そこにいるのは
さて、サチ姉の聖域から足音の廊下に逃げだしたタクトは、しばらく立ち尽くしたのち、自分が『あの』廊下にいることを認めた。ライオンの檻の中に放りこまれたウサギさながらに辺りを見回した。わら人形の姿はない。耳をすませても、ヒステリックがサチ姉になにかしゃべっている音以外はない。耳が足音を認識できなくなったのではと思って足踏みをしてみれば、はっきりと足音を聞くことができて、まわりにあの足音の源がないのを認めた。
サチ姉の言葉を思い出す。サチ姉は扱いに慣れている。もしかしたら、部屋の中にいる間にサチ姉がなんだかよく分からない力で足音の正体とか藁人形とかを取り除いてくれたのかもしれない。だとしたら、死ぬことはない、終わることはない。鼓動が見る間に落ち着いていった。
もうなにも恐れるものはない。目の前の扉を開ければ、雑然とした自分の部屋がある。体のだるさが部屋へと急がせる。どうやら絶えず受け続けた恐怖が体にはこたえたらしい。さっさとベッドに横になって、漫画なり本なりを呼んで、それで寝てしまおう。自室のノブへと伸びる手は、震えている様子が全くなかった。
部屋に入ってまず目に入るのがもらい物のカレンダーで、だけれど先月の分をめくっていなかった。タクトはしかし桜のイラストをすっかり無視してベッドへと顔を向ける。今はカレンダーの心配をしている場合ではない。休んでリセットがしたい。
けれども、ベッドの前を女が占拠していた。
女。見たことのない女。着物を着た女。襟元がはだけまくっている女。左肩に至っては露出してしまっている女。その女が、ベッドとちゃぶ台の間に鎮座して、琥珀色の液の入った角瓶を持っていた。しかも、直接口をつけて飲んだ。
タクトは恐怖だとか驚きだとか戸惑いを通り超えた境地に至っていた。とりあえず見知らぬ人がいて、とりあえず誰なのかを尋ねておこうとタクトは見たことのない女に近づいてゆく、あの、と口にしながら。確認しなければならないことはふたつ、あなたはだれなのか、どうして見ず知らずの人の部屋にいるのか。
いざ問いかけをしようと思ったとき、女のそばにあるモノに目が留まった。黄土色の人型の物体。二股に分かれている部分の付け根と、十字に棒が交わるところを細いひもみたいなので固定してあった。
わら人形。
はじめ、タクトは冷静にそいつをわら人形ととらえて、別に気にすることもなく目の前の女と対決しようとした。けれど、問いかけをするよりも先に頭が整理してしまったのである。わら人形というオブジェクトとしてみなせばよいものを、『あの』わら人形だとみなしてしまった。
みっともない声をあげるタクトは後ろに転げた。背後の本棚に肘をしたたか打ちつけて、痛みにも悶える。目の前にずっと追いかけてきたわら人形の恐怖があって、背後からは肘への物理的なダメージである。痛いし怖いしであまたもパニクって、とにかくその場から逃げようとしたら足がもつれて転げてしまった。逃げろ! 女はあのわら人形を持っている!
わら人形を持っているなら、すなわちわら人形の持ち主だということだ。わら人形で執拗にタクトを追いつめてきたのだから、タクトにどんな恨みつらみがあるか分からない。タクトにとって赤の他人だからもっと分からない。ただ、わら人形を作るだけの理由がある点は明らかだ。家まで押しかけて酒を飲んでいるというわけのわからない行動がさらなる恐怖を掻き立てた。
タクトの頭の中にはサチ姉の温かい手のみである。すぐに部屋を飛び出して、サチ姉の部屋にとびこんで、サチ姉という安心が欲しかった。だが、逃げ出すにも、体が言うことを聞かない。立ち上がろうにも腕はうまく地面をとらえられないし、どれだけ足でもがいても、足が床をとらえることはなくてずっと滑ってばかりだった。
逃げたい、逃げたいのに、どうして、どうして、と焦りまくっている中で、ガン、という鈍い音はタクトを思いっきりぶん殴った。音にビックンと体を震わせてじたばたを止める。立ち上がろうとする腕も止まる。音の正体は、座卓に置かれた角瓶だった。
部屋の空気が固まる。どの声も音もなくて、一方で空気が張りつめていた。どの音も、どの動きも許さないような空気。その中心に、角瓶を置きながらも、依然として注ぎ口のすぐそばをつかむ女がいた。
――どうやら、勘違いをなされている様子でございますね。怖がることなきよう。
耳の中にすっと入ってくる、やわらかい声色だった。サチ姉の声のように、耳の中にすっと入ってくる瞬間が心地よくて、不思議と恐怖にのた打ち回る心がぴたりと落ち着くのを感じた。諦めたのではない、恐れおののく自分の違和感を覚えたのだった。
だれですか、とタクトが口にするのもごく普通の、冷静な調子で、おそるおそるといった調子ではなかった。アヤメノミヤと申します、ゆえお見知りおきを、アヤメとお呼びくださいましという答えには、タクトは時代錯誤を感じた。なんだか古臭い、わざとらしい言葉遣いである。だが、声が心地よいものだから受け入れてしまう。
するとアヤメがタクトに名前を尋ねる。つまり、名前の知らない人の部屋に上がりこんでいたということである。冷静になれば違和感たっぷりのこの瞬間を、しかしタクトは何も感じなかった。それまでの異常現象がタクトをマヒさせていた。フルネーム――文目タクトと答えたあとのアヤメの微笑みに見とれてしまう始末だった。
アヤメは自身のすぐ横に視線を落として、なにかしゃべっている。なにをしているのだろう。タクトは正座になおって動きを見つめていると、突然黄土色のアレが座卓の上に飛び乗った。反射的に離れようとするも、正座で下半身は動かず、上半身をそらすに留まった。
