第8話 彼らの世界

 呻き声が、聞こえた。


 だが、シホが聞いたそれは、『クラウス』のものではなかった。


「貴様……っ!」


 苛立った叫び。それも『クラウス』のものではなかった。だが、おそらくリディアのものでもない。


「いったい、どういうつもりだっ!」


 それまでの堂々たる姿からは想像できない、動揺と、激しい怒りを露わにしたのは、『統制者』だった。


 紅い靄を纏ったリディアの身体が歩みを止めた。その靄に、先程まで天空を駆け巡っていた稲妻のような光が無数に走る。苦しむような仕草で左手が宙を掻き、さらに大きな呻き声を漏らすと、一度、身体が大きく弓なりに反り返った。


 直後、力が抜けたように、『統制者』は石畳の上に片膝をついた。


 その場の空気が、変わったように感じた。


 シホは、動きを止めた『統制者』の背中を見た。先程までと、何かが違った。それが何なのかを、具体的に言葉にすることは出来なかったが、その答えはすぐに出た。


「……クラウス、そこに、いるのか」


 声は『統制者』のものと同じだった。だが、声に乗せられる感情が、あまりにも違っていた。


 血の通った、人間のものだった。


「そこにいるならば……出てこい……おれと勝負だ、クラウス……」


 リディアの身体が、いや、リディア・クレイ本人が立ち上がる。


 全身に纏っていた紅い靄が消え、長い黒髪がゆらりと揺れた。紅い刀身の剣を、静かに構えるが、『統制者』に使われた後の肉体には、明らかな疲弊の色があった。人間の限界を超えた肉体の使われ方をしていたことがわかる。シホが背中から見ても、明らかに、立っているのが精いっぱいという様子だった。それでも、その姿は『統制者』ではなく、『紅い死神』の二つ名で知られる、リディア・クレイのものだった。


「リディアさん!」

「これは傑作だっ!」


 心底可笑しくて堪らない、とでもいうような高笑いが、シホの耳を聾する。見ればリディアの肩越しに、腹を抱え、身をよじり、大口を開けて嗤う『クラウス』の姿があった。


「キサマの導き手は、キサマが気に入らんようだな!」


 もうそこにはいない『統制者』の意識に対し、『クラウス』……魔剣アンヴィが、ありったけの憎しみを込めて嘲笑と共に言い放つ。


 そう。もうそこには、絶対的支配者は存在しなかった。いるのはリディア・クレイという人間。リディアがどんな方法を使ったのかは、わからない。だが、いま、確かにリディアは自分の肉体を、旧王国の畏怖される遺産、『百魔剣』の影の支配者、魔剣の王、最強の一振りから取り戻したのだ。


 だが、果たしてそれはいま、心から喜ぶべきことなのか。シホは『クラウス』の姿を見ながら、唇を噛み締めた。


 いま、魔剣アンヴィと対峙しているのは、傷つき、『統制者』によって肉体を限界まで酷使されたリディアのみ。


「キサマの負けだ、『統制者』!」


 リディアを守らなければ。


 考えてしたことではなかった。反射の領域で、シホは魔剣ルミエルを抜いた。光を意識すると、その力がルミエルの切っ先に宿るのを感じ、視覚でもそれが明らかな輝きとなって剣に集まっていることがわかった。


 振るい、切っ先を『クラウス』に向けて光の魔力を攻撃として打ち出す。


 そうするつもりだった。


 だが。


「失せろ」


 シホがルミエルを振るう直前、冷たく、鋭いその声は、奇妙な静けさを保った旧市街に響いた。


 瀕死の様からは想像できない、氷の刃のような硬度と冷気を持った声は、リディアのものだった。常人ならば、それだけで平伏してしまいそうな程の力が、その声にはあった。


「何度も言わせるな。おれは、クラウスに話している。お前じゃない」

「キサマ……っ!」


『クラウス』が歯を剥き出しにし、アンヴィの怒りを露わにする。すぐさま攻撃へ移るかに見えたが、その前にリディアが再び膝をついた。前のめりに膝を折り、中腰に倒れたリディアは、もう一度立ち上がろうとするが、叶わない。


「何のつもりか知らんが……」


『クラウス』はリディアのその様を確認し、ゆっくりとその傍まで歩み寄った。座り込んだリディアとアンヴィを上段に振り上げた『クラウス』という構図は、さながら斬首刑の罪人と執行人のようで、そのままではリディアに助かる道はないように見えた。


「クラウスさん!」


 お願い、正気に戻って。


 シホは叫びながら、再びルミエルに力を宿した。だが、その目の前で、『クラウス』の目がすっ、と細められた。


 間に合うか?


