五円玉の重み

 人の崇拝を集める神が、その人々に対して災いを与えるという仕組みは、タクトにはどうも理解できなかった。タクトにとっては矛盾の一言で片づけられるような問題点だった。助けを与えるべき人々を相手に、神アヤメは災いを与える。なんて不条理でむごたらしい行いなのだろう。なのに神官がかつていて、神官に言葉を託す人々もいた。昔の人は損得勘定もできないほど頭が悪かったのか。

 その日は草むしりを続けながらもそのようなことを考えていたが、翌日になって、矛盾が矛盾でないものにとって代わった。というのも、あのおんぼろの社に頭を下げて願いをささげる人間が現れたからだった。

 土曜日ということもあって学校は休みで、タクトは朝早くからアヤメの社に出向いて作業をしていた。タクトはこの日のうちに、具体的な改造プランを決めることにしていた。そのために、家にあったレンガを台車に積めるだけ詰んで持ってきたのだった。使い道は二つ。雑草防止のための白砂利を入れる範囲を決めるため、花壇をつくるため。レンガを使って全体のレイアウトを決めるのである。

 とはいえ、重たいレンガを数十個も持ち運んでこれるわけがなかった。持ち込むことができたのは必要量の半分以下だった。ひとりではさらに半分程度しか運べなくて、アヤメにもできるだけ持ってもらったのだった。

 タクトは時折アヤメに言葉を求めるものの、アヤメ当人は一切のことをタクトに任せきりにするつもりのようだった。タクトがなにを尋ねても、タクト様がお決めになったことはわたくしが決めたことでもありますゆえ、と全く答えになっていない答えしか返してくれなかった。砂利を入れる範囲やら形やら、花壇の形やら。どれもこれもがタクトの一存に任せられてしまった。これから完成する花壇になにを植えるのが良いのか、という点についても。

 せめてアヤメ様が好きな花を植えましょう、とアヤメの考えを改めさせようとしていた。アヤメの祠である以上、タクトの好きな花ではなく、アヤメが好む花を植えるのがふさわしい。けれども、アヤメは考える様子もなしに、突然タクトの言葉をさえぎった。目につかぬよう隠れてくださいまし。

 アヤメに言われるがまま祠の裏側に貼りついて、存在感をなくした。アヤメがずっと目につくだろうところで立っているものだから、思わず隠れるよう言いそうになったが、アヤメは神様、その気になれば人に見えないようにすることもたやすいのに気づいて、なんとか飲み下した。

 コインが祠にぶつかる音がした。賽銭箱に入ってゆく心地よいリズムではなく、単純に落ちて転がるような音だった。静かになること一瞬、手のひらがぶつかって弾ける音が二度あって、またもや静かになる時間が訪れた。やがて、鼻をすする声が聞こえてきた。

 なにをしているんです、とたたずむアヤメにささやきかけてみれば、祈っておられるのです、というだれでも分かる答えだった。しかし、タクトは背後にいる人物がなにを祈っているのかを尋ねたつもりだった。この社の参道は道がない。笹と樹々で完全に現実から切り離されたかのようになっている。その笹の扉を潜り抜けて祈り人はやってきた。あんな場所を通ってまで祈りたい、祈らなければならないこととはなにか。

 あの、と調子の狂った言葉が飛びこんできて、タクトは心臓が跳ね上がるような衝撃を感じた。ぼろぼろ祠の後ろにへばりついている姿を見ず知らずの人に見つけってしまった! 恥ずかしいことこの上ない状態である。だが、声の主は全く別のことを口走った。あの、お願い、お願いですから、僕をいじめる高田君と森田君と吉沢君と石山さんを懲らしめてください、二度といじめてこないぐらいに懲らしめてください! 

 少年は朽ちかけた祠へ必死に呼びかけた。乞い願った。ウアンウアンと大声で泣くのを精一杯にこらえて、叫び声と鳴き声とがない交ぜの引きつった声で訴えかけた。お願い、お願いですから―文言を唱え終えてもまたはじめに戻って、また声を張り上げる。同じ言葉がどんどん放りこまれる。

 訴えは長かった。けれども、内容は単純明快だった。子供―少年の感情ははっきりしていた。苦しい、だれにも頼れなくて、でもだれも取り合ってはくれなくて、もうどうしようもなくて、神様に頼る道しかなかった。

 お願いします神様! 男の子は叫ぶやいなや石畳を走って、石段の下り参道を駆け昇っていった。大岩の階段が途切れるところで思いっきり転んでしばらく身動きをとる様子を見せなかったけれども、タクトが耐えかねて祠の裏から飛びだす前には立ち上がって、大岩の向こうへと消えていった。

 なるほど、アヤメが与えるのは災いではない。悪いことをしたものに対する懲罰である。ひどい仕打ちに対して、どうしようも手立てのなくなった人が頼る場所が、この樹の壁におおわれた異空間であるということか。

 アヤメに振り返ると、男の子が祈っているときと変わらずにその場でたたずんでいた。ただし、鼻の上にしわが寄って、依然として着崩れてむき出しになっている肩が、かすかに震えていた。

「わらべの言霊は、それはもう恐ろしきものでありました」

「いじめが苦しくてたまらないことは分かりましたけれども、ほかにも?」

「わらべは毎日ひどいののしりの言霊を浴びております。それだけではありませぬ、腕にあざができるほどの力でぶたれ、持ち物は盗まれる始末であります。しかしわらべには頼る当てはないのです。親に働きかけをしようものならよりひどい仕打ちをされると恐れているのです」

「あの子はいじめっ子から脅されてるわけですね」

「その点についてはわらべの言霊からは感じ取れませぬ。わらべの心は疲れきっておりました。わらべの言霊にも、強いものがございました」

 アヤメはゆっくりとした足取りだった。ぴんとまっすぐ背筋を伸ばして、身体が揺れることなく、滑るように歩いてゆく。祠の前で滑りは止まって、また音もなく腰を落とす。下に垂れる袖を押さえつつ、手を差し出して手にするのは五円玉だった。くすんだ真鍮色をしていた。

 アヤメは男の子の思いが詰まっているそれをタクトに差し出した。黙って受け取るタクト。昭和六十年と刻まれたなんの変哲もない五円玉である。

 わらべの五円の銭は、さぞその手に重く感じられるでしょう。

 アヤメの言葉を耳にしても、タクトは言葉を返さず、ただ古く汚れきった五円玉を、神妙な面持ちでながめるのであった。

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