優しいあなたは身の程を知れ

 無理だ。やっぱりできっこない。神の代わりの執行人になってたった数日だというのに、その神だってやらない説得をやろうとした無知はどこのどいつだ? 自分自身のイメージが全くの虚構でなんに役に立たなかったではないか。空想の世界で口にできた言葉は、実際ヨシワラを前にしたところで一切出てこなかった。呪いで自分の欲求を満たそうなんてバカげている、自分の手でやっつけた方がやりがいがあるってもんじゃないのか? 頭の中ではすらすらと並ぶ言葉も、恐ろしいヨシワラにすっかりおびえて頭の奥底に隠れてしまったのだった。

 タクトは参道から家までの道を、ずっと下を見たまま歩いた。自分の頭の足りなさをひたすらに責めたてて、人の不幸を望むというか、自らの害なす人物を貶めたいという欲望の激しさ、頑なさに恐れおののいた。ずっと、すぐ後ろをついてくるアヤメには目もくれず、口もきかず、ただアスファルトのざらついた質感を見下ろすばかりだった。アヤメもまた、心を読むことさえできるのに、ただ押し黙ってとぼとぼ歩く姿についてゆくだけだった。

 家に帰ったタクトがまず入ろうとノブを握ったのはサチ姉の部屋だった。サチ姉なら何でも相談できるし、必ず答えのための道筋をタクトにも理解できる言葉で作ってくれた。でも、ノブを上と下とでかむ形に金属板が取り付けられていて、それぞれをつなぐ役目を南京錠が果たしていた。戸口の両端には金属板の端を差し入れる金具が取り付けられていて、まさにかんぬきだった。ノブを回して戸を引いても、金属板と南京錠が騒ぐだけで開いてはくれなかった。

 サチ姉に会えないのは分かってはいたけれども、いざサチ姉の知恵が欲しいときに現実を突きつけられると、ひどく気持ちが沈んだ。知恵を借りるだけではない、サチ姉の姿も見れないのである、なにより、笑顔が見られないのである。

 部屋に戻ったタクトはベッドに倒れこんで途方に暮れた。ヨシワラの恨みつらみを説得して呪詛を取り除く方法がなにも思いつかなかった。ただヨシワラに呪詛の実行を求められるだけだ。改めてイメージの中でやり取りをしようとしても、イメージそのものが築けない。そもそも話し合い自体がありえないと示しているかのようだった。

 アヤメが珍しく座卓の前に正座しなかった。ベッドのへり、タクトの顔の真横に腰を下ろして、すぐそばにある黒い頭をなでてきた。タクトは頭をなでられる感覚が、まるでサチ姉になでられたときのように心地よかったものの、なんだかサチ姉に会えない代わりにアヤメにその役目を負わせようとしている気がして、優しい手つきを払った。なんで手を払われたのか分からないアヤメの顔が脳裏に浮かび上がってきたけれども、所詮はイメージに過ぎなかった。どのような顔をしているかを確かめようとも考えず、ただ低反発枕に額をうずめるばかりだった。

 だから申し上げたでしょうに、というのがアヤメの言葉だった。人の呪詛は神の身分を以てしても強力にして不可解なのです。人の者ならざる力を孕みながらも、人の者でなければ生み出せぬ、呪詛に手を加えようだなんて無駄な努力であります。

「でも、どちらかが必ず死ぬなんて、俺には耐えられませんよ。両方とも生きてもらって、でもちゃんと罰は受けてもらって、それが実現できれば」

「絵に描いた餅を眺めていてもなにもできませぬ。それも痛んで所々が緑色の綿が生えた餅、絵から取り出したところでなにもできませぬ。タクト様はそのようなことをおっしゃっておられるのですよ、無謀で無駄で、意味のないことです」

 無駄、意味がない。全くのその通りだ。タクトには否定するための一切の素材がなかった。どちらも死なないようにしたい、タクトの望みはヨシワラの言葉で打ち破られて、アヤメのごく短くて簡潔な言葉にミンチと化した。タクトの行動はただの悪あがきで、なにも助けられやしない。なにもできない――

 なにもしなかったら?

「アヤメ様、俺が呪詛を実行すれば相手に、呪詛を拒めば願った本人に呪詛が働くんですよね」

「さようでございます」

「だったら」

「タクト様が呪詛を拒みもせず、かといって呪詛を成就させなければ、タクト様自身に呪詛が働きます。悪いことは申し上げませぬ、早いうちにご決断なさってくださいますよう。以前に申したでしょう、取り返しのつかないところまで来ている、と」

 アヤメには考えはお見通しだった。また心の中を読んだのか、とタクトは布越しの曇った声を投げかけたけれども、アヤメ曰く、心を読まずともタクト様の心中は丸見えであります、と射貫いた。アヤメだって、タクトがこの可能性を考えるのはすでに分かっていたのだった。

 アヤメは再びタクトに手を伸ばして、髪の毛の流れに沿って指先を流した。

「タクト様、タクト様は大変やさしゅうございます。さように考えなくてもよいものを、タクト様は敏感になって考えてしまっているのです」

「だれだって殺したくはありませんよ」

「しかし、現に願っている者がいらっしゃるではありませんか」

「そりゃそうですけど」

「タクト様にはできます。あくまで呪詛を成就させること、人助けであります。タクト様の行いで癒される、救われる者の心があるのです」

 タクト様は救われる者どもの姿だけを見ればよいのです、アヤメの指が髪の海からするりと抜けて、タクトの輪郭をなでた。あごのところで指がぽんと飛び跳ねれば、指の腹がタクトに着地しないでアヤメのもとへと戻っていった。

 タクトの思考にもはや逃げ道はなかった。説得し、全てをタクトの思い通りの筋書きに進めるには、タクトはあまりに力不足だった。ヨシワラのあの激しい感情を抑えるのもまた力不足で、タクトには、神代を任されているにもかかわらず、手もつけられなかった。いや、力不足ではない、勘違いしていた。タクトはアヤメに対抗しようとした。呪詛成就のために力をふるうアヤメに対して、タクトは果敢にも真っ向から、呪詛が成就できない状況をつくりだそうとしたのである。

 力のなさ、考えの浅さをタクトは身を以て知った。

 けれども、アヤメの言う通りに執り行うつもりはなかった。

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