椿が落ちる、その前に
佐塚柚子
第1話 天眼
人を殺すために生まれてきた。
人を殺す事が仕事だった。
初めて殺したくない程美しい人間に出会った。
初めて、恋をした。
・・・
「かーなーたあああああっっ」
夏の風が、少し開けられた障子の隙間から吹き抜けてくる。時折風鈴の音が鳴るだけの静かな空間を切り裂くように、
「今日もいらっしゃったのですか。椿殿」
部屋の隅で本を読んでいた
「毎日だってくるよっ。だって俺彼方のこと好きだからな」
にこにこと笑いながら椿が彼方の前にあぐらをかいて座り込んだ。そんな椿の姿はまるで主人に忠実な犬のようだ。
鮮やかな赤色の髪を首の後ろで乱雑に束ね、着ている袴も深紅の羽織もすり切れてボロボロになってしまっている。見た目はみすぼらしいが、椿は精悍な顔をした青年だ。
「彼方っ。彼方は毎日見ても綺麗だなぁ。俺、彼方ほど綺麗な人間は見たことねぇよ」
「お戯れですよ。私以上に綺麗な方など、世の中にいくらでもおります。第一、私は男です」
椿が何度も何度も綺麗だと褒め称える彼方は、椿と違って全身真っ白だ。
真っ白な肌、真っ白な着物、高い位置でひとくくりにされた長く真っ白な髪。一面の雪の中で咲く花のような、儚さと静謐さを併せ持つ美しさが確かに彼方にはあった。
女性のような柔らかさこそないが、ほっそりとしたその肢体は頼りなさではなく彼方の美しさを引き出すだけだ。
「彼方の目に、彼方より綺麗な人がうつったのか?」
「ええ」
「へぇ。じゃあ、彼方の目も、間違えることがあるんだな」
意地悪そうに椿が微笑んだ。
彼方の目は普通の人間とは少し違う。
彼方の目は『天眼』だ。人には見えぬ物が見える天人の眼。壁の向こうの物だけでは無く、千里先の物をも見通し、果てには未来のことや人の心まで見ると言われている。
彼方がつけている目隠しの布はせめてもの気休めだ。目を覆ったところで、彼方は本を読むことも容易くできる。
「彼方はさぁ。そうやって毎日毎日本ばっかり読んでて飽きねえの?」
「ええ。面白いですよ。椿殿も、読んでみますか?」
「俺文字とかそういうの苦手だから嫌だ」
ぷいっと子供のように椿が顔を背ける。その姿に、彼方がまたくすくすと小さく笑った。
人の心をも見透かすと言われている彼方に自ら会いに来ようとする人間はいない。何より彼方は、此の家の主人の一番の宝なのだ。うっかり傷でもつけたら、首を刎ねられるだけではすまない。
だからこそ、こうして気軽に遊びに来てくれる椿に、彼方はとても感謝していた。
「椿殿は、今日はお仕事は無いのですか?」
「最近は戦も減ってめっきり平和な世の中になっちゃたからなぁ。俺のお仕事もさっぱりねえんだよ」
「そうですか」
ほっとしたように彼方が息を漏らす。
椿の仕事は人を殺す事だ。
椿は人を殺すために生まれてきた。
その全てを否定しようとは思わない。彼方とて、主人が自分の『眼』を使って得た情報で何をしているかくらい想像が付く。
それでも、人が死ぬことを彼方は嫌っていた。
そして人を心の底から慈しむ事ができる彼方の美しい心をまた、椿は好いていた。
椿は人殺しの道具だというのに。
人を殺す以外に、椿に存在する価値など無いというのに。
「俺、彼方のこと好きだよ」
「なんですか。藪から棒に」
「いつかさぁ、この家を抜け出して、俺と二人で旅しない?どこかさ、ずっと遠く」
どこか夢見心地に、椿が呟いた。椿がこの話をするのは、何もこれが初めてでは無い。
椿も彼方もこの家の主人の所有物だ。価値があるから売られ、価値があるから貢がれた。此処をでた所で行く当てがないことも分かっている。
椿の生みの親はとうの昔に死んだし、彼方の両親は彼方の『眼』を狙う賊によって殺された。
けれど彼方には足がある。奥座敷に軟禁されていても、鎖で繋がれているわけではない。
「できませんよ。私は、ここから逃げることなんてできません」
けれど、彼方の返事はいつも決まっていた。
「私は、ここで暮らすことを苦だとは思っていません。椿殿がいますから。椿殿をおいていくことなんてできません」
そう言って彼方は、いつも薄く微笑むのだ。布に隠されていない口元だけで、小さく。
