人は卵焼きを知らないということなのだろうか。またもや考えたこともないところでアヤメとのギャップが暴かれた。

 卵焼きであることを教えると、予想だにしない反応が返ってきた。卵って、ニワトリの卵でありますか、その卵を食べてしまわれるのですか。卵が食べ物ではないとは、現代人の多くに理解されない考え方である。どうして食べないのか、と踏みこんで尋ねてみれば、ニワトリの産んだものであるから、その卵を食べることはその肉を食らうのも同然で、それは禁忌だった、という話しだった。

「卵は食べちゃいけないと?」

「ばちが当たる、とわたくしは教えられました。食べるというよりも、卵を壊してダメにしたら、という流れではありましたが」

「そうでしたか。でも、今は普通に食べますよ。どうです、ひときれ」

「よろしいのですか、これはタクト様の弁当でありませんか」

「気になさらなくていいんです、どうぞ。まだ箸も使ってませんし」

 タクトが箸と弁当を差し出すと、アヤメは恐る恐る箸に手を伸ばした。箸をつかむ手前でちょっと手を引いて、つかむのをためらった。ややあって再び指先を近づけたときにははしをつかんで、ゆっくりと引き抜いて、箸先で卵焼きを挟んだ。黄色い塊を持ち上げるとすかさずもう一方の手を皿にして、口まで持ち上げた。ぎこちなかったのははじめのためらいだけ、箸の振る舞いはなめらかで見ていて美しかった。卵焼きが口の中に滑り込んでゆくさまにさえも息を漏らしてしまいそうになるほどだった。

 アヤメはひとかみした途端、ぱっと顔を輝かせて、まるで子供のように笑みをこぼした。小刻みにはねているところ、よっぽどのことだったらしい。けれども、タクトはアヤメのはしゃぎっぷりを呆然と眺めるしかできなかった。卵焼きひとつにぴょんぴょん飛び跳ねる姿を想像できようものか。

「甘くておいしゅうございます。ただ甘いだけではなく、ほんわかとじんわり体に浸みこんでゆくような優しさを兼ね備えた甘さであります。なんとこれほどにまで心温まる食べ物がありましたでしょうか」

「アヤメ様、大げさです。たかが卵焼きひとつで」

「どうしてこれほど美味なものを禁忌としていたのか、今のわたくしには全く理解できませぬ」

 アヤメがようやくおとなしくなって、タクトに箸を返した。けれどもアヤメの視線は三切れの厚焼き玉子に釘づけとなっていて、全く離れるけはいがなかった。先ほどのはしゃぎっぷりはどこへやら、タクトの目の前にたたずんで、弁当箱を見下ろす。タクトは箸を持ちかえていざ遅い昼食に取りかかろうとしても、アヤメの視線の強さには食べたくても食べられなかった。食べづらさを訴えようアヤメを見上げたけれども、キラキラ輝く目にはどうしても言いだせず、結局箸を持ちかえて、持ち手をアヤメに向けた。

 アヤメが卵焼きをパクパク口にしている姿は、どう見ても子供だった。ひとつ食べ終わる度にニンマリするのも幼さを感じたし、途中はちまちま食べていたのが、最後の一切れだけは大きな口を開けて一口で平らでてしまうのも幼かった。アヤメの本性は幼い子供なのか、それともいつもの落ち着き払った大人なのか、タクトを悩ませるには十分だった。

 卵焼きを食べ終わったアヤメは、タクトに深々とお辞儀をして、礼の言葉を述べた。たかが卵焼きごときで投げかけられるような言葉ではなかったけれども、それだけの価値があると思い込んでいるアヤメは顔をあげるなりもう一度頭を下げた。

 ようやくアヤメが感謝の言葉を出し切って、顔をあげれば子供のあどけなさはなくなっていた。すっかり落ち着いた顔つきでタクトに一瞥をやると――まだ食べたい気持ちがあったのかもしれない――くるりと振り返って社へと歩み出した。ここでようやくタクトは白米に手をつけられたのだった。

 タクトが弁当を平らげるのにそう時間はかからなかった。ひとつ息をついてから弁当箱をしまって、それからもう一度息をついた。そういえば、社に来たのはいいけれどもなにをするのか考えていなかった。すっからかんの白紙で、白砂利の整備をした後は、もしかしたらプランを練っていたかもしれなかったけれども、そのときは頭のどの引き出しにもなかった。