だが驚くべきはこの後の出来事だった。角瓶の隣でわら人形が頭を下げた。本物の人間のように、身体の横に腕の部分をくっつけて、腰から体を折り曲げた。タクトがきょとんとしていると、それでは足りないと思ったのか、土下座の恰好になった。
まずは誤解を解かなければなりませぬ、とアヤメは角瓶を口にした。
「この者どもはわたくしの使いでございます。確かに元来人間の呪詛を実らせるための道具ではありましたが、この者どもは別物です。タクト様にさようなことをすることはありませぬ。わたくしの命がない限り、そのような行いはせぬのでご安心くださいまし」
「それで、どうして俺のあとをついてきたんですか、そいつは」
「タクト様の人となりを精査させていただいておりました。タクト様の本来の姿を見定めるため、そして、わたくしが考えている存在とたがわぬものなのかどうかについて」
「素行調査、ですか」
「かような呼び方もありましょう」
アヤメはまた角瓶を座卓に打ちつけた。酒を卓に残したまま立ち上がれば、タクトの真横に正座した。これからなにをするのか戸惑っているタクトを横に、アヤメはその手を取った。もう一方の手を重ねると、タクトの手を包みこみように指先を曲げた。
「わたくしの神代となってはいただけぬでしょうか」
「かみしろ? なんですか、それ」
「神代は神の代わりと記しまして、わたくしども神の代理として、人々に対して施しを与える手伝いをしていただきたいのです。タクト様にはわたくしの神代としてふさわしいかと存じますゆえ」
「普通、人になにかするのは神様だけでもできるものでは?」
「その通りでございます。ですがわたくし、誠に恐縮ですが、長いこと祀っていただけておらぬゆえ、神としての力がひどく衰えておりまして、神代をたてなければ施しどころか、人々の声を聞くのもままならぬ状態なのであります」
社会一般における常識だとか当然の価値観といったブツが神様の実物を認めることはまずないけれども、人形に追い回されたタクトにそのような常識は通用しないのだった。それでもタクトは『神の代理人』というのがどうも解せなかった。ようは神様の腕やら足やらになってほしい、ということではあるけれども、代理人がいないと施しできなければ声を聞くこともできない、とは。
「神官がいらして、そのお方がわたくしに仕えてくださる場合、神官にはわたくしへの信仰とともに、わたくしへの世話もしてくださいます」
「つまりは、その『世話』を俺がやる、ってことですか」
「そのように理解していただいて構いませぬ。それらを自ら望んで執り行ってくださるのが神官様、そしてわたくし神の側からお願い申して執り行っていただくのが、神代様であられます。ただし、神官様とは異なり、神代にはそれなりの素質が必要でありますゆえ、誰にでも務まるものではありませぬ」
神官――タクトはその姿を頭に思い描いてみるが、とりあえず紅白の巫女の姿ぐらいしか浮かんでこなかった。タクトの場合、神社とか寺というものに縁がなかったのだから仕方がない。どんなときにでも寺社にお世話になるという機会がタクトにはなかった。落止市の、特にタクトが住んでいる近辺にはひとつもない。だれが管理しているのかさっぱり分からないものも含めて、である。
当然、神官が神に対してなにをするのかも分からない。なにやら面倒なことをしこたまやらされるのではないか。恐れはすぐ問いかけになって、タクトの口を飛びだした。
「じゃあ、具体的に、世話とはなにをするんですか」
「主に、わたくしのお話し相手になっていただければよろしいのです」
「たったそれだけですか」
「さようでございます。多くの神様は祝詞という呪文のようなものをお求めになられるのですが、わたくしは祝詞に興味はありませぬ。わたくしの場合は、多くの神様と違って、ひとりであることが心の枷となっておりますゆえ、その点を支えていただきたいのです」
つまり、ひとりぼっちはさびしいから嫌だ、ということである。どうも神様らしくない、神様の口から出てくるものととしてはあまりにもそぐわない発言だ。物言い自体はたとえ面倒くさくて古臭くても、言っていることは全く同じである。人間臭くてたまらない。本当にアヤメは神なのか、本当に疑わしい。
しかし、タクトは断る気になれなかった。頼られていることには悪い気がしなかったし、なにより、今までのことがあったから、神様の言葉には従っていた方がいいと思ったのだった。人骨発掘をきっかけにいろんんな事象が起きているのだから、原因があるとすれば、警察や自衛隊といった人間の手で対処できるようなものでないことはバカでも分かる。神様であればそういったものに対しても対処ができようものだし、その神様について視認できる。目に見える存在に対応してもらえるのは心強い。
「分かりました、引き受けます」
「ありがたいお言葉を承りました。では早速、明日よりよろしくお願いいたします」
「ええと、早速ひとついいですか?」
「なんでございましょう」
「最近いるはずのない人の声が聞こえたり、誰もいないはずのところから足音が聞こえたりするんですけれども、これはどうしたらいいんですかね?」
「おそらく、使いのものがタクト様をつけていたときに、『資質』が発現して、モノの怪のような類を感じ取る力が身についたのでありましょう。その点についてはご安心ください。悪しきことをなそうとする輩はわたくしが許しませぬので」
「アレとは仲良く付き合っていくしかないんですね、それじゃあ」
「いずれ慣れるものと思われますゆえ、今はご辛抱を」
「悪さはしないんですよね」
「悪しきことをする者どもはおりますでしょう。しかし、タクト様を痛めつけようとする輩はわたくしが二度でも三度でも、四度でも殺めてみせましょう」
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