「消えろ、『統制者』」

「だめっ!」


 叫びながら、シホはルミエルを振るった。光の筋が強い魔力を宿して、『クラウス』へ向けて飛ぶ。


 だが、『クラウス』の斬撃は速い。


 一息に魔剣アンヴィが膝をついたリディアに向けて落ち……


「うおおおぉぉぉ!」


 獣のような咆哮は、リディアのものだった。いったい彼のどこにそんな力が残っていたのか、『クラウス』の斬撃よりも、シホの魔法よりも速く動いたリディアは、伸び上がるように『クラウス』に身体をぶつけた。


 リディアの疲弊はシホが見ても明らかだった。当然、『クラウス』が見てもそうだっただろう。それだけに、リディアの行動を『クラウス』は全く予期していなかった様子で、『クラウス』の身体は大げさなくらい、後方へ弾き飛ばされ、石畳の上に背中から倒れた。


 反撃に成功したリディアはしかし、それだけでは済まなかった。『クラウス』を狙ったシホの魔法が、横合いからリディアに直撃したのだ。リディアもまた弾き飛ばされ、石畳の上に転がった。


「リディアさん!」

「来るな!」


 リディアの声は荒い息に半ば消され、くぐもったものだったが、走り出そうとしていたシホの足を止めるには十分すぎる程、攻撃的なものだった。


 シホは、その声の鋭さに、これ以上は踏み込んではいけないのだ、と悟った。ここから一歩先は、彼らの世界なのだ、と。


 彼らの世界。


 すなわち、暴力と破壊の戦場。


 その空気が、シホにも明確に読み取ることが出来た。ここから先に踏み込めば、手を出せば、如何に魔法が使えようとも、戦いに関しては素人のシホは、たった一息の間に命を落とす。そういう場所なのだと悟らさせられた。


 もし、万が一、いまの魔法が『クラウス』に直撃していたら、次に狙われていたのは、自分だったかもしれない。そうなれば、確実に命はなかった。


 恐らくはそれをわかって、リディアは無理やり身体を起こしたのだ。自らの身を挺して、シホへ戦いが拡大するのを抑えたのだ。それがわかった瞬間、シホの視界が滲んだ。涙が溢れて止まらなかった。


「さあ……シホも来たぞ……クラウス」


 ぼやけたシホの視界の中で、リディアが引きずるように紅い魔剣を引き寄せて、立ち上がり、中段に構えた。


「戦いを終わらせよう……お前と、おれで……」

「……どこまでもおれを馬鹿にするつもりらしいな、キサマ」


 リディアの掠れた声に応えたのは、やはりクラウスの声ではなかった。


「キサマの知っているこの男は消えた。消え失せたんだ」


 むくり、と上半身だけを、手も使わずに起こした『クラウス』の顔には、未だに歪んだ嘲笑が張り付いていた。ゆっくりと、完璧な余裕をみせつけるようにして、『クラウス』は立ち上がった。


「キサマがいくら呼んだところで、現れたりはしないんだよ!」


 嘲笑と高笑い。その両方を含んだ、奇怪な笑い声がシホの耳に絡みつく。その不快感を、リディアの声が断ち切った。


「貴様こそ、何度も言わせるな」


 それは確信のような、懇願のような、ただ強い意志に裏付けされた声だった。


「人は、人の作り出したものに負けはしない。絶対に、負けはしない。貴様がどんな力を持っていようと、関係ない。クラウスは、おれは、おれたちは、負けはしない」

「……『統制者』よ」


『クラウス』の顔から表情が消える。無言のまま、剣を倒して、少し後ろへ引いた。それは『一刀必殺』の異名を持つクラウスの得意とする、高速の横薙ぎを生み出す構えだった。


「これで終わりだっ!」


 二人の距離は十歩もない。魔剣の力で強化された『クラウス』ならば、リディアが痛みを感じる間もなく、彼を『統制者』すら復活不可能な程に切り刻むだろう。


『クラウス』の身体が動いた。『統制者』ではないリディアには、防ぎようがない一撃が、迫った。


 シホにも『クラウス』が動いたところまでは見えた。だが、その先は速過ぎて見えなかった。


 それでもリディアは、力のない剣を、ゆらりと突き出した。それは、見て振るっている、という様ではなく、勘で出した一刀に見えた。


「リディアさん!」


 シホは叫んだ。『クラウス』のに、いまにも倒れそうなリディアが反応出来ないのではないか、と思ったからだ。


 そう。シホにも


 目にも映らぬ速さの突進から、横薙ぎと見せかけて持ち替えた、上段からの一撃が。


「……クラウス!」


 本来見えない程の速さのものが、なぜか見えた。


『クラウス』の剣速が、明らかに失速していた。


 リディアが的確に『クラウス』の剣を受け止める。さらに、すぐさまその剣を剣で押し返した。


 拍子抜けする程、軽く押し退けられた『クラウス』が、唐突に叫び声を上げた。その声は先程のリディアに似て、呻き声のような、低く、くぐもったものだった。


「ばっ……」


『クラウス』が言葉とも呼べない奇声を上げ、喉をかきむしるように悶えた。いったい何が起こっているのか、シホにはわからなかったが、リディアは何かを察したのだろう。口元だけが、にやり、と笑みを作った。


「馬鹿な、キサマは……!」


『クラウス』の声が、明らかに変化していた。それも、先程のリディアに似ていた。


「キサマはあああっ!」


 断末魔のような壮絶な絶叫を、『クラウス』が上げた。

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