第6話 呪文

 それは、一枚の絵画のような光景だった。


 石畳の緩い下り坂の先に見えるのは、嵐にうねる暗い海。空は巨大な黒雲に覆われ、白い稲妻の筋が、その一瞬も遠く近くに見えた。道の両脇に並ぶ白い壁の廃屋が、雷光を反射させて強烈な輝きを見せていたその只中、建物よりも高い位置に、


 長身の、がっちりとした体躯の男性。纏った衣類から、それがクラウスであることはすぐに分かったが、のけぞるように宙に舞ったクラウスの身体には、自らの意思で空中にある様子はなかった。強い衝撃で上半身を跳ね上げられた、と即座にわかる身体のしなり具合に、シホが送った視線は、必然と飛翔する彼の真下に向いた。


 そこに、紅い靄が蟠っていた。


 左手に鈍く、紅い光を灯す剣を握り、拳を固めた右腕を天に向かって振り上げた姿勢で硬直した紅い靄は、人の形をしていた。豪雨の中にも関わらず、頭髪に相当する部分が浮き上がり、嵐の強風に煽られているのとは違う、ゆったりとした動きで、ゆらゆらと長く、紅い帯を引いていた。


 鈍く、暗くうねる海と、不規則な白い煌きを見せる真っ黒な空を背景に、墓標のように立ち並ぶ白い家屋の中心で、彫像のように腕を突き上げた紅い人影と、その遥か高みに浮き上がった、身をのけぞらせた男性。およそ全てが現実のものとは思えず、シホは一枚の絵画を見ているかのように錯覚した。


 だが、その錯覚も、身をのけぞらせ宙に舞ったクラウスが、盛大に吐血するまでだった。


「クラウスさん!」


 二十歩ほどの距離があり、しかもクラウスの身体は宙に浮いていたにも関わらず、血を吐いたクラウスの、ぶあ、という声とも、息ともつかない音は、はっきりとシホの耳に届いた。立ち止まっていたシホは叫び、再び駈け出そうとしたが、その一歩目を踏み出すことはなかった。宙を舞ったクラウスのすぐそばに、紅い靄が帯を引いて現れたからだ。


 身をのけぞらせたままのクラウスの位置まで飛び上がった紅い靄は、宙に浮いたその場で前転し、その反動を利用して、のけぞったクラウスの胸のあたりに追い打ちの蹴撃を見舞った。その威力は想像を絶するものなのだろう。信じられない速さで、大柄なクラウスの身体が、石畳の地面に叩きつけられ、落下したその場の石畳が捲れ上がった。雨のせいで土煙は上がらなかったが、石畳の下の地面が抉れて見えた。


 それほどの一撃を受けても、クラウスはすぐさま立ち上がった。それが魔剣アンヴィの力によるものなのか、それともクラウス本人の持つ力がなせるものなのか、シホには判断がつかなかったが、いずれにしても、これ以上戦うのは危険なはずだ、とシホは思った。事実、クラウスは立ち上がりはしたものの、すぐに膝をついて屈み込んだ。手にした銀色の長剣に縋るように身を預け、それでもどうにか立ち上がろうとする。


「とう、せい……しゃあああ!」」


 クラウスが叫ぶ。ほぼ同時に鳴り響いた雷鳴にも、風雨の音にも負けない、強烈な怨嗟の声は、シホの知るクラウスのものではなかった。


 剣を支えに、どうにか立ち上がったクラウスのすぐそばに、再び人の姿をした紅い靄が現れる。咄嗟にクラウスの腕に力が入り、支えにしていた剣を振り上げたが、その一太刀は、あっさりと紅い靄の手にある、紅い刃の剣に弾かれた。


 刀剣技については、ほとんど素人と言っていいシホにすら、それは異常に見えた。クラウスの握っている銀色の長剣……姿を変えた魔剣アンヴィのはずだが、それは物質の質量としてかなり大きなもので、子どもの身の丈にも相当するだろう。対する紅い靄の剣は、せいぜい大人の腕一本分程度の長さしかない。さらに振るわれたクラウスの、厚く、重く、鋭い長剣の一撃を、紅い人影は事もなく弾き続ける。と、幾度目かの一撃を掃った瞬間、紅い靄はクラウスに肉薄すると、その場で回転、遠心力を付けた回し蹴りが、クラウスの胴を横に薙いだ。


 再び大きく跳ね飛ばされたクラウスの身体は、石畳の道に隣接した家屋の白壁にぶつかり、その壁を破壊して、廃墟の中に飛び込んで止まった。


 あれは、誰なのだろう。


 常軌を逸した戦いを目の当たりにし、身動き一つ取ることが出来なくなっていたシホは、ふと、そんなことを思った。魔剣アンヴィに身を委ねたクラウスを、まるで相手にしない強さを見せる紅い靄を纏った人影。顔も、衣服も、手にした得物さえ、輪郭の滲ませた紅い靄が包み込み、それが誰であるのか、判断する材料はない。もちろん、いま、クラウスと対峙しているのはリディア・クレイのはずで、それはこの場に立つまでに、シホ自身、自身の『奇跡』の力で、ずっと『見て』来たのだから、間違いようはないはずだった。


 それにしても。


 それにしても、である。


 紅い靄の動きは、あまりにも人間の動きを凌駕しすぎているように思えた。


 あれが、『統制者』なのだろうか。


「シャアアアああ!」


 不意に響いたのは、クラウスの声をした、クラウスではない何者かの叫び声だった。次いでその声は、くつくつ、と奇妙な、下卑たものの笑い声に変わった。


「よお『統制者』」


 瓦礫と化した廃屋の中から、ゆっくりとクラウスが姿を現す。下卑た笑みを顔に張り付けたクラウスは、とてもクラウスには見えなかった。


「……アンヴィか」


 紅い靄から声がした。その声はまだ、リディアのものだった。


「てめえもそろそろ、人間なんざツブシて、出て来いよ。決着を付けようゼ」


 力なく、だらりと下がった両腕に、引きずるように握られた銀色の長剣。血の気の引いた顔。何も映していないのではないか、と思えるような虚ろな瞳。そのどれを取ってもクラウスは、クラウスではなかった。


「てめえがいる限り、目覚めたところでおれたちに自由はない。てめえだけは、このおれが、いま、ここで、ツブシてやる。他の『領主』も、おれたちの『王』も、てめえをツブシたくてツブシたくて、ジレていやがるんだ。生まれてからこっち、ずいぶんと長え因縁、ここまでやったからには、この場で決着つけねえとなあ!」


 病的な見た目に反して、快活に言葉を紡ぐ異様さに、シホは寒気を覚えた。いっそ猟奇的ですらあるクラウスの物言いは、クラウス本人かどうか、という領域を超え、本当に人間であるのかさえも疑わしい。いや、いま話している『クラウス』の言葉が正しければ、『クラウス』は最早、クラウスではないのだろう。


 シホはリディアに視線をやった。紅い靄に包まれたリディアの、その紅い靄が、まるでくすぶっていた炎に空気が吹き込まれたように揺れ、わずかだがゆらりと立ち昇ったように見えた。何、と思った時、シホが耳にしたのは、謡うような声だった。


 謡うような、流れるような調子の声が、大きくもなく、しかし小さくもなく、降りしきる暴風雨も、雷鳴も、何物の音にも遮られる事なく、まるで別次元の音階を持っているかのように、辺りに響き渡っていった。


 幾度も繰り返されるそれは、何かの呪文のようであった。


「我は魔剣。その力、汝が肉体に宿りて、全てを制さん。我は『統制者』いま、実体とならん」


 瞬間、紅い閃光が走った。

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