「俺は、彼方には何もしてやれねえぞ。俺にできるのは人を殺す事だけだ。人の首を――切り落とすことだけだ」
だって、そのために生まれてきたから。
それだけが、仕事だから。
「けれど私の話し相手になってくれるではありませんか。それに椿殿、私は閉じ込められているわけではありません。私の『眼』ならば、どれほど遠い地の景色だって、人の姿だって見ることができるのですから」
異国の地であっても、私は見ることができるのです、と。
異国の地であっても、私の目は旅をすることができるのです、と。
彼方は子供っぽく冗談のように笑って言った。
「私は十分に恵まれております。これ以上のことを望んでは、罰があたるというものですよ」
「彼方はもう少し高望みをしても良いと思うぞ」
いや、高望みなんてものではない。彼方は、平凡な、当たり前の幸せを望んだっていいはずなのだ。それを咎める理由など、どこにもないはずなのに。
「そうですか。では。分不相応な望みを、口にしてもいいでしょうか」
「えっ。彼方有るの?彼方にお願い事があるの?」
自分で尋ねておきながら予想していなかった返事に、椿が身を乗り出す。
彼方が自分の望みを口にすることなんて滅多に無い。自分ができることなんて限られているが、できることなら何でもしたいと思った。
「私の傍にいてください」
彼方は静かな声で望んだ。
「椿殿が飽きるまで、私の傍にいてください」
静かな声で、願い事を告げた。
彼方の願い事に、椿はぽかんと口を開けて固まった。
「バカ。俺が彼方に飽きるわけねえだろ」
そして、願われた事が不服だと言うように口を尖らせる。望みとして口にしなくては信じられぬほどしか、自分を信じていないのかと。
「俺は彼方のことが好きだよ」
「ええ。私も椿殿の事が」
「彼方。久しぶり。遊びに来たよ」
彼方の声をかき消すように、縁側から明るい少年の声が聞こえてきた。
二人にとっても聞き慣れた声に、椿が縁側にむかって飛びついた。
「おいコラ
折角彼方が珍しく望みを口にしてくれたというのに。折角彼方が自分に好意の言葉を伝えてくれそうだったというのに。
椿が不満の言葉をぶつけるが、千夜は素知らぬ顔で縁側に上がると椿を押しのけて部屋に入ってきた。
「狙って来たに決まってるだろ。一つ屋根の下にいるからっていって、彼方のこと奪わないでくれるかな?彼方はボクのものなんだから」
「何だとコイツ」
「彼方っ。久しぶり、元気だったかい?」
「はい。お久しぶりです。っといても、一昨日にもいらっしゃいましたよね」
「やだな。ボクだって彼方には毎日会いたいんだから」
千夜もまた彼方の元によくやってくる来客の一人だ。同じ主人のものである椿は毎日彼方の部屋にやってくるのに対し、千夜は一日二日と日があくことが多い。
椿を赤、彼方を白とするなら、千夜は黒だ。名前の通り千の夜を合わせたような闇色の髪を伸ばし、着ているのは無地の真っ黒な浴衣だ。それも何故か男物ではなく女物である。陶器のような肌の色と合わさって、それが似合ってしまうのが恐ろしい。日の光が苦手といい、いつも黒の番傘をさしている。
「つーか、お前は仕事しろよ」
「嫌だよ。彼方に会いたいし。それにあそこ一人っきりだし退屈だよ」
「お前は『川守』なんだから、しょうが無いだろ」
千夜は『川守』だ。
川の側で、正しく川を渡ることを見守るのが仕事だ。時には迷子の世話も仕事になる。川を訪れるものはひっきりなしに来るため、仕事に休みは基本無い。
とはいえ、千夜はほいほいと彼方に会いに来るのだが。
「お仕事はしなくてはいけませんよ?」
「はーい」
「千夜、俺の時と反応が全く違うんだが?」
「当たり前だろ。むしろなんで椿みたいな人殺ししか能がない奴と彼方が同列に扱われると思ったの?馬鹿なの?」
今すぐ殴りつけたい衝動を必死にこらえる。椿と千夜が喧嘩をすることを、彼方は嫌うのだ。彼方に嫌われたくないし、彼方が嫌がることをしたくもない。
まあ、千夜がむかつく事には変わりないのだが。
椿から離れて彼方の隣に、千夜がちょこんと腰を下ろす。千夜も十分美しいという言葉が似合う容姿をしているが、少しも椿の心が動かされない。やはり見た目ではなく心の問題なのだろう。
「一応迷子が来たら分かるように仕掛けてきたから大丈夫だよ。ボクだってお役目を投げ出したいわけじゃないからね」
「だったらとっとと川に帰れ」
「彼方。それより聞いて欲しいことがあるんだけど」
椿の声をあっさりと無視して千夜は彼方に話しかける。彼方を大切に思う千夜にとって、同じ屋根の下で暮らす椿は嫉妬の対象だ。できればとっとと出て行って欲しい。今すぐに。
「そろそろボクが働いてる川の側で蛍が見頃なんだけど、彼方見に来ない?ボクが案内するよ」
「蛍ですか。いいですね。・・・でも、残念ながら私は此の家を出るわけには」
「そんなの気にする必要ないよ。ちょこっとくらいならバレないって。ねー、いいだろ彼方。そこの邪魔者は置いておいて」
「千夜。お前ホント一回マジで首斬っていい?いやもうスパッと。苦しむまもなく斬ってやるからさ」
笑顔で椿が首を斬る動作を繰り返す。千夜は肩に置かれた椿の手をゴミ虫を見るような目で睨みつけた。あ、ホント斬りたい。
「彼方。この乱暴者がボクの首斬るとか言ってるんだけど。最低だよね。屑だよね。こんな奴やめてボクの側にいたいよね」
「千夜っ。何さらっと彼方口説いてるんだよ。やめろっ」
「は?って、ちょっと掴みかからるなよっ。離れろっ。髪掴むなっっ。折角彼方に会うために綺麗に解いてきたのにっ」
「仕事しろよっ。乙女かお前はっっ」
二人が髪を服を引っ張り合っては取っ組み合う。精悍な顔つきの青年と、少女と間違う程に美しい少年が子供のように喧嘩をしている。その様子に、彼方は袖で口元を押えながらくすくすと笑いだした。
「お二人は、まるでご兄弟のようですね」
「「コイツと兄弟なんてまっぴら御免被る(よ)」」
重なった声に二人が顔を見合わせてはもう一度掴みかかる。
そのようなところが兄弟のように見えるのだと告げればますます喧嘩が加速しそうで、彼方は心の中だけで呟いて笑った。
「彼方彼方彼方っ。このケダモノ、本当に無粋で野蛮だと思わない?ボクみたいな綺麗な顔に傷つけられるなんて、神経疑うよ」
椿から離れた千夜が彼方に隠れるように逃げてきた。椿に引っ張られてぼさぼさになった髪を、ぶつぶつと不満を漏らしながら手櫛で解いていく。
そんな千夜に神経を逆なでされたように、椿が叫んだ。
「自分で自分を綺麗なんて言う奴にロクな奴がいるかっ。つーか一番綺麗なのは彼方に決まってるだろ!」
「え」
「はぁ?そんなの天地神明に誓って、森羅万象の理に従って当たり前のことじゃないか。なんで当たり前の事をわざわざ椿なんかに言われなくちゃいけないのさ。この世で一番綺麗なのは彼方で次が
「あ、あの」
「彼方と、百歩譲って千歳姉さんまでは認めてやる。でもその次がお前なんてあり得るかっ。鏡見ろっ」
「椿こそ目玉外してしっかり洗い流せっ」
彼方の声を無視して二人が言い争いを続ける。取っ組み合いの喧嘩の次は口喧嘩だ。
「あ、あのお二人とも。私が一番なのは何かの間違いですよ。私なんて、千夜殿にも、まして千歳姉様にも及びませんから」
二人に聞かせるように彼方が珍しく声を大きくする。
千歳は千夜の育ての親だ。彼方も何度か会ったことがあるが、世辞でもなく本当に綺麗だと思った。全てを見通す彼方の天眼でも、これほどに美しいと思う者は滅多に映らない。流れる、澄み切った水のようなのだ。千歳に育てられた千夜が、千歳の子供として恥じないように己を美しく磨こうと思う気持ちもわかる。
そんな千歳より自分の方が美しいなんてそんなそんな。
彼方が手を首を横に振るが、二人は彼方が何を言っているか分からないと言いたげな表情だ。
「え、いや彼方が一番綺麗だろ」
「ボクも今まで一番綺麗なのは千歳姉だと思ってたけど彼方に出会って考えが変わったよ。一番綺麗なのは彼方だ」
「お、お二人とも?」
綺麗と言われることが、けして嫌なわけではない。複雑な気持ちも確かにあるが、褒めてもらえる事は単純に嬉しい。彼方の眼には二人の言葉が嘘偽りでも世辞でもないということが文字通り見えるのだし。
けれどだからこそ、嘘偽りでも世辞でもないとわかるからこそ、どうすれば良いのかわからなくなる。
「お二人は、その、もっといろいろな人を見て回った方が良いと思います。私にばかり会いに来るから、普通程度の私が一番綺麗に見えてしまうのです」
彼方だって自分がどうしようもないほどに醜いとは思っていない。普通。好みによって普通よりちょっと良いくらいだと思っている。
「いや、俺これでも今までは結構いろんな所旅してきたぜ?まあ戦場ばっかりだから殆ど死んでたけど」
「ボクは確かに仕事場に来るのは老人ばっかりであんまり若い人は来ないけど。千歳姉に育ててもらってきてるんだよ。眼はかなり肥えてる自信があるね」
「いえ、それにしたって私が一番など」
ぴしゃっと、彼方の言葉を遮るように、わずかに開いていただけの障子が開け放たれた。
三人でそちらを見る。そこに立っていたのは、この家の主人の従僕であった。従僕といっても、本当に雑用のためだけに雇われた下僕たちが他にもいる。この従僕の主な仕事は主人の小間使いで、主人の目によくとまるからと立派な服を与えられていた。
「こい。仕事だ。さっさとしろ」
大きなお屋敷の権力のある主人に仕えているという自負の表れだろうか、彼方への態度は随分と高圧的だ。従僕の態度と言葉遣いに、椿も千夜も不機嫌さを露わにする。
「アイツ」
「大丈夫です。それにしても、仕事が入ってしまいましたね。これ以上はお相手ができずに、申し訳ありません」
「いいよ。ボクたちのことは気にしないで、お仕事頑張っておいで。ボクもそろそろ仕事に戻るとするよ。椿なんかと二人っきりにさせられたらたまらないしね」
「テメエ」
「早くしろっ。ご主人様がお待ちだっ」
再び喧嘩が始まりそうになったが、従僕が荒げた声に二人とも興ざめだといった様子で息を吐いた。
彼方は静かに立ち上がり、そのまま静かに従僕の後ろについた。眼を隠しているにもかかわらず、やはりその動きに迷いやふらつきはない。
「ふん。相変わらず、気味の悪い奴だ。こんな狂人、ご主人様の所有物でなければ」
ぶつぶつと従僕が不満を漏らす。それ以上は怒り狂った椿や千夜が今度こそ本気で襲いかかりそうだからやめて欲しいと彼方は思った。
数少ない大切な友人の怒りに染まった表情なんてあまり見たいものではない。
彼方は確かに主人の所有物で、宝物のように扱われている。けれどそれは、あくまで全てを見透かす道具としてだ。貴重で、希有で、それ故に価値がある。主人にとって一番珍しく特別な道具だ。この男も、他の召使いたちもそれはわかっているから決して雑には扱わない。そうしてうっかり傷をつけて壊してしまったらたまったものではない。
けれど彼方をよく思ってはいないのだ。
不気味だ不気味だと、皆口を揃えてはそう言う。あんな妖怪が、同じ家の中にいるのは耐えられない。地下に繋いでおけ。いっそ目玉だけで使えたらどれだけいいか。
それはどれもひそひそとした陰口で、あるいは心の中で願ったことなのだが、残念ながら彼方にはそれら全てが見えてしまうのである。眼をそらそうそらそうとしても、眼に入ってしまうものはしょうがない。
ひたり、ひたりと従僕の後をついて行く。初夏の暑さが肌に纏わり付いて気持ちが悪い。今日は何をさせられるのだろう、何を見せられるのだろう、考えても無意味だとわかりながらも、ぼんやりと彼方は考えていた。
そして
(蛍)
先ほど千夜に聞いた言葉を思い出した。
醜いものは、できれば見たくない。望みが許されるなら、美しいものを見ていたい。
「っ」
ふっと、彼方は眼を飛ばした。視界を今いる屋敷の廊下から、河原に移す。閉じたまぶたの裏には昨日の夜の河原の様子が映っていて、その中をちかちかと淡い黄緑の光を放ちながら蛍が飛んでいた。
その景色を心にとどめて、彼方は眼を開いた。そこには自分が立っている廊下がある。視界が酔ったようにくらりと揺れた。流石に場所も時間も違う所を見るのは疲れる。今から仕事だというのに、体力を使うべきではないことくらいわかっていた。けれど、どうしても今、美しいものを見たいと思ったのだ。
(私の目は、どこに居ても、どんな場所の景色だって見通せる)
なのに
『彼方、見に来ない?ボクが案内するよ』
視界に映る景色は同じはずなのに。
(どうして、一緒に見に行きたいなどと、思うのでしょうか)
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