 タクトは考えるのを諦めた。考え込んだところでなにも戻ってはこないし、なにかやることを思いついたとしても、実行するに足る材料がそろっているわけでもない。ここには神社に足らないものがたくさんあるけれども、どうやって水をひいたり建物を達てられるだろう? 花壇をつくるだけの技はあるけれども、より大きなものとなれば、全くの未経験者である。ならばすぐに用意できるのはなにかといえば、せいぜいヒマワリの種ぐらいで、だが社に生えるヒマワリというのはどこか不釣り合いだった。

 そういえば、アヤメがずっと社の前から動かないでいる。全体を見渡したタクトが気づいたのは、アヤメの固まり具合だった。アヤメがじっとしているときはなにかに注意を向けているのが多かった。物静かに注目する、これこそアヤメの本来の姿ではあるが、なにを見つけたのかタクトからはアヤメの背に隠れて見えなかった。

 タクトは荷物をその場に残して、てくてくアヤメのもとへと近づいた。なにかありましたか、と声をかけてみれば、アヤメははっと振り返った。これです、とアヤメは言った。わたくしにはいささか信じかねることではありますが。

 アヤメが指で示す先にはわら人形が横たわっていた。わら人形、アヤメとかかわるようになってから頻繁に目にしているものである。アヤメにとってしてみればごく当然な存在である藁人形を相手に『いささか信じかねる』とはなにを言っているのだろうと不思議に思えたけれども、答えはすぐにわかった。釘で紙が留めてあって、人の名前が赤黒い色で記されていた。

 タクトの名前だった。

 頭の回転が止まるとはまさにタクトの頭のこの瞬間について言い表したものであろう。一瞬のうちに聴覚がシャットダウンして、体じゅうが麻痺したように感覚がなくなって、しまいには目に見えている文字が文字として読み取れなくなった。

 タクト様、と声がかからなければ、延々と思考停止の渦にのみこまれ続けていたに違いない。肩に添えられた手の温かさであらゆる感覚が働きはじめて、目の前の視界も澄み渡った。だが、視界がはっきりとしたとてその多くを占めているのは、タクトへの恨みを形にしたものだった。

「俺に呪詛をかけようとするなんて」

「だれか思い当たる節はありますか、タクト様」

「俺にはなにも、そんな呪いをかけられるほどのことをした覚えはありません」

「ですが、このわら人形からは呪詛を願う力が残っております。あまり強くはありませぬが、だれかがタクト様への呪詛を願っておられるのは確かかと」

「濃くはないってことは、大した呪詛ではないってことですか?」

「いいえ、呪詛の程度に強さは関係ありませぬ。者どもが願うときには強さは大事ではありますが、強ければ強いほど願う力は早く消えてゆきます。ゆえに、直後であれば判別できますが、こうも弱いとなると、わたくしにもいかんせん」

「じゃあ、今日のうちにおかれたものではないってことですか」

「さようであります。おそらく、昨日に願ったのでありましょう」

 タクトは夕方、ヨシワラとこの社で話をしていた。そのときには確か――と考えるもよく思い出せなかった。社を背にしていたのはヨシワラであってタクトではない、つまりはタクトに社の様子を見る機会はあったわけだが、どうも思い出せなかった。ヨシワラの肩越しにちらっと視界に収まった気もするも、どうも推測の域を出なかった。

 どうして時間を特定しようとする? タクトは自分の考えを疑った。自分には呪詛を願われる相手について思い当たる節はない。だったらそれでよいではないか、わら人形を置いた時間を特定して張本人につながるヒントを得なくたってよいじゃないか。万が一呪詛が成就しても、執行者たるタクトを殺せとアヤメは口にできないだろうし、タクトだって『呪詛返し』をすればよい。わざわざ呪詛を跳ね返すのに推理する意味なんてない。

 では話し合いたいのか、思い当たる節のないことに関して円満に解決したいか? ヨシワラの件はタクトに解決を諦めさせるには十分すぎる力を持っていた。アヤメの教えの通り、呪詛は実行するか返すかのどちらかしかない、それを理解しているのに、タクトは考えてしまった。

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