そのとき合鍵が渡せた

大橋慶三

1・今市信夫、三十路の決意

 よく晴れた午後である。

 にもかかわらず、この六畳間には不思議なくらい陽が差していない。

 その真ん中でスマホを片手に縮こまっているのは、三十路を越えた自称舞台役者の今市信夫だ。

「覚悟はあるさ! もう今すぐに実行したっていいんだ!」

 信夫は顔を歪めながら張りのある声をあげた。どうにも芝居じみて映るのは、彼に生まれつき備わった損な一面だ。

 台所の向こうに見える玄関で、呼び鈴ブザーが鳴った。けれども今の信夫にそれを気にする余裕などない。

 彼の足元には茶封筒がひとつ。その真ん中には「遺書」なんていう不穏な文字がこれみよがしに踊っている。

 よく見ると、遺書の「遺」の字がなんか違う。事実、信夫は正しい漢字がわからなかったので、達筆風にそれっぽく書いて誤魔化していた。こういうところに、この男の今までの人生が垣間見えてくるってもんだった。

 大学卒業後、清掃のアルバイト一筋で生きてきた信夫が、この「寿荘」に越してきたのは半年前のことだ。約束の三十歳を迎え実家を追い出されるという至極消極的な動機によるものだった。

 家賃的に風呂トイレがついているだけでラッキーなこの集合住宅には、自然と似たような境遇、志の人間が集まってくるようだ。事実、住人の多くが老齢の生活保護受給者で、彼らの飲み会は365日、途切れることはない。

 ひとりだけ年齢が若い信夫だったが、それなりに隣人たちとはうまくやれていた。それなのに(いや、それだからか?)、信夫は今、死のうとしているのだった。

「そうじゃないって。僕は君に感謝してるんだ。だから……、人間が死ぬ瞬間を君に教えてあげたいんだよ!」

 電話の相手は先日の同窓会で再会した女性だった。

 年齢的にそれなりの社会的地位を持ち合わせる参加者の中で、信夫は女優を目指す彼女にだけシンパシーを感じた。一次会の居酒屋と二次会のカラオケを通して、信夫に話しかけてくれたのは彼女だけだった。

 そこで信夫は、どうせ死ぬなら彼女の女優としての経験値を高めてあげようと、首吊り自殺の実況中継を考えたのである。

 だが残念なことに、狭い地下世界で美少女ともてはやされているアラサー女子は、かなり野蛮な言葉を信夫にぶつけているようだ。信夫の懸命な叫びは次第に悲しみの慟哭へと変貌を遂げ始めている。

「馬鹿にすんなよ……。男の口約束は地球より重いんだ……」

 彼女からの返答がないので、信夫は成り行きのままに決意を固めてしまった。でも、その決意をすぐにでも撤回する準備はできている。

 その時、三度目の呼び鈴ブザーがなった。

 このことは、決意を踏みとどまるきっかけになりえただろうに、それすら聞き逃してしまうところが、今市信夫がイマイチ信夫と揶揄される所以だ。

 よろよろとベランダに出た信夫は、物干し竿に自作の首吊りリングをくくりつけ、木箱にのっそりと足をかける。すぐ目の前は隣家の壁があるのみで、感傷に浸れるような景色はない。

 頼みの綱であるスマホはスピーカー機能を作動させてある。いつでも、「もういいよ、本気なのはわかったから首吊りなんてやめて!」という言葉が聞こえてもいいように。

 その瞬間を待ちながら、信夫はリングの中へ顔を通した。

 ここから先はチキンレースだ。自分の首が締まるのが先か、彼女が自分を引き止めるのが先か――。

 信夫は彼女からのひと声を待ちわびていた。しかし、今や彼女は受話器を床に置いたまま、電話口にすらいない有り様なのであった。

 それを知らない信夫が首吊りリングに顎を乗せる。もうここからやることは、木箱を蹴り飛ばし全体重を預けるだけだ。

(早く俺を止めてくれ!)

 強く願った瞬間にようやく待望の『ひと声』が聞こえてきた。耳からではなく、脳裏に浮かぶという形で……。 


 ――わしはもう二度と、絶対にクソは漏らさんぞ――


 今際のきわに届いた声は、隣室のアル中老人、通称『プライドうんち』がかつて発したものだった